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★我楽多だらけの製哲書(39)★~悩ましき板書へのこだわりとヘーゲル~

「客観的な意志と主観的な意志は、その後調和し、同一で同質の全体を提示する。」

これはドイツ観念論の完成者とされるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの言葉である。

今年も感染の急拡大によりオンライン授業になる可能性があるので、心の準備と頭(記憶)の準備のため、去年自分がオンライン授業に関してどのような試行錯誤をしていたか、どのような葛藤をしていたかを確認しておきたい。

(ここからは2021年1月に関わる内容)
オンライン授業が始まり一週間ほど経ったが、試行錯誤して、この教育環境を楽しみつつも、やはりその難しさも痛感する今日この頃である。

授業は当然のことながら「時間的な制約」として授業時間というものがあるのだが、オンライン授業は前回の投稿で述べたように対面授業と比較して新たなメリットがある一方で、新たな制約も生まれるように感じている。

その新たな制約とは「空間的な制約」である。空間的な制約などと表現すると、高尚なものに聞こえるが、端的に言えば「黒板の使用できる範囲」の話である。生徒が見ている画面に見えるような文字の大きさになるように黒板に文字を書く必要があるため、普段より大きめに書くことで、対面授業のときよりも黒板に表現できる情報量を抑えざるを得ないのである。ならば、黒板を映している自分のPCを黒板に近づければ、小さな文字でも問題ないと言われそうである。確かにそうであるが、そうすると一度に映すことのできる黒板の箇所が狭くなり、生徒は画面外の板書内容をそのとき確認することはできない。そのため、結局は大きな字で書くことと、小さな字で書くことについて、画面で見ている生徒からすれば違いはなくなってしまう一方で、教員の側は小さな字で書くと、その都度、PCを近づけるという作業が増えてしまうのである。

だからオンライン授業の空間的な制約とは、生徒が画面上で見ることができる黒板の範囲が一部分に限定されてしまうということになるだろう。スタディサプリなどの動画コンテンツの授業を見ていても、この制約は同様であり、情報量を増やすためには、黒板の映す箇所を変えるということで対応していることが分かる。

ただ、ノートのとるスピードは生徒によって違いがあり、全員が画面上に映っている範囲の板書を取りきるのを待って次の板書の範囲へ画面を切り替えようとすると、時間がかかってしまうこともありうる。だからといって、全員がノートをとりきる前に画面を切り替えたならば、とりきれなった生徒が画面から見えなくなった板書内容を確認することはできない。もちろんスマホなどを併用しスクリーンショットをとっておいて、画面が切り替えられてもそれを見れば対応はできるが、いつ画面が切り替わるか分からない生徒は何度もスクリーンショットをとる必要があり、それも無駄な忙しさを彼らに与えてしまう。ならば、まだノートをとり切れていない生徒がスクリーンショットのタイミングが分かるように、画面を切り替えるときに声かけすればいいということになりそうである。

しかし、ここは自分の変なこだわりかもしれないが、「一授業一板書」ということで、授業中に画面の切り替えを必要としない板書にしておきたいのである。そう考えると、この空間的な制約は普遍的なものというよりも、自分のこだわりという「主観的な意志」が生み出している制約かもしれない。このこだわりは理想(リソウ)的なものと言えるだろう。このこだわりは高校時代に感銘を受け、自分自身もノートを作るときに参考にした予備校講師の菅野祐孝の立体パネルノートによるものである。立体パネルノートは一回の講義の板書が一枚の黒板に見事に表現されていて、その美しさに魅了されたのである。高校時代にこの先生の参考書の情報整理のスタイルを熱心に真似したのが懐かしい。

だが、そのようなこだわりに縛られて板書量を抑えなければならないというのは、授業を受ける生徒にとって喜ばしいことなのかという視点で考える必要があるだろう。こだわりは情熱・情念の部分だが、自己満足のために授業は行われるものではないので、冷静に考える必要があり、理性(リセイ)を発揮して授業と向き合わねばいけないだろう。それは「客観的な意志」に基づく判断と言えるだろう。

そのような理想(リソウ)は、「一授業一板書」という空間的な面だけでなく、内容の面にもあり、前もって用意した板書案に示されている情報は、実際に授業を展開してみると、「全て一板書内に書き切れない」ことがある。一板書にうまく収まらないという最も空間的な問題点は、板書案をノートなどに書いておくだけでなく、前もって黒板を使って書いてみるという「シャドー板書」をしておけば解決するものであるが、時間的な制約との関係で発生する「板書が間に合わない」も、授業時間という現実を考慮していない理想(リソウ)だけで板書を考えてしまっていることによって発生する問題であろう。

そして理想(リソウ)だけを追い求めれば、板書が中途半端なもので終わってしまって、授業全体として見たときに不完全なものになってしまう。そのため、実際には残り時間と残りスペースを意識しながら、板書内容をコントロールして、板書の現実的な着地点を見つけるわけである。そうすることで、授業全体で見たときには、もっと書きたかったという部分は発生するが、話としては完結しているので、結果的に理想と現実のバランスをとることができた板書であると考えることができるだろう。

これこそ、最初に示したヘーゲルの言葉である「客観的な意志と主観的な意志は、その後調和し、同一で同質の全体を提示する」を体現してものではないかと私は思うのである。

このように自分の板書の理想と現実について考察してきたが、次のフレーズもヘーゲルの言葉としては有名であり、このフレーズも今日の考察に大きな示唆を与えてくれるものである。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

(以下、考察は続く)

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