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【映画解釈/考察】スティーブン・ソダーバーグ監督『セックスと嘘とビデオテープ』「女の虚像に囚われた男と、視線の反転による開放」

『セックスと嘘とビデオテープ』(1989)

1.スティーブン・ソダーバーグ監督の映画作家としての凄み

  スティーブン・ソダーバーグ監督の長編映画デビュー作にしてカンヌ国際映画祭パルムドール受賞作でもある『セックスと嘘とビデオテープ』は、刺激的で挑発的なタイトルとは対照的に、男女関係を哲学的に捉えた、論理的なストーリーが展開されるプラトニックで、精神分析的な作品です。

 そして、この作品だけで、ソダーバーグ監督の映画作家としての凄みを、充分実感することができる、そんな作品です。




  個人的に、ソダーバーグ監督の名前を意識するようになったのは、アカデミー賞で『エリン・ブロコビッチ』と『トラフィック』の2作品が作品賞に同時ノミネートされ、日本で、ほぼ同時期に、公開されたことがきっかけです。

 『エリン・ブロコビッチ』は、アカデミー賞らしい、社会派エンターテイメント作品で、ある意味ハリウッド映画の監督として申し分のない仕事ぶりを発揮している作品です。

 一方、『トラフィック』は、明らかに大衆向けではない硬派な作品で、社会派ドキュメンタリーに近い作風です。しかも、実験的な映像作品としての一面も垣間見れます。

 そして、この作品で、ソダーバーグ監督は、アカデミー賞監督賞を獲得していますが、この作品にも、それ以後の多くの作品に見られる特徴が、顕著に見られます。

 それは、映像によって、一般的に見落としてしまっている社会や人間の一面を炙り出そうとする、鋭い洞察力です。これが、ソダーバーグ監督の随一の作家性に繋がっていると思います。

 『トラフィック』の鑑賞後、衝撃を受けて過去の作品を探すことになるのですが、そこで見つけたデビュー作に、さらに衝撃を受けることになります。デビュー作以降、あまりヒットに結びつかなったわけですが、先に書いたように、一般的に、日常に潜んでいて、見落としてしまいがちな事象に目を向けているために、大衆受けしない作品がいくつか存在しているのも事実です。

  このため、アカデミー賞受賞以後は、『オーシャンズ』シリーズのようなエンターテインメント大作なども挟みながら、毎年のように作品を公開していくことになります。

 ジャンルも、社会派からサスペンス・ホラー、エンタメまで広範囲でで、本当に器用で、多才で、引き出しを多く持った監督だと言えます。

 ただ、多作のため、少し一本一本の印象が薄いような気がしますし、退屈な作品と評価されがちなものも、いくつかあります。しかし、今後も、『コンテイジョン』のように、後で再評価されるような作品が、いくつか出てくるかもしれません。


 ここからは、低予算の中で、スティーブン・ソダーバーグ監督の鋭い洞察力と論理的なプロット、そして実験的な作風が存分に発揮されているデビュー作『セックスと嘘とビデオテープ』の内容を詳しく見ていくことにします。

 ※ここからは、ネタバレの内容を含みます。



2.男女をめぐる哲学的な構図

この映画のストーリーを読み解く上で、とても重要な鍵となるのが、グラハムの新居探しに行った帰りに寄ったレストランでのアンとグラハムの会話です。グラハムは、その中で、「恋をすると、男性は女性の望む男性になろうと努力するが、女性はより魅力的な女性になろうとする」という引用です。この男女関係に関する哲学的な構図がアンとグラハムが抱える問題の根幹も原因にあります。つまり、男性が女性(小文字の他者)が抱いていると思われる男性像に近づこうとするのに対して、女性は理想とする女性(大文字の他者)に近づこうする対照的なベクトル関係が存在し、それが、アンとグラハムを苦しめる、または前に進めない原因になっています。

 もう少し付け加えると、女性は、男性に、理想とする女性像(大文字の他者)にとって相応しい演技を求めます。特にそれがよく表れているのが、夫ジョンの浮気を疑って尋問している場面で、ジョンがアンに対して紳士的な対応を見せ始めると、急に矛先を収めて、夫ジョンに疑ったことを謝罪し、良き妻の役に再び戻ります。

3.アンを支配する虚像と揺るがす視線

それでは、ここからは、主人公アンを支配している理想の女性像=虚像(大文字の他者)について考えます。先ほどのレストランの中でも、グラハムに相手の視線を気にしすぎことを指摘されています。それは、大文字の他者=象徴界にかなり支配されていることを意味します、この映画の冒頭に出てくるカウンセリングは、このことを原因とする強迫神経症だと考えられます。そして、グラハムを迎え入れる場面においても、それがよく表れていますが、彼女が良き妻であり、淑女である自分を無理をして演じている場面が映画の所々にカットインしています。彼女が住む家自体が、この理想像=象徴界を体現したものとなっています。

 もう一つ、興味深いのはアンを支配している理想像(大文字の他者)に影響を与えているのが、妹のシンシアの視線です。アンは、アンの理想の女性像(大文字の他者)とは対照的なシンシアのことを悉く否定していますが、これとは裏腹に、妹のシンシアの視線を大いに気にしています。一方で、妹のシンシアの方も、同じことが言えます。姉のアンの選択について悉く否定をするのにも関わらず、常に姉のアンの視線の先を気にしています。夫ジョンやグラハムを誘惑するのは、姉のアンの視線の先を気にしているためです。実は、アンとシンシアの姉妹はお互いの存在において共存関係であることが読み取れます。

 アンの方に話の中心を戻しますが、ここでの重要なポイントは、なぜ妹のシンシアのことを否定しなければならないのか、またはなぜ妹のシンシアの視線を気にしなければならないのかということです。それは、前述の通り、アン自身が、良き妻や淑女という女性像からはみ出さないように、神経症的に何かを抑えていることに原因があります。

 その何かとは、本能を含む、実存そのものといえるようなものです。妹のシンシアの姉アンに対するいら立ちは、この何かをひたすら否定し、隠そうとすることに対してのものであり、そのため、夫のジョンやグラハムに接近し、わざわざ、そのことを仄めかしたり、報告をしたりするのです。

 そして、そこにグラハムの視線が、さらに加わります。グラハムの視線は、アンの視線を探ろうとする視線です。これだけだと、カウンセラーと同じ構図ですが、グラハムの視線には、(擬似)恋愛の眼差しが含まれています。

 最初のレストランでの会話で、セックスは重要ではないというアンに対して、セックスのないカウンセリングは信用できないというグラハムはします。アンは、グラハムに対して、論理で反論しますが、その言葉とは裏腹に、アンは、グラハムの視線を気にするようになります。

 もう一つ、タイトルにもなっている嘘についてですが、一見、弁護士である夫ジョンのような、言葉と行動が異なっていることを指しているように思われますが、アンのように実存(欲動)を隠していることを指していると考えられます。

なぜなら、最後に、夫ジョンは、ビデオテープを通して、妻であるアンの自分への愛(欲動)が嘘であることを知るからです。

4.グラハムが囚われている視線と見つからない実像

ここからは、グラハム側から考えます。このストーリーの最大の謎であり、この作品の軸ともいえるのが、グラハムがなぜ女性の性に関するインタビューを、ビデオテープに取り続けているのかという問題です。この作品を奥深くしているには、グラハムが変質者ではなく、アン同様に、精神的に追い詰められている存在として描かれている点です。

 最後の方で、グラハムがビデオテープを撮り続けるのが 、学生時代に交際していたエリザベスの愛を失ったことが原因であったことが明らかになります。しかも、それは、数年間にも亘って、今もなお、グラハムがエリザベスの視線に囚われ続けていることを意味しています。

 グラハムにとっての嘘とは、エリザベスを愛していたにもかかわらず、エリザベスの愛にふさわしくない行動をしてしまったことを指します。そのため、グラハムはエリザベスの愛を失ってしまったと考えており、エリザベスに愛されるにふさわしい男性になることを模索します。その方法として、ビデオテープを撮るという行動に結びついたと考えられるのです。

 しかし、ジョンがらエリザベスに関する真実を聞いたことで、そのようなものは偽りの虚像であり、実存しないことを悟り、ビデオテープを破壊する行動に出ます。

5.ビデオカメラによる視線の反転と実存としての愛

そして、もう一つこの映画において重要なポイントが、アンの愛をグラハムが受け入れる場面です。つまり、なぜ、グラハムがアンの愛を受け入れることができたのかという点です。

 これは、そもそも、愛とはどのような存在であるのかという問いに対するソダーバーグ監督の答えにもなっています。

 まず、夫ジョンが妹のシンシアと浮気をしていた決定的な証拠をアンが見つけるところから始まります。そして、アンは、良妻にふさわしい服を脱ぎ捨て、車で家を飛び出します。そして、最終的にたどり着いたのが、グラハムの家の前で、決意をしたかのように、グラハムの家の中に入ります。そしてビデオカメラを回すことをグラハムに要求するのです。
 
 アンが、何のために、拒絶反応を示していたビデオカメラの前に立ったのかということになりますが、それはアンは自分の存在に対して嘘を吐くの止める決意をしたからです。もう少し、具体的な言い方をすると弁護士ジョンの妻を演じている自分の存在ではなく、グラハムを愛する自分の存在をグラハム自身に見てもらうためです。
 
 この場面で、興味深いのは、アンが、ジョンの浮気よりも、グラハムが現れたことで、グラハムが私の問題の一部になったことの方がより自分にとって重要であることを表明している点です。アンは、この表明後、グラハムからカメラを取り上げ、グラハムにカメラを向けます。
 
 ここに、ソダーバーグ監督が描きたかった愛があります。愛(実存)が、相手のことを、理解することができないかもしれないが、それでも知りたいという眼差しの中に存在するということです、もっと、正確に言えば、相手と同じ何かを少しでも共有したという営みの中にあると言い換えられるかもしれません。
 
 実は、このことを意識して、グラハム側からも、もう一度見てみると、ジョンに対する不信やエリザベスへの愛情だけではなく、家を訪ねた時から、アン自身のことを知ろうとする行動や、シンシアへのインタビューを見て悲しい表情を浮かべている場面など、アンと同様の眼差しや共感を読み取ることができます。
 
 そして、アンが雨が降ってきそうだというと、グラハムが微笑みながら、もう降っているよと言ってアンの腕を触る場面で映画が終わっています。
この場面も、何気ないシーンのようですが、愛(実存)が、言葉(理性)よりも先に存在していることを表すメタファーだと考えられるのです。


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