還暦前の気付き ④ お参り

 第一回は「葬式」、第二回は「サラリーマン人生」、第三回は「お布施」についての気付きをシェアさせて頂いたが、今回は「お参り」について・・・。これも、最近、誕生日を迎え(FB上でなんと200名近い方々からお祝いの言葉を頂き深謝!)、「還暦」が、いよいよカウントダウン段階になった自然の成り行きなのかもしれない。ただ、若い方には、小生の「還暦の気付き」を遠い他人事とは思わず、できるだけ若い内からこそ少しでも日々、身近に意識してみて頂けたら幸甚である。 

若い頃、神社に「お参り」に行った時は、必ずと言っていい程なにか「お願い」することがあった。受験、恋愛、結婚、転職、子供の進学、親の健康など・・・。「希望校に入学できますように」とか、「身内の手術が上手くいきますように」とか・・・。基本、ずっと一貫して己(エゴ)の我儘をお願いしてきた。そして、15年ほど前に実父が亡くなり、御先祖さまの眠る松山のお墓の前で手を合わせる機会が増えてからは、墓前では一層「お願い」ばかりをしてきて、それが当然だと思っていた。 

しかし、さらに歳を重ねてくると、自らの進学も出世も「お願い」(=神頼み)する事が激減してくる。そもそも自分自身の限界もそれなりに自ら悟ってくるし、次の世代の子供も巣立って、勝手(いい意味で)に別の人生を歩み始めている。 そもそも、歳をとってきて、何故か、この「神頼み」って、何かが違うのではと気付くようになってきた。そして、ある本を読んでいたら、実は、本来、お参りする目的は、こちらの近況「報告」をし、そして無事(大事なく、普通)に生きている事へ「感謝」をし、究極的には、あちらの神様ご先祖さまに、こちらでできる事をお伺いするべきことなのだとか・・・。

 日本には亡くなった方々を祀る文化があり、その文化と神社との歴史的ルーツは「知識」として理解しつつ、初詣の参拝などに対して清廉なポジティブなイメージがある。一方、肉親との死別を体験するまでは、お墓は縁遠いものであった。今でこそ、亡父の誕生日と命日の年に2回(丁度、ほぼ半年毎な事もあり)は四国にお墓参りに行く様になったが、正直言って、それまでは、世代的にも「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマ曲の「運動会」の暗いネガティブはイメージがあり、怖く、あまり近寄りたくない所であった。しかし、最近は、この年に2回のお墓参りが楽しみになってきているのである。わざわざ東京から飛行機に乗って、忙しい時は日帰りになってしまうのが多いにも関わらず、である。まさに「千の風になって」の歌詞の様な清々しさを感じられる。 そして、手を合わせて、もはやあまり「お願い」をしていない自分に気づく。

そもそも「出世したい」とか「金持ちになって豪華な車を所有して、豪邸に住みたい」となんか全く思わなくなった。それよりも、「会社」のみならず一層「社会」にどうやって微力ながらも貢献できるかをお参り前に熟考し、実行しみて、それを御報告している内に、自分の中で何かが整理されすっきりしてくる場合が珍しくない。「お告げ」っていうのではないのであろうが、墓前で決心した事で悔やんだことはない。これはもしかして、あちらの世界の方々が、世の中にこうなって欲しいと思っておられたことに沿っていたからかもしれないと勝手に思っている。そして、結局は、普通の当たり前な生活に心の中で、日々「感謝」する大切さを、今回のコロナ禍で、この歳になって改めて強烈に気付かされた。

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