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【映画解釈/考察】『ゼロの未来』(2013) 「 ゼロの定理とパノプティコン(監視社会)」

『ゼロの未来』(2013) テリー・ギリアム監督


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 2020年、日本でもやっと『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』が公開されました。普通の監督であれば、映画史上稀に見る難産で、公開までこぎつけることはなかったと思いますが、この作品も、年齢を感じさせない情熱にあふれた、現実と非現実が錯綜するギリアムワールドを堪能することができます。結局、紆余曲折の上、キホーテ役を、ジョナサン・プライスが演じることになりました。

 ギリアムとジョナサン・プライスといえば、何と言っても、『未来世紀ブラジル』(1985)です。この作品は、オーウェルの「1984」を想起させる監視社会が舞台になっていますが、圧倒的な世界観で、テリー・ギリアム監督の代表作です。名作にもよくあることですが、本作でも、パイロット版からラストが追加で変更されています。

 そして、続編やリメイク(リブート)とは言っていませんが、この作品と設定とラストが、(意図的に?)、重なる作品が2013年に公開されたギリアム監督作の『ゼロの未来』です。

 代表作である『未来世紀ブラジル』の内容に、アナログの映像感を残しつつ、最新の哲学を加えた2010年代版の『未来世紀ブラジル』を彷彿される作品で、さらに、より寓話的なストーリーになっています。

今回は、この『ゼロの未来』を考察します。

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(現在、Amazon prime video プライム会員特典で視聴できます)

※ここからは、ネタバレが大いに含まれた内容になっています。

 本作は、同じテリー・ギリアム監督の 『未来世紀ブラジル』同様に、監視社会がテーマになっており、同様のテーマを2010年代現在で、捉え直した作品という印象を持ちます。

 特に、ラストがとても手が込んでいて、エンドロール(クレジット)の最後に再び監視カメラが設置されている場面で終わります。

 これは、『未来世紀ブラジル』でバットエンドが追加されたことへのオマージュ的なものを感じますし、結論から言うと『未来世紀ブラジル』同様に、この映画が、バットエンドであることを暗示しています。

1 .マンコム社とパノプティコン

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 この作品において重要なアイテムである、コーエンの家に設置される監視カメラの存在が、哲学的用語で言う‘パノプティコン’を表象したものであることは明らかです。

 ‘パノプティコン’とは、功利主義の哲学者ジェレミ・ベンサムによって考案された、管理棟の周りに囚人たちの監獄部屋を設置することで、囚人全員を常に監視するシステムが基になっています。

 特に重要なのは、囚人からは管理棟に人がいるかどうかが見えないようになっており、常に監視されているかもしれないという心理的な圧迫によって規律(安定)が保たれるという点です。

 哲学者のミシェル・フーコーは、この監獄のシステムの考察をもとに、近代以降、国家(体制・権力)によって監獄だけではなく、学校や家族制度などを通して知らず知らずのうちに社会や個人が監視されていることを明らかにしました。

 社会を支配するそのパノプティコンは、科学技術の発展が進むにつれて、懲罰による規律管理型から情報システムによる環境管理型へと比重が移行します。

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 現代社会においては特に、インターネットによる影響が顕著で、もっと言えば今後、人工知能の影響が増加するものと考えられます。

 それは、現代のほうが、よりパノプティコンを管理する者が見えにくくなっていると言えます。

 この映画の中では、 マンコム社の代表者である「マネージメント」がその管理者にあたり、まさに見えにくい存在(実際に存在している人物かどうかも、疑わしい存在)として描かれています。

 例えば、パーティー会場でのコーエンとの遭遇の仕方もそうですし、上司であるジョビーは見えてはいけない存在だと言っています。

 また、息子のボブは父親のことを「帝国軍のダース・ベイダー」とも呼ばれていると表現していますが、これは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「帝国」を連想させます。これは、「マネージメント」が、国家の権力や監視が及ばない経済やインターネットを通したグローバルな体制(権力)の代表者を暗示しています。

そして、マンコム社の存在は、具体的な管理システムを表象しています。
 映画の冒頭で、マンコム社が、情報や価値観が多様な社会に安定を提供するためにあなたをナビゲートしますと宣伝しています。

 近代においては、国家が「大きな物語」 (共通の価値観)を提供することで、人々の規律を管理する事ができましたが、現代(近未来)においては、「小さな物語」(乱立した価値観)が氾濫し、人々は混沌とした社会に生きています。

 そこで、マンコム社のような、「小さな物語」を人々を提供し、安定をもたらしてくれる存在が必要になります。
 
 現実世界においても、GAFAMを代表とするIT企業によって、私たちの生活が、かなりの部分で影響をうけています。

 具体的には、私たちの過去の選好データーに基づいて、絶えず、おすすめの商品・記事・動画・場所などが送られ、それを無意識に選択することによって、生活や行動が支配されています。


2 .エンティティ解析

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 この映画には、いくつかの大きな謎がちりばめられています。

 まず、第一に、マンコム社のプログラマーである主人公のコーエンが何をしているかという謎です。コーエンは、ゲーム機のようなものを操作しながら、超限的背理(帰納法)を行っていると言っています。

 超限的背理とは、部分集合の中で公理が真であることを証明することです。これは、「小さな物語」が正しいことを証明することで、安定をもたらす作業ではないかと考えられます。

また、その他にも、コーエンは、存在意義解析チームに所属していて、コーエンの操作するマシーンには、6つのカテゴリーがあり、コーエンは、エンティティ(存在)解析を行っているという設定があります。

 マイケル・ガブリエルの「新存在論」においては、一つのものが、それぞれの見方によって、それぞれに存在していると考えられています。もっとわかりやすく言えば、同一のものであっても、物理学、生物学、社会学、経済学、哲学、文学(空想)のそれぞれのカテゴリーで、それぞれの中に存在意義(本質)や定理が存在するという理論です。

 言い換えれば、一つの物の普遍的な存在意義(定理)を証明することはできないが、それぞれのカテゴリーごとにおいては存在意義(定理)の証明は可能であるということです。

 そして、コーエンたちの解析結果は、巨大な中央装置(ビッグデータ)に集積されます。

3 .ゼロの定理の証明

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そして、二つ目の大きな謎は、ゼロの定理とは何かという謎です。

 簡単に考えれば、今ある宇宙はいずれなくなってしまうから、今あるものすべては、無であるということになりますが、重要なメッセージになっているのが、冒頭から何度も出てくるブラックホールです。ブラックホールとは、密度が無限大でなおかつ無限小、終わりとともに始まりをもたらす膨大なエネルギーをもつ特異点であり、まったくゼロではありません。

 また、ニュートリノの話が出てきますが、ニュートリノの質量が0であるという定説が、覆された話が出てきます。

 また、ゲーデルの不完全性定理によれば、どのような公理システムにおいても、その内部に証明することのできない命題が必ず存在することになります。

 そして、新しい哲学の主流であるカンタン・メイヤスーの思弁的存在論によれば、この世界のすべてのものは、「偶然性の必然性」を持った存在であり、現在において絶対性を持っている定理でさえも、ある日突然覆る可能性を必ず持っていると定義されています。

 つまり、普遍的とされている定理は、偶然的に一定期間でのみ成立している定理であると主張するものです。

 これは、ゼロの定理が、すべての存在が無であることを示す定理でさえもなく、ゼロが、100パーセントになることも決してないという、定理自体が存在しないに等しいことを、意味しています。
 
 従って、ゼロの定理とは「カオス」と同義であり、「マネージメント」はこの真実を知っていて、ビジネス(支配)を行う存在として描かれています。

つまり、マンコム社は、普遍的な真理や存在意義を失った「カオス」な状態の社会の人々に、それらを忘れせる「小さな物語」(虚構の現実)を与えることで、安定をもたらす役割を持った監視社会システムそのものを表象したものと言えます。

4. コーエンの待つ「電話」

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そして、3つ目の大きな謎が、コーエンが、なぜ「電話」を待ち続けているのかという謎です。これは、不条理演劇の代表作『ゴトーを待ちながら』を連想させ、コーエンは、世界の本質(定理)などないのにも関わらず、それが存在することを必死に信じようとしています。

 不条理とは、アルベール・カミュ曰く、本質(定理)の存在を信じることによって、もたらされるものであり、コーエンは、「電話」を待つことによって精神を病んでいる人物として描かれています。

 「カオス」の中にいる人は、ふつう普遍的な行動規範や「私」という存在意義(本質)を失った(名前が意味を持たなくなった)人々であり、その結果「虚無感」や「不安」におそわれます。マンコム社はそれを利用して、それらを考えなくてもよい様に支配を行っています。

 しかし、マンコム社のコントロールが効かない人物がコーエンで、その原因が、彼が信じて待ちつづけている「電話」です。

 その「電話」とは、自分の存在意義(本質)を教えてくれる電話であり、コーエンが一人称を「我々」と表現するのは、普遍的な真理、定理(本質)を信じているからです。

これは、一方で、コーエンが1カテゴリーの存在意義解析官としては適任であり、またダークエネルギ(不安・恐れ)を蓄積する人物として、「マネージメント」の格好の研究材料となっていたわけです。

5 .コーエンの結末とカメラの存在

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「マネージメント」はコーエンをコントロール下に置くために、いろいろな施策を打ってきます。 まず、家に監視カメラを置きます。

 そして、パーティに呼びだし、偶然を装ってベインズリーに会わせます。パーティの人々は、タブレットを持っており、恐らく「マネージメント」の指示を受けていると思われます。ベインズリーも「マネージメント」の指示に従って行動しています。おそらくデーターからお互いが惹かれあうことが計算されていたはずです。

 また、仮想現実につながる奇妙なスーツを送られ、コーエンの意識や無意識をデーターと収集し始めます。

 前述の通り、コーエンの抑圧された無意識の中には、長い間「電話」を待ち続けたために、膨大な「虚無感」と「不安(孤独)」が蓄積されています。

そして、最後に「マネージメント」から、コーエンが信じて待ち続けた「電話」や「定理」=存在意義(本質)が存在しないことを明らかにされ、絶望したことで、溜め込んでいた「虚無感」と「不安(孤独)」の膨大なダークエネルギーの大爆発を起こします。

 そして、コーエンは「我々」も「私」も捨てて、仮想現実で、ベインズリーと結ばれることを選択します。

これは、「マネージメント」の監視下から逃れるために助けようとしてくれたベインズリーやボブの懸命の行動にもかかわらず、最終的に、コーエンは、マンコム社の完全な監視下に落ちてしまったことを意味します。

つまり、これが、最後のエンドロールの監視カメラが暗示している内容であると考えられます。

6  コーエンの結末と意識の存在

ただ、この映画は、もう一つ、ハッピーエンドの解釈も成り立つようにも描かれています。『未来世紀ブラジル』がそうであるようにです。

その根拠として、ブラックホールが、繰り返し登場している点です。

ブラックホールは、定理を覆す特異点としても解釈できますが、もう一つ、脳と意識の関係を意味するものとしても解釈できます。

意識の存在は、まだ解決されていない問題の1つですが、この意識の存在の答えの1つとして、脳の中に、特異点(ブラックホール)が存在し、意識が別次元に存在するという考え方です。

これに似た解釈ができる作品として、『バスターの壊れた心』があります。

同じく、別次元にある、愛する人のいる島に転送されるところで、映画が終わっています。





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