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大学受験に「勉強」はいらない【高校教員のひとりごと】

「大学に行こう!」と決めた時、当然のように受験勉強のことが頭に浮かんでくる。
私も大学に進学する時はとにかく勉強をして、受験に臨んだ。合格した時の感動はひとしおだったが、よく考えてみたら「勉強」はいらないのかもしれない。

一般選抜の比率が50%を切ったことが一時期ニュースになっていた。
総合型選抜/推薦型選抜(旧AO入試/推薦入試)の比率が増大していることに対して、賛否両論が起きた。
反対意見としては、「学力という平等な指標でないと家庭間での格差が生まれる」という意見が散見された。

しかし、一般入試は本当に家庭環境に左右されない入試かと言えばそうではないと思う人がほとんどだろう。大学受験に向けた勉強も塾に通うことが当たり前になっており、家庭の世帯収入に大きく左右をされている。学費が安いことも魅力の一つである国立大学も、私立大学よりも入学者の世帯年収が高いという逆転現象が起きている。
全体としては比率の少ない「お金はなかったが、自学自習のみで合格した人がいること」を入試の平等性が担保されていることと主張する人もいるが、全体の傾向としては世帯年収が高い人が有利であることは疑う余地はないだろう。
結局、多くの人が自身の経験した一般入試を神格化したいのではないだろうか。「自分は平等な入試を受けて、その中で合格をしたからすごいのだ」という風に自分自身を正当化したいのではないだろうか。自分とは異なる努力の仕方をした人を「ずるい」ということで自分の正当性を担保したいだけではないか。

一般入試の神格化としてよく登場するのが、「学力を身につけるための努力ができることの証明になる」「定められた能力を身につける力がある」というような意見がよく出てくる。私自身もこれには大きく賛成である。求められている指標に向けて効率的に、あるはがむしゃらに努力をする力は社会に出ても大いに役に立つ能力である。
しかし、この時点で既に「学力」そのものを身につけているかどうかを指標にしていないのである。
総合型選抜等と同様の、「総合的に見たその人の能力」である「努力できる力」を見てしまっているのである。
「学力」そのものについては、大学入学後は多くの人がそもそも見ておらず、結局は「努力できる力」や「経験」を見ているのだろう。

だからこそ、やはり今当たり前になっている「大学受験のための勉強」は必須のものではない。むしろ種々の経験をする中で未来について考えていくような力を磨いていくべきである。
一般選抜が主流な内は、求められている力として、「大学受験=勉強」と認識して問題がなかったかもしれないが、一般選抜は主流ではなくなっている。大学が求めている受験生の資質が変化してきていることも踏まえ、大学受験への考え方も変容していくべきなのかもしれない。

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