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❖本来の主従関係より従がメインに見える現象❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年12月9日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)
◆本来の主従関係より従がメインに見える現象◆
昨日は、真珠湾攻撃から80年が過ぎた話をした。ということは、アジア太平洋戦争のその後の局地戦それぞれにとっても、これから次々に80年が過ぎたという形で表現されていくことになる。しかしアジア太平洋戦争の口火を切った出来事は、真珠湾攻撃(日本時間で1941年12月8日の午前2時55分)よりも1時間以上も早く開始されたマレー作戦(コタバル上陸部隊が最初にイギリス領に上陸)であった。この作戦は、アジア太平洋戦争の最初に展開された「南方作戦」の一つであり、南方作戦の詳細を定めた「南方作戦陸海軍中央協定(1941年11月頃)」では「馬来作戦(E作戦、現在のマレーシアやシンガポール)」と呼ばれていた。南方作戦はこの他、「比律賓作戦(M作戦、現在のフィリピン)」、「蘭領印度作戦(H作戦、現在のインドネシア・ジャワ島)」、「瓦無作戦(G作戦、グアム島)」、「英領ボルネオ作戦(B作戦、現在のマレーシア・ボルネオ島)」、「香港作戦(C作戦)」、「ビスマルク作戦(R作戦、オーストラリア委任統治領ニューブリテン島・ラバウルで、現在はパプアニューギニアに帰属)」の各方面に分けられていた。

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各方面の作戦を展開する上で、ハワイに集結するアメリカ太平洋艦隊の加勢は厄介だったので、南方作戦と合わせて、ハワイの奇襲作戦が計画された。アジア太平洋戦争というと、このハワイの奇襲作戦、いわゆる真珠湾攻撃が前面に出てきて注目されてしまうが、位置付けとしては南方作戦の援護であった。

★★Slide31(真珠湾攻撃)

その意味では、マレー作戦の奇襲上陸が「主」目的であり、真珠湾攻撃は「従」だったことになる。同じように、主目的よりも、そこから派生して生じた出来事がメインになってしまう例として、長篠の戦いがあるだろう。長篠の戦いは、本来、当時徳川に仕えていた奥平貞昌の長篠城が武田軍に包囲され、それを撃退することが主目的だった。しかし戦いは派生して、決戦場が設楽原(設楽ヶ原)に移り、武田軍と織田・徳川連合軍が戦うことになるが、長篠の戦いといえば、こちらのシーンのイメージがメインで有名ではないだろうか。最近研究が進み、誇張された内容だと考えられるようになってはいるが、やはり長篠の戦いというと、設楽原で武田の騎馬隊を織田・徳川連合軍の「主力で?大量の?」鉄砲隊が見事に撃破したイメージが根強い。最近では戦いの両面を合わせてしまって「長篠・設楽原の戦い」と表記されることもある。さて、アジア太平洋戦争に話を戻すが、マレー作戦の後半の激戦地シンガポールには、資料館として当時の歴史を知ることができる場所がいくつかある。ということで、シンガポールのセントーサ島にあるシロソ砦の資料館の写真をいくつか紹介しようと思う。なお、昨日の投稿でも掲載し、今回も最初に掲載した年月日と出来事の表示は、シンガポールの「Former Ford Factory(旧フォード工場)」という歴史資料館の展示であり、1941年12月8日に真珠湾攻撃よりも少し早く開始されたマレー作戦では、2日後の12月10日に「マレー沖海戦」が開始され、イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は撃沈されることになる。

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