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5年後も、僕は生きています ㉒奇跡のことば。有難いは、「有り」「難い」

今日もこのnoteにご訪問いただき、ありがとうございます。

感謝です。

★肺癌ステージ4からの生還「僕は、死なない。」(2016年9月1日~2017年7月位までのノンフィクション)はこちらをご覧下さい。

★「5年後も、僕は生きています」(2017年8月~のノンフィクション)第1話から読みたい方は、こちらから読むことが出来ます。

第1回「癌宣告からサレンダー体験まで」


ではでは、22話です。

㉒奇跡のことば。有難いは、「有り」「難い」

2017年の年末に出版の話があったことは、以前書かせていただきました。

2018年明け年初から描き始めた本の原稿の進み行具合は、一進一退の状態でした。

3月下旬までに2度ほど書き上げたものの、編集者からの要望や手直し・修正・書き直しなどの依頼は厳しいうえに僕にとっては不明確で、「書くこと」という意味で勉強にはなっていたものの、まさに手探りをしながら原稿を書いていました。

しかし、自分の体験を原稿に落としてみることで、また新たな気づきが生まれたことも事実です。

今まで見落としていたこと、見逃していたこと、見過ごしていたことがたくさん見えてきました。

すると不思議なことに、自分が見ている世界、見えている世界がだんだんと変わってきたのです。


 ある日、電車に乗っていた時のことです。 

 正面におじさんが座っていました。おじさんは不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、しかめっ面で腕組みをしていました。

以前の僕だったら「不機嫌そうなおじさんだな」だけで終わっていたでしょう。

しかし、最近はちょっと違うのです。なんだかかわいく感じてしまうのです。

もちろん、おじさんの顔は全然かわいくなんかありません。逆にちょっと怖いくらいです((笑)。

だけど、そのおじさんの本質というか存在というか、そういう部分を、とっても愛らしく感じてしまうのです。

ああ、この人、何十年か前に生まれて、それからいろいろあったんだろうなあ~

頑張って生きてきたんだろうな~

この人もこの人なりに、一生懸命に、生きてきたんだよな~

この人も、宇宙のひとつの表現なんだよな~

 その人の外見とか性格とか、そういったもののもっと奥にある「存在」みたいなものを間近に感じて、とっても愛おしく感じてしまう僕がいました。

 不機嫌になっているのは、このおじさんの「思考」や「感情」といった「性格」に起因するもの。

それを心理学では「自我、エゴ」と呼びます。

「自我、エゴ」は生まれた後に作られるものです。

生まれたばっかりの赤ちゃんにはまだ「自我」はありません。

だから、いつも上機嫌で、感情そのまんま。それが、僕たちのまっさらな状態です。

そのあとに、僕たちは親やそれに代わる人たちからいっぱい刺激を受けます。

ヨシヨシされたり、叱られたりします。

すると、僕たちの心の中に「親に受け入れられる」あるいは「親から嫌われない」「親に愛される」ために適応するための“プログラム”が作られます。

これが「自我・エゴ」です。僕たちは「性格」とも呼んでいます。

そして僕たちはこの「自我・エゴ」のプログラムを「私」だと思い込み、物事を「エゴ」目で見て、エゴのプログラムで考えて、エゴの反応パターンで感じたりして、この三次元世界・人生を生きているのです。

でもでも…

僕は自分の「サレンダー体験」を経て、気づいたことがあります。

それは、僕たちは「自我・エゴ」じゃないということです。

「エゴ」はいのちに乗っかっているもの。

命という大きな乗り物に乗っかって、この社会で適応するためにやりくりしているプログラムにすぎない、ということなのです。

「自我・エゴ」は「ほんとうのわたし」ではないのです。

このあたりのことは、新刊「さとりをひらいた犬」に詳しく書かせていただいていますので、ご興味のある方はそちらをお読みください。

 さて、僕がこの時感じた“愛おしさ”は、このおじさんの「自我・エゴ」にではなく、「いのち」に対してのものだったのでしょう。

いのちに乗っかってる自我。

自我は、乗り物であるいのちの尊さやすばらしさに、気づいていません。

エゴは「自分」が中心の「自分」が一番の「自分」だけの世界観、分離の世界です。

小さな穴の中から世界を見ているようなものです。

潜水艦の潜望鏡で外を見て、全世界を理解したつもりになっているのが「自我・エゴ」なのです。

その小さな世界観・世界からの分離感が、様々な「苦しみ」を生み出すのです。

「生老病死」

ブッダの言うところの4つの苦しみ(ドゥッガ)。

人生とは、苦しみである。

生きている限り、この苦しみから逃れることは出来ない。

ブッダは、そう言っています。

そう、そうなんです。自分がエゴだと思い込んでいる限りは、この苦しみから抜けることは出来ません.

そうじゃない、僕たちは「いのち」。

「いのち」という乗り物は、みんな共通なのです。

有名な「波」と「海」の例えがあります。

エゴは「波」です。

波がしらの「白いところ」がエゴです。

白いところは、別の波の白いところと自分は「別れている」「分離している」と思っています。

 「あいつ」と「わたし」は「違う」、「別だ」と思っています。

「私は、特別」だ、とね(笑)

(特別に優れているとか、特別に劣っているとか、どうしようもなく普通でダメだとか)

しかし…

波がしらの下…

深く、深く、沈んでいくと…


そう、海なんです。

僕たちは「海」でつながっているんです。

「波がしら」たちが、僕たちは別々の存在、って思っているのは、視野が狭いせい、そして、大いなる勘違いなんですね。

僕たちはみんな、おんなじ「いのち」というエネルギーでつながっている」大いなる存在の一部なんです。


 僕は肺癌ステージ4になって、死にそうになりました。

 「いのち」が亡くなりそうになりました。

この3次元世界から退場寸前まで行きました。

 だからこそ、分かることがあります。

 「いのち」があるって、本当にすばらしいことで、有難いことだということです。

 有り難いという感じは、“有(あ)る”と“難(むつか)しい”がくっついた言葉です。

「ありがたい」というのは、その状態に「有る」のが難しいことを指すのです。

ごくごく稀にしか、起きない事。

僕たちは、「生きていること」が普通だと思っているけれど、実は、そうじゃありません。

ほんとうに奇跡的な確率でしか、起きない事なのです。

僕たちが誕生する確率は数億分の1ですからね!

そして、こうやって「いのち」がある、ということ。

僕はガンになってから、「僕は、死なない。」出版してから、たくさんのガンの人たちに出会いました。


「生きたい」

「生きたい」

と願っていても、生きることが叶わなかった人たちとも、たくさん出会いました。

みんな、一生懸命に、精一杯「いのちのひかり」を灯していました。

みんな、それぞれがオリジナルで崇高なストーリーを持ち、それを生き、そして向こう側の世界へ還って行かれました。

そういう方々と接しさせて頂くたびに、僕の関り・在り方はこれで本当に良かったんだろうか、と自分を振り返らざるを得ませんでした。

正解など、きっとないのでしょう。

でも、僕はそのとき、自分に出来ることを、未熟でも・不完全でも・精一杯やる、ということしかないことを理解しています。

僕自身がその方々から、学ばせて頂いているのです。


僕は、思います。

僕たちは、その今日を、その人たちが生きることが出来なかった『今日という時』」を、「生きる」こと、体験することが出来るのです。


それだけでも、奇跡、有り難いことだと、僕は思うのです。


僕たちが普通だと思っていること、

普通に「生きている」ってこと、

それはほんとうは

「普通じゃない」


つまり

「有り、難い」


ことなんだと思うのです。

㉓へつづく

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とてもたくさんの方に、お読みいただいています。
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