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【映画コラム/考察】『Tar/ター』「怪物リディア・ターを産んだのは何か/父権主義システムと女性とSNSの拡散」

『Tar/ター』(2022)トッド・フィールド監督

『Tar/ター』は、長時間作品にも関わらず、終始、観客の視線を釘付けにします。稀代の才能を余りなく発揮しているケイト・ブランシェットの演技に、惜しみない賛辞を送らなければならない作品です。

ただ、その怪演は、トッド・フィールド監督の、綱の上を渡るような、ギリギリのラインをフォーカスする綿密な脚本の上に成立していると言わざる得ないでしょう。


怪物リディア・ターの転落(キャンセルカルチャー)を執拗に描く


キャリアの頂点にいる指揮者リディア・ターの転落劇は、まさにキャンセルカルチャーそのものです。そして、それは、エスタブリッシュメントの正論(理性)を、壮大なブーメランで執拗に叩き手法によって演出されている。

冒頭で、ターは指揮者は、時間を支配するものであると発言します。しかし、音で、時間を支配する存在だったはずのターは、連続する不穏な音によって、ホラー映画さながら、次第に正気を失っていきます。

また、音楽院の授業で、白人・異性愛主義者のバッハを嫌う学生に対して、理解しようと寛容であるべきだと執拗に糾弾(論破)します。

しかし、その後、本作に描かれているターは、意に沿わない人や不快な人物に対しては、一貫して排除しようとする姿勢が執拗に描かれています。

まさに、観客の共感を排除する怪物を撮影しているかのような作風なのです。


リューベン・オストルンド『ザ・スクエア 思いやりの聖域』と『Tar』の特異性


近年、同様の演出がされている映画に、リューベン・オストルンド監督の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』がある。『Tar』とともにアカデミー賞作品賞を争ったオストルンド監督『逆転のトライアングル』も同じ手法だが、こちらは、群集劇であり、完全にブラック・コメディーに振り切った作品になっている。

『Tar』と『ザ・スクエア 思いやりの聖域』がさらに共通しているのが、現代美術のトップである点、そして、SNSの拡散によるキャンセルカルチャーです。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の主人公は、現代美術館のアートディレクターで、『Tar』の指揮者もアートディレクターも、極めて曖昧な基準の上に成り立っている価値観をコントロールする存在です。いや、むしろ、価値観そのものをセルフプロデュース存在と言った方が良いでしょう。劇中でも描かれているが、存在の必要性が問われる危うい存在なのです。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の主人公は、思い遣りを喚起するための作品スクエアを新しい作品として設置するが、愛のない不倫、子どもや貧困層に対する無意識の差別など露呈し、PR広告に端を発した不手際の数々の末、アートディレクターの職を追われます。

ただ、『Tar』と異なるのは、子どもから、自分が誤っていたことに気づけた点でまだ救いがある点です。『逆転のトライアングル』についても結末がはっきりと描かれているわけではありませんが、救済の余地が残されています。

一方『Tar』のラストからは、ターが改心した様子を窺うことは難しいと言わざる得ません。

ベルリン・フィルの首席指揮者を解任されたターは、東南アジアで新たな職を得ます。そこで、演奏しているのは、ゲーム音楽で、観客は全員コスプレです。

ラストは、いろんな解釈があるかもしれませんが、ターは、時間を支配することを止められないのは、間違いないと考えられます。

そして、『Tar』の最大の特異性は、キャンセルカルチャーの対象者が、女性でしかも同性愛者である点です。


父権主義(パターナリズム)の権化としてのリディア・ター


しかし、女性で同性愛者にも関わらず、リディア・ターの行動は、まさに典型的な父権主義(パターナリズム)によるハラスメントでそのものです。彼女の行動原理そのものが、時間(空間)を、支配することであり、ラストまで完遂されています。

 彼女が、ベルリン・フィルの首席指揮者という地位を利用して、パートナーのシャロン、アシスタントのフランチェスカ、ジュリアード音楽院の生徒たちを支配します。そして、クリスタのように自分に反旗を上げたものに対しては徹底的に排除や妨害を行います。そして、彼女の行動は養女ペトラを虐める子どもに対しても向けられます。そして、彼女は、その子どもに対して、自分をペトラのパパだと紹介します。

彼女は、観客の共感を得ることのない怪物として描かれ、そして、その報いを一身に受けます。

ここで、問題になるのが、この典型的な父権主義的な人物を、なぜ、女性で、猶且つ、同性愛者にしたのかという理由です。この話は、マイノリティー(同性愛者)や社会的弱者(女性)に対するヘイト(嫌悪)を誘発する恐れがあるからです。それは、近年の映画界に逆行することであり、作品そのものの評価に直結します。

つまり、なぜ、敢えてこの選択をしたかということが問題になります。


ホモソーシャル(OBネットワーク)を利用したリディア・ター


 それは、父権主義の権化のような怪物リディア・ターを産んだのは、何かという側面を見る必要性があります。

まず、リディア・ターというのは、目的を達成するためには、妥協を許さないストイックな人物であり、それが狂人に見えるかも知れませが、指揮者としての才能があるのは、間違いないように思われます。

そして、最高の指揮者を極めるためには、最高の交響楽団を率いる必要があります。でも、彼女は、女性というハンディキャップが存在したものと思われます。

それをどのように乗り越えたのかを示唆する象徴的な場面が、恩師と銀行家エリオットとの食事の場面です。彼女は、ホモソーシャル、日本で言う、OBネットワークを利用していたわけです。彼女は、女性のハンディキャップを、父権主義(パターナリズム)に対抗するのではなく、父権主義(パターナリズム)にシステムに入り込むことによって乗り越えたと考えられます。

そして、ホモソーシャルを利用して、首席指揮者の権力を掌握していて、彼女の周りの女性たちは、利害関係よってつくられた結びつきだったと言えます。それ故に、利害関係がなくなれば、簡単に関係が解消されてしまいます。クリスタの自殺に罪悪感を感じていたアシスタントのフランチェスカは、副指揮者の地位を手に入れられなかったの機に突然楽団を辞めています。また、リディアの浮気に耐えていた、コンサートマスターでもあったパートナーのシャロンは、リディアの失脚後、すぐにパートナーを解消しています。

クリスタがターに送り付けた『challenge』は、ヴァージニア・ウルフの恋人で、『オーランドー』のモデルとなったヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説です。幼馴染で結婚している女性と恋愛関係になった実話がベースになっていて、父権主義システムを脅かす象徴的意味合いも含んでいると考えられ、リディア・ターは、本に過剰に反応しています。


父権主義(パターナリズム)の犠牲者としてのリディア・ター


一見、リディア・ターの転落は、自業自得だと、感じられますが、一方で、シャロンやフランチェスカは、彼女と同じように、父権主義のシステムを利用していたと考えられます。しかも、父権主義システムの支配層である銀行家エリオットや恩師も、父権主義システムを維持するために、女性であるリディア・ターの造られたカリスマ性を利用していたのでしょう。

彼女が犠牲者である側面を良く表しているのが、東南アジアのマッサージ店の女性を指名するシステムに恐怖心を示す場面です。それは、彼女自身が父権主義システムの中で、女性として利用されることを恐れているからです。


ここで、なぜ、敢えて、女性で性的マイノリティーのキャンセルカルチャーを描いたのかという問題に戻ります。これは、むしろリディア・ターたちが女性であるが故に、父権主義システムの犠牲になっている事例であり、そもそも女性同様に同性愛者の要素自体も利用されている側面が浮かび上がります。

それは、『キャロル』のケイト・ブランシェットと『燃ゆる女の肖像』のノエミ・メルランをキャスティングをしていることからも意図的に感じられます。トッド・フィールド監督の映画界自体への警鐘と見ることもできる挑発的な試みと言えます。


父権主義システムが通じない存在


さらに、この作品に深みを持たせているのが、父権主義システムが通じない存在です。

その一人が、チェロ奏者のオルガです。彼女も、一見、リディアを利用している人物のように見えますが、面談を兼ねたリディアとの食事の場面や、リディアの曲に対する意見など、全くリディアに合わせようとする素振りがなく、リディアの支配が及ばない存在です。それを象徴するかのような場面があります。リディアがオルガを車で送った時に、忘れ物に気づいたリディアがオルガを追いかけて顔を怪我をするシーンです。オルガは、システムをうまく逃亡する存在なのです。

そして、もう一人が養女のペトラです。リディアは彼女には、父権主義システムを行使しません。象徴的なのが、彼女の足を擦ってあげる場面です。ペトラにむけるのは、他の場面では見せることのない母親としての優しい表情なのです。だから、ペトラを失ったリディアは、精神のバランスを崩し、致命的な失態を冒します。

そして、クラシック音楽界で権威を奮っていたリディア・ターを引き摺りおろしたのが、SNSの拡散(大衆)です。一度拡散したら、真実かはどうかは関係なく、権威主義システムが働かない致命的なダメージを及ぼします。そして、キャンセルカルチャーされた人物は、権威主義システムから追い出されます。しかし、権威主義システム自体は、追い出すことによって守られます。

ラストシーンで意味することは、ターが権威主義システムに復帰するために選んだのが、自分を追放したクラシック(権威)と対を成すSNS(大衆)への迎合という皮肉だったのではないでしょうか。


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