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小説投稿サイト〈エブリスタ〉×竹書房=最恐小説大賞受賞『悪い月が昇る』あらすじ紹介&冒頭2章を公開!

小説投稿サイト〈エブリスタ〉×竹書房が選ぶホラーの頂点
第4回最恐小説大賞受賞作!

脳がザワつく衝撃ラストを見届けよ――。


あらすじ紹介

フリーの編集者・正木和也は妻と五歳の息子・蒼太を連れ、ひと夏を都会の喧騒から離れた避暑地の別荘「カブトムシ荘」で過ごす。
そこは、知人の精神科医が好意で貸してくれた私荘で、妻子が負った列車事故のトラウマを癒すための滞在であった。
時折、失せ物探しや予知など不思議な能力を見せる蒼太。
そして、蒼太にしか見えない友達・コウタ。
正木は別荘のある村の墓地で詩織という少女に出会い、村に伝わる不気味な奇譚、子を攫う妖鬼〈コトリ〉の伝説を知る。
そして始まる村の夏祭り、蒼太が消えた……。

脳を攪乱する衝撃の展開、現実が足元から崩れ去る戦慄のホラーミステリ!

***

寺の掛け軸に記された子をとる鬼【コトリ】の由来――
ある山に鬼がいた。
時折里に下りては子供を攫って食った。母親の嘆き悲しむのを見て己の所業を悔いた鬼は、食った子供に成り代わり、その後母親と共に暮らしたという……。

「ハッピーエンド? これが?」
「母親が鬼と知らなければ。最後まで騙し切れたら、きっとそう――」

世界は、どんな悍ましさも悪も正義になる。

第一部 冒頭2章公開

1 高原のドライブ


 道路はなだらかな登り坂で、行手には真っ青な空が広がり、巨大な入道雲が立ち上がっていた。
 道の両側には明るい黄緑の木々が続き、木の葉の隙間を通り抜けてくる光が瞬いている。片手で軽くハンドルを持ちながら、私は運転席の窓を開けた。夏の陽射しと共に、気持ちの良い高原の風が吹き込む。ただそれだけで、抱えていた悩み事がいとも簡単に吹き飛んでいく気がした。
「ラピュタだ!」と、後部座席の蒼太が大きな声で言った。
「ラピュタ? どこどこ?」その隣に座った茜が尋ねる。
「ほら、あの雲。ラピュタは大きな雲の中にあるんでしょう?」
「ほんとね。すっごく大きな雲だね」
 私は前を向いたまま、後部座席の妻と子の声を聞いていた。ルームミラーに映る息子をちらりと見やり、会話に参加した。
「うん、あれは入道雲だね」
「入道雲ってなに? ラピュタと違うの?」と蒼太が聞いた。
「入道雲というのは、雷が起きる雲のことだよ。ラピュタは雷雲の中にあっただろ?」と私は説明する。
 蒼太は急に不安そうな声になって、
「雷が来るの?」
「大丈夫! ほら、こんなに晴れてるでしょ?」と茜が息子をなだめ、ミラー越しに(余計なことを言うな)の視線を投げてきた。
 私はすかさず、「うん、雲はあんなに遠くにあるからね」と付け足した。
 
 私、正木和也と妻の茜、五歳になる息子の蒼太。私たち三人の家族は、神戸市にある自宅を出て北へ走り、兵庫県と鳥取県の県境地帯、氷室高原にある別荘地を目指しているところだ。七月半ばの日曜日、天気は快晴で、愛車である青いミニバンの調子も順調。何の問題もない……と思っていたら、蒼太が急にしくしくと泣き出した。
「どうしたの?」
「雷いやだ」と、震える声で蒼太は言った。
「もう。余計なこと言うから」と茜の苛ついた声。私は慌てて、「来ない来ない! 雷来ないよ!」と大声を上げた。
「見てごらん、晴れてるでしょ? 雷なんか来ないから大丈夫、ほら泣き止んで」
 茜がハンカチで息子の顔を拭いてやるが、まだしゃくり上げている。その様子をルームミラーの中に見ながら、私は言った。
「だいたいまだ本当に来てもないのに泣くことないだろう? いくらなんでも弱虫すぎるぞ。そんなことで、本当に来たらどうなるんだ」
 蒼太はひゅっと息を呑んで、
「やっぱり来るの?」
 茜が、ミラー越しに睨みつける。
「大丈夫だからね。雷なんて来ないよ。お父さんが適当なこと言ってるだけだから!」
 いや、夕立くらい来るだろうよ……と私は思ったが、沈黙を守る分別は持ち合わせていた。しばらく口を閉じて、私は運転に集中した。

 行く手になおも立ち上がる巨大な入道雲へ向かってゆっくりと近づきながら、私は息子の情緒不安定のことを思った。
 PTSD、と蒼太のカウンセラーは言った。蒼太の幼い心が晒された、辛い事故の後遺症による心的外傷だと。だが事故から時が経つにつれ、どこまでが子供にありがちな感情のムラで、どこからが病的なトラウマの表出なのか、私にはよくわからなくなることがあった。
 だが、蒼太が今でも悪夢を見ていることは事実だ。真夜中に悲鳴を上げて目覚めることも、全身にじっとりと汗をかいて、揺り起こしたくなるほど延々とうなされ続けることも。
 真夜中に突然大きな悲鳴が上がり、私はビクッとして跳ね起きる。夢うつつで混乱して、しばらくは誰の悲鳴かわからない……自分が悪夢を見て叫んだのかと考えている。徐々に目覚めて隣を見ると、薄暗がりの中にぼんやり浮かんで見えてくるのは、茜が泣きじゃくる蒼太を懸命になだめている姿。
 そんなことが毎晩のように繰り返され、心的な苦痛のみならず寝不足による疲労も深刻だ。夏休みに田舎の別荘暮らしを決意したのも、蒼太の回復を少しでも早めるために他ならない。
 澄んだ空気と静かな環境、それが何よりの薬だとカウンセラーは言った。幸いにも私は会社勤めではなく、フリーの書籍編集者であって、ネット環境さえあれば仕事の出来る状況にあった。
 茜も、事故をきっかけとして仕事を辞めていた。そこへ、我が家ではとても手の出ない、高級な避暑地の別荘を使っても構わないという親切な申し出があった。巡り合わせは奇妙なもので、一旦決心してしまえば話はとんとん拍子に進んだ。

 久しぶりに信号があって、私は車を停めた。ずっと森の間を走って来たが、いつの間にか周囲は小さいながらも町になっている。別荘地の最寄りの町が、ここだ。目的地はもうすぐだ。
 自分がぼんやりとした意識のまま運転していたことに気づいて、私は少しぞっとした。順調な田舎道の運転ではさほどの集中も必要なく、半分無意識のような状態でも支障ないのだろうが、突発的な事態……飛び出しとか……には対応できないかもしれない。私は気を引き締めた。
「もうすぐ着くよ!」と私はことさらに明るい大声で後部座席に呼びかけた。
「ほんと?」蒼太の声はもう元気を取り戻している。
「ここがいちばん近い町なのよね。別荘からどれくらい?」茜が聞いた。
「聞いた話だと、車で二十分」私はカーナビを見て、「ナビの予想もそんなもんだよ」と補足する。
「車で二十分! まず歩いては来られない距離よね。台風とかで、別荘に閉じ込められたら、食料とかどうしたらいいんだろ」
「でも、だから車があるだろう」
「だからさ。もし車が故障したら」
 私は少し苛ついた。せっかく蒼太が落ち着いたのに、わざわざ不安にさせるようなことを言い出す妻に対して。
「故障なんて今まで一回もないだろう。故障したって、修理を呼べばそれこそ二十分で来るよ」
「ああ……ごめんね。別にいいのよ。ただ何となく思っただけだから」
 茜がそう言って、私は黙った。
 不意に、奇妙な感覚が私を襲った。以前にも、まったく同じ会話を交わしたような気がする。
 デジャヴだ。車の中でつまらない理由で言い争いをしている、そしてイラッとした気分を味わっている、親たちのそんな様子を蒼太が少し緊張して見守っている、そんな状況が以前にもそっくりそのまま、繰り広げられていた気がする。
 思わず苦笑いが漏れた。こんな不毛なことを、懲りずに何度も繰り返しているとは。
 道路をまたぐアーチがあり、「氷室高原へようこそ」と色褪せた字で書かれていた。道の脇に大きな看板があって、高原のイラストの地図があった。描かれているのは冬景色で、ゲレンデとリフトの配置のようだ。氷室高原はスキー場として有名な場所だから、観光案内も冬がメインになるのだろう。
アーチの向こうはちょっとした商店街になっていて、避暑客を目当てにした、小綺麗なカフェやレストランが何軒かあった。いかにも田舎らしい寂れた雑貨店やら消防団の倉庫やらの間に、モザイクのようにおしゃれな店が建っていた。
 歩道を歩くのは、高齢の人たちが目立った。観光客の姿は少ない。冬のスキーシーズンには若者が増えるのだろうが、夏はやはり、過疎地の佇まいだ。
 信号が変わり、私はまた車を発進させた。商店街はあっという間に終わってしまい、その最後にホームセンターと隣接した大型のスーパーがあった。やたらと広い駐車場が見える。自分もここには何度も買い物に通うことになるのだろう、と私は思った。
 前方に連なる山が見え、その山腹に木々の禿げたゲレンデが見えていた。夏はただ緑の斜面になっている。町並みが途切れて景色が開け、車は青々とした田んぼの間を進んだ。開けた田園風景の中にぽつぽつと、ペンションらしき建物が見える。
「あれはなに?」と蒼太が叫んだ。
 私は慎重に答えようと心に留めながら、「あれって?」と聞き返す。
「あの建物」
 小さな指が懸命に差す先にあるのは、ゲレンデのふもとに建つ白い建物だ。ペンションだと思ったが、その屋上には丸い銀色のドームが載っていた。
「あー、あれは天文台だね」私は答えた。
「てんもんだいってなに?」
 答えてもまさか泣かれることはないよな、などと思いながら、「望遠鏡があるところだよ」と答えた。
「ぼーえんきょ?」
「望遠鏡。星を見るの」
「星は昼間は見えないよ?」
「そうだね。だから夜になってから」
「ふうん」と蒼太は言ったが、あんまりよくわかっていないふうだった。

 よく茂った緑の稲の間を、青い車は進んで行く。田んぼの畦道に、ホタルの絵が描かれな看板が見えた。蒼太にホタルを見せてやれるかも、と私は思い、そのことを口に出そうとして、いやホタルのシーズンはもう終わりかも、と思い直してやめた。やがてナビの指示に従って角を曲がると、道は山に登って行く狭いくねくね道になった。
 ヘアピンに近い急なカーブを、遠心力を感じなが「別荘地は高台だよ。ここを上り切れば、到着だ」別荘地は高台だよ。ここを上り切れば、到着だ」  
 またヘアピンカーブ。後部座席の茜と蒼太の体が、ミラーの中で大きく左右に揺れていた。
何度かのカーブを越えて行くと、やがてガードレールの向こうに今走ってきたばかりの光景が俯瞰で広がった。見下ろすと目に映るのは一面緑の田んぼの海で、通ってきたささやかな町並みもその中にぽつんと浮かぶ島のように見えた。地上では気づかなかった鎮守の森らしい木々の塊があちこちにあって、それも海に浮かぶ小島の群れのようだ。町の向こうの田んぼの中を、まっすぐ直線の線路が横切り、二両だけの黄色い電車がのどかに走っていた。
「ねえ、カブトムシいる?」と蒼太が聞いた。
「もちろんいるよ!」と私は答えた。
「ヘラクレスもいる?」
「うーん。ヘラクレスは外国にしかいないなあ。でも、きっと標本は見られると思うよ。何たって、カブトムシ荘っていうくらいだからね」
「カブトムシ荘?」
「そうだよ。それがこれから行くおうちの名前」
「おうちに名前があるの?」
 蒼太の声が弾む。蒼太が巨大なカブトムシの形をした家でも想像して、目を輝かせているだろうことが、見なくても手に取るようにわかった。
私は声を出して笑った。よく晴れた昼下がり、木漏れ日の中を行くドライブ。家族は三人、揃っていて。気分は爽快だった。これから楽しい夏が始まる、確信めいた予感があった。

2 蘇芳先生

 カブトムシ荘のオーナーである蘇芳氏は、本格的な昆虫マニアだ。もちろん別荘がカブトムシの形をしている訳ではなくて、単に氏の趣味からつけられたニックネームだった。
 私自身、いい年齢をして虫マニアだ。と言っても、捕まえたり飼ったり標本にしたりということはなくて、もっぱら写真を撮るばかりだが。蒼太といっしょに公園に出かけた時に、子供の写真を撮るついでに花に来たアゲハチョウを写したのが始まりだ。やがて一眼レフを買い、マクロレンズを買い、れっきとした趣味になっていった。そのうち写真をただ溜め込んでいるのがつまらなくなってきて、ブログを開設した。毎日一枚ずつ昆虫写真をアップしていたのだが、そこにコメントを書いてきたのが、蘇芳先生だった。
 私がアップしたハムシの名前が違っていると教えてくれたのが、最初だった。やりとりを交わすうちに、相手は私など足元にも及ばない本物のマニアであることがわかってきた。マニア歴数十年、年季の入った本格的ないわゆる虫屋だ。蘇芳先生も写真のブログを持っていたが、それは
 私が撮った昆虫の種名を調べるために使っていたサイトだった。それから、わからない虫の写真を撮ると、蘇芳先生にメールを出して尋ねるようになった。
 昆虫の種名を尋ねる短いメールのやり取りは、やがて長くなっていき、話題が脱線していった。
それというのも、蘇芳氏の本職が精神科の医者であったからだ。私は事故については伏せたまま、夜中に怖い夢を見て目覚めるという蒼太の症状を相談し、蘇芳先生は親身な長いアドバイスを送ってくれた。
 アドバイスのメールの文末には、常にこんな断り書きがついていた。
「と、私はあなたがメールに書いたことを手がかりに思うのだけれど、これは正確な診断ではないことをご理解ください。メールの情報のみでわかることには、限界があります。きちんとした診断のためには、必ず本人との面談が必要です。もし可能なら、蒼太くんを私の診療所に連れて来ていただきたいと思います」
 私はそれについて考えたが、結局蒼太を蘇芳先生に会わせることはしなかった。事故後に紹介されたカウンセラーにかかっていたし、蒼太を精神科へ連れて行くという考えにはどこかぞっとするものがあった。
 その後のメールのやり取りの中で、私はカウンセラーのことを伝え、「澄んだ空気と静かな環境」を勧められたことを話した。すると、「それならカブトムシ荘に来てみないか?」と誘われたのだ。
「実は家内が入院することになっておりまして、今年の夏は別荘に行けないのです。別荘というのは、誰も使わないと傷んでしまう。一週間でも週末だけでも、カブトムシ荘を使っていただければ幸いです。何だったら一夏ずっとでも構いません。森と山しかない田舎ですが、澄んだ空気と静かな環境だけはいくらでもありますよ」

 それから何度かのメールのやり取りの後で、私は蘇芳先生とホテルの喫茶室で待ち合わせた。
 一年以上の付き合いだったが、ネットの外で実際に会うのはそれが初めてだった。
 精神科医という職業から、特に理由もなく恰幅のいい太った男を連想していたが違った。蘇芳先生は小柄でひょろりと痩せた男性だった。年齢は六十代か、あるいはもっと上かもしれない。
 顔は幾重もの深い皺で覆われていて、常に笑みを浮かべていた。
「いやあ、どうもどうも」と蘇芳先生は手を差し伸べて握手を求めた。私は少し戸惑いながらその手を取った。小柄な割に力強い手だった。
「すみませんね、わざわざ遠くまでご足労いただいて」
「いえいえいえ。とんでもありません。こちらの方こそ、何から何までお世話になるばっかりで」
「いいんですよ、あなたが気にする必要はありません。別荘の維持管理のために、誰かにあそこにいてもらわなければならないのだから」
 ウェイターが来たので、私たちはコーヒーを注文した。それからしばらく互いのブログや虫についての話をした後、蘇芳先生はジャケットのポケットからキーホルダーを取り出して、がちゃりとテーブルに置いた。
 黒い革製のキーホルダーに、大小いくつもの鍵がじゃらじゃらと付いていた。私はそれを見ながら、他人のキーホルダーというものはどうしてこうも趣味悪く感じるのだろう、などと考えていた。蘇芳先生は鍵を一つ一つ指差しながら説明した。
「これが玄関の鍵、これが裏口の鍵。後は勝手口と、物置。それからこれは機械室の鍵です。機械室は裏口の横を降りたところの地下にあります」
私は鍵をじっと見つめ、それから顔を上げてずっと笑顔の蘇芳先生を見た。
「でも本当に……僕たちが上がり込んでしまって、いいんですか?」
「ええ、ですからね。むしろ留守中の維持管理をしていただけるのはこちらも助かるので」
「いえ……それはそうなんでしょうけれど。でも、先生は僕のことをほとんどご存知ないでしょう。実際に会うのも、今日が初めてなくらいで。信用していただいているのは、もちろんありがたいですけれど」
「以前にも、あなた以外の家族に滞在してもらったこともあるんですよ。ですから別に特別なことではないんです」
 私が黙ると蘇芳先生はじっと私の目を見つめ、それから口を開いた。
「実のところを言いますとね。あなたが思っている以上に、私はあなたのことを知っているんですよ」
「……?」
 私にはしばらく、相手が何を言っているのかわからなかった。蘇芳先生は笑い顔のまま、頭をぽりぽりと掻いた。
「佐倉さんから、ご連絡をいただきましてね」
 私はようやく腑に落ちた。佐倉さんというのは、蒼太のカウンセラーだ。
「ああ。そういうことですか」
「ええ。とても熱心な方ですね、佐倉さんは」
「では、事故のことも?」
「はい、お聞きしました」
 私は複雑な気持ちになった。佐倉さんが勝手に家族について話したことへの不満が半分、蘇芳先生に切り出す手間が省けた上に、事情をわかってくれているという安心感が半分。
「大変な事故でしたよね」と蘇芳先生は言った。「誰だって、あれだけの辛い経験をされれば後遺症が残って当たり前です。心や体に変調をきたすのは、むしろ正常な反応ですよ。受けたストレスを解消するために、必要なステップです。大丈夫、必ず乗り越えられますよ」
「蒼太の回復のためには、田舎で暮らした方がいい、とやはり先生も思われるということですよね?」
「そう……ですね。はい。田舎というか、事故が起こったのが都会なので、都会での生活がストレス要因の一つになっていますよね。それなら、一度ご自宅から離れてみることは有効だと思いますよ」
「では、別荘の件は佐倉さんが先生にお願いしたということですか?」
「ああ、それは違います。それは……」
 話の途中で蘇芳先生は、両手で口を押さえて大きなくしゃみをした。「失礼」と言ってジャケットのポケットに手を入れてごそごそ掻き回した後、ポケットティッシュを取り出して鼻をかみ、丸めた紙をまたジャケットのポケットに戻した。
「申し訳ない。花粉症なものですから。佐倉さんから連絡をもらったのは、あなたに別荘の話をした後なんですよ。その話を佐倉さんにされたでしょう?」
「そう言えば。そうですね」
「あなたに田舎暮らしを勧めたことが本当に良いことだったかどうか、佐倉さん自身も迷っておられたのでね。医学的な意見の交換をさせていただきました。あなたに断りなくそんな話をしたのは、申し訳なかったと思います」
言って、蘇芳先生は頭を下げた。私は慌てて、
「いやいや、そんな。謝っていただくようなことじゃないです。蒼太のためを思ってやっていただいたことなんですから」
 蘇芳先生は顔を上げて、また私をじっと見つめた。笑みを絶やさぬ蘇芳先生の穏やかな目が、私にはふと笑っていないように見えた。
「ですからね」と蘇芳先生は言った。「佐倉さんからきちんとお聞きしましたから、あなたは私にとって、決して信用できない知らない人ではないんですよ。それに、佐倉さんから連絡をいただく前から、私はあなたに別荘をお貸しすることをもう決めていましたからね」
「それは、どうしてなんですか?」
「私はね、虫好きの人だけは信用するようにしてるんですよ」
 蘇芳先生はそう言って、笑った。さっきの鋭い目つきはすっかり消えていて、やはり気のせいだったのかと私は思った。
「でもね、経験上、結構はずれないんですよ。昆虫なんていうちっぽけなものに愛情を注げる人間は、基本的に良い人であることが多いです」
 はあ、と私は言ったが、内心本当だろうかと思っていた。生命を慈しむ昆虫マニアもいるだろうが、生きた昆虫に毒液を注射して標本を作る昆虫マニアもいるじゃないか。蝶を集めるように人間を収集するコレクターの映画が確かなかったか?
 信用してくれている相手にわざわざ余計なことを言う必要もない。
 蘇芳先生はテーブルの上のキーホルダーに手をかけ、ついっと私の方に押してよこした。
「ともあれ、変な遠慮や気遣いは無用です。今は、あなたは蒼太くんのことだけを考えてあげた方がいい」
 私はキーホルダーを掴み、手元に引き寄せた。それでいいのだ、と言うように蘇芳先生は頷いた。
「別荘に着いたら窓を一通り開けて、空気を入れ替える方がいいと思います。一応草刈りや掃除はしましたが、もうそれからも二週間ほど経ってますからね」
「僕たちのために、掃除までして下さったんですか?」
「いえいえ。その時点では、自分たちが使うつもりだったんですよ。それが急に、家内が入院することになりまして」
「すみません、そうでしたよね。奥様が大変な時なのに、時間をとっていただいて……。それなのに僕ときたら、自分のことばかりで」
「いえ、ですからね、そんな大げさなことじゃないんですよ。ちょっとしたポリープを取るだけですから。まったく良性のものなので、大丈夫ですよ。深刻な話だったら私もここに来てないですから」
「そうなんですか?」
「ええ。どうぞご心配なく」
 結局、いつまでも遠慮していても埒が明かない。本当に遠慮するのなら断っていれば良かったのだから、今更ぐずぐずしてもポーズに過ぎないのだろう。
「着いたらまず換気。ただし夜までには、網戸は閉めておくのをお忘れなく。夜になったら虫が入りますからね。時には、カブトムシやクワガタも飛び込んでくる」
「ああ、それは息子が喜びます」
「まあね。でもそういうのよりは蛾やらガガンボやらが多いですからね」
「それは……妻が悲鳴を上げる」
 蘇芳先生は笑った。
「まあ網戸を閉めておけば大丈夫です。冷房もあるから、完全に閉め切ってしまってもいいんですけどね。あっちは夜は涼しいから、あんまりクーラーに頼ることもないと思いますが」
「出来るだけクーラーとか、そういうものに頼らない生活をしようと思ってます。その方が、蒼太だけじゃなく妻にもいい影響になると思いますから」
 微妙な間。ん? と顔を上げると同時に、蘇芳先生は言葉を継いだ。
「そうですね。そうかも知れない。奥さんものんびりすることが出来ると思いますよ。いつも来てもらう田川さんという方がいるので、家事はその方に任せればいい」
「いや、それは自分たちで大丈夫ですよ。僕も外出する仕事ではないですから、妻を手伝えますし」
「あなたも掃除や洗濯をされる?」
「ええ。いつも妻に駄目出しされるので、得意ではないですけど」
「料理もされるんですか?」
「ええ。パスタとか炒め物とか、簡単なもの専門ですけどね」
 薄い笑いが蘇芳先生の口もとに浮かび、すぐ消えた。それが気になって、私は落ち着かない気分になった。
 他人の表情がいちいち気になる。何か他意が含まれているような気がしてしまう。これも、立派なノイローゼかもしれない。
「もちろんね、気晴らしの料理はいくらでもしていただければいいけれど」と蘇芳先生は言った。
「でも、基本的には田川さんに任せなさい。休むことがあなた方の課題だし、奥さんだって休まなくちゃ。そうでしょう?」
「それはそうですが、しかし……」
「あなた自身もですよ。あなたもしっかり休まなくちゃいけない」
「僕もですか?」
「そうです。事故から半年、あなたも大きなストレスを受けてきたでしょう。あなた自身も、心を癒すことを考えるべきです」
「僕のストレスなんて大したことはないですよ。妻や子供の受けたストレスに比べれば……」
 私は笑いながら言ったが、蘇芳先生は「いいえ」と遮った。その強い口調に、私は少し戸惑って見返した。
「あなた自身の回復も重視すべきです」蘇芳先生ははっきりとした口調でそう続けた。「自分では気づいていないとしても、あの大事故だ。あなたもやはり大きな精神的ダメージを受けているんですから」
「そんなダメージのある顔をしていますか?」
 私は冗談めかして言ったが、蘇芳先生はまだ真剣な目で見ていた。ドキドキするような間があって、やがて蘇芳先生は表情を緩めた。
「まあ、何にしてもあなたが健康であることは大切でしょう。そうでなくては、奥さんや子供さんを守ることもできないのだから」
「そうですね」と私は頷く。
 それ以降は蘇芳先生は穏やかな笑い顔に戻り、厳しい目つきを見せることはなかった。目を背けたくなるような、心を見通すような鋭い視線を向けることは。私は安心して、キーホルダーをポケットにしまった。

~つづく~

著者紹介

海藤文字(かいとう・もじ)

大阪府大阪市出身。少年期より文字を連ねることを好み、ヒマさえあれば何か書いてきた。本作でエブリスタx竹書房「第4回最恐小説大賞」を受賞(受賞時のタイトルは「月がわらう夜に」)。ホラーを中心に映画を広く愛する。次の目標は著作の映画化。映画レビューサイト「MOJIの映画レビュー」主催。
https://ameblo.jp/moji-taro/

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