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【文学コラム】『街とその不確かな壁』(文学と映画)

『街と、その不確かな壁』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と『街とその不確かな壁』の構図の相違


『街とその不確かな壁』は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)と同様に、書籍化されなかった中編『街と、その不確かな壁』を、「上書き」した作品。

中編『街と、その不確かな壁』は、「僕」は、「君」を虚空の世界(壁の内側)に残して、現実の世界に戻ります。そして、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、「僕」は、「僕」の影を逃して、「君」とともに虚空の世界(壁の内側)に留まります。

そして、長編『街とその不確かな壁』では、第一部では、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じ決断を「僕」はします。しかし、第二部では、現実世界に戻った影の「僕」のその後が描かれ、そして第三部(最終章)で、中編『街と、その不確かな壁』と同様に、「僕」は、「君」を虚空の世界に置いて、現実の世界に戻ります。

しかし、中編と長編では、同じ決断でも、現実に対する向き合い方が、大きく変化しています。

中編では、諦念から、現実をかつて「君」といた「僕」の残滓として生きていこうとしますが、長編では、現実を、他者の人と交わりながら、真摯に生きていくことを選択します。


虚空からの落下とあとがきにおける物語論


なぜ、四十数年ぶりに「上書き」された『街とその不確かな壁』がそのような結論に至ったのかを、当然、思索してしまいます。

村上春樹自身が言っている通り、この作品には、必要だったという「あとがき」の内容が、そのことについて、重要な意味をもっていることは、間違いありません。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることのできる物語は限られている。(中略)要するに、真実というのは一つの定まった静止の中ではなく、不断の移行=移動の相の中にある。それが物語の神髄ではないだろうか。

『街とその不確かな壁』

そして、この物語で最も重要な最後のメッセージが、イエロー・サブマリンの少年による、虚空(高い壁の街)から落下する私への箴言です。

「あなたの分身の存在を信じてください。」
「そうです。彼があなたを受け止めてくれます。そのことを信じてください。あなたの分身を信じることが、そのままあなたを信じることになります。」

『街とその不確かな壁』

分身(影)とは、どのような存在であるのでしょうか。これは、かなり解釈が分かれるところかもしれません。もしかしたら、『エブリシング・エブリバディ・オールアットワンス』ようなマルチバースの私かもしれませんし、無意識下にあるもう一人の私かもしれません。ただ、前出のあとがきから、やや強引に解釈をするとするならば、私が物語る「私」ではないかと思うのです。

そうすると、あとがきで語られているのは、私たちは、時や場所や状況が変わっても、そこで、「私」の物語を紡ぎ続けることで、生きていくしかないということであり、また、「私」を物語る力を信じろというメッセージではないかと思うのです。

これは、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)に対してのアンサーとしても受け取ることができます。



映画『ミスター・ロンリー』と中編『街と、その不確かな壁』

個人的に、虚空から落下するという表現で連想したのが、ハーモニー・コリン監督の『ミスター・ロンリー』です。

『ミスター・ロンリー』は、演じることでしか存在できない「僕」が、「君」のいる虚構の楽園=虚空(城)に、移り住むが、「君」を失い、諦念から、現実を孤独に生きる選択をします。

これは、中編『街と、その不確かな壁』の構図に一致しています。これは、また、『ノルウェーの森』の構造でもあります。

ハーモニー・コリン監督の最新作『ビーチ・バム』では、「君」(妻)を失っても、虚構の楽園で、放蕩詩人を一貫して演じ続けます。これは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の構図に似ています。

また、この構図で思い浮かんだのは、テリー・ギリアムの『ゼロの未来』で、現実の世界で「君」を待ち続けた「僕」が、虚空(バーチャル)の世界で、「君」と生きる選択をします。『テリーギリアムのドン・キホーテ』も同系統の構図です。

そして、これは、長編『街とその不確かな壁』の第一部までと同じ構図です。



映画『her』と長編『街とその不確かな壁』


長編『街とその不確かな壁』の結末(第三部)と似ていると、思い浮かんだ映画がスパイク・ジョーンズの『her』です。

「君」は元妻キャサリン、または、サマンサ、
「イエロー・サブマリン」の少年は、音声AIサマンサ、「コーヒーショップの女性」は、エイミーに置き換えらるような気がします。

映画『her』の最後の場面では、主人公の執筆代行業のセオドアは、妻キャサリンの物語に介入(支配)するのを止め、また、サマンサが、虚空の世界に旅立つのを受け入れます。そして、妻に感謝と別れの言葉を送り、過去の物語を手放します。そして、セオドアの隣には、同じような体験をした友達のエイミーが、座っています。

『街とその不確かな壁』のラストも同様に、「僕」は、「君」の物語への介入を止め、「僕」の物語をイエロー・サブマリンの少年に譲渡し、現実で、「僕」の物語を最後まで紡ぎ続ける決心をします。

そして、「僕」が、虚空から落下する恐怖を克服できたのは、物語るという使命を強く信じていて、どこかで、それを聴いてくれる存在(コーヒーショップの女性など)を感じることができたからだと思うのです。

『街とその不確かな壁』は、村上春樹自身が、あとがきにあるように、「私」の物語を真摯に語ることへの使命を信じていることを強く感じれる作品だったのではないかと思います。



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