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【小説】 語る魚 【ショートショート】

 川の流れもだいぶ穏やかになった五月。
 釣り道具を携え、私はイワナを求めて山へ入った。
 幸いこの日は他の釣客の姿も無く、あまりスレていない状態での釣り場が期待出来そうだった。
 川を奥へ奥へと登って行き、高い樹の生い茂る静かな川辺に私は腰を下ろした。

 大きな岩場の影にイワナの姿が見え、私はたまらず声を上げそうになる。しかし、ここで人の気配をさせてしまえばイワナはあっという間に姿を見せなくなってしまう。過敏なほど、源流に近い場所に住む生物達は神経質なのだ。

 糸を垂らして数分、指先の感覚が興奮を私に伝えた。
 思っていたよりずっと早いアタリに私は喜びを隠す事が出来ず、誰もいない川辺で声を上げてしまった。
 しかも、かなり重い。これは見事な大物なんじゃないのだろうか。
 イワナの力は中々のもので、思わず足元がふらついてしまう。川にドボン、だけは勘弁願いたい。
 根負けしてたまるか、と気合を入れて一気に竿を引き上げる。
 
 水を弾きながら、見事なイワナが水面から姿を現した。
 うひょー、と年甲斐も無く叫びながら跳ね上がるイワナから針を抜く。三十センチはあろうか、最大クラスのイワナには違いない。
 これは直ぐに写真を撮らなければいけないと思っていると、突然声が聞こえて来た。

「おい!」

 怒り口調の低い親父の声に、私は思わず肩を震わせた。遊漁権ならポケットの中に入っているはずだが、突然の見回りにはいつも緊張してしまう。
 しかし、辺りを見ても見回りの姿は無かった。

「おい!」

 またもや聞こえて来た声の方向を耳で探ると、信じられないがどうやらイワナが喋っているようであった。

「おい!」

 目の前のイワナが、ぴちぴちと跳ねながら「おい」と言っているのを見て、私は不思議と冷静な気分になった。山深い住む生き物であるから、霊的な事が起きても何ら不思議ではないし、山を下りた人間は彼等に畏怖すべきなのかもしれない。
 私は試しに返事をしてみる事にした。

「はい」

 イワナは一呼吸置いて、答えた。

「おまえの名前は?」
「私は、久山直行、五十六歳であります」
「よくぞ名乗ってくれた。私はイワナだ。貴様らが付けた名前を使わせてもらっている」
「あの、喋れるのですか」
「我々は普段、口を噤んでいるだけだ。我々の使命は貴様らに釣られ、食われる事にある」
「釣られて食われるのが使命なのですか……いや、それは何ともありがたいというか……」
「我々がただ黙って何千年も釣られ続けているだけだと思ったか? 釣られるだけではない。餌と擬似餌の区別、人の気配を感じた上でわざと姿を見せるなど、これでも貴様らを楽しませてやろうと日々精進し、様々な工夫を凝らしているのだ。どうだ! ありがたいだろう!」
「ありがたいです、はい」

 話してみて分かったが、イワナは私が思ってるよりもずっと高圧的な性格の持ち主だった。個体差はあるのかもしれないが、とにかくこのイワナは偉そうである。

「私は今日、話したい事があって直行にわざと釣られてみせたのだ」
「そうだったんですか、まぁ、ヤケにアタリが早いとは思ったんですけど」
「無理を言うな。喜んでいた癖に、そんな冷静な頭が直行にあるものか」

 ズバリ言うイワナだ。しかし、実際年甲斐もなく「うひょー」と叫んでいただけに何も反論出来ずにただ、禿げた頭を掻いた。

「直行はこの後、私を食べるのか?」
「あの、持って帰って……はい」
「良いだろう。それが我々の使命だ! あれか、写真を撮ってインターネットというものにアップというヤツをするのだろう?」
「まさに、それをしようとしてました」
「しろ!」

 物凄い怒気を孕んだ声で、イワナは「しろ」と言った。よほど撮られたかったのか、何度も何度もアングルの修正を求められた。
 イワナと確認し合い、釣りアプリにその姿を投稿するとイワナは「ワッハッハ!」と満足げに笑い出した。

「直行とは良い出会いになった!」
「イワナさん、あの、何か話したい事があったんではないでしょうか?」
「そうであった! 貴様らの仲間が近年流行らせた「キャッチアンドリリース」だのというふざけた釣り方があるのは何故だ!?」
「バス釣りなんかの連中は、そうですね……あのぉ、やっぱり命を尊重すると言いますか、無駄にはしないと言いますか、そのぉ」
「馬鹿者! そのおかげでわんさかバス連中が増えてしまってるんではないか! 私達も命を掛けて泳いでいるんだ! 釣ったら食え! 食わないなら釣るな! 良いな!」
「は、はい。言っておきます」

 飲んだら乗るな、というテンションでイワナがそう言うので素直に返事をしてみたものの、私の知り合いにバス釣り連中は一人も居なかった。
 イワナはそれからも私に延々と説教を続けた。最後の最後には

「このまま遊びで釣るようならな、こっちもこっちで毒を持つという手もあるのだからな!」

 と脅されてしまった。喋っているうちに苦しそうになり、水に戻そうか尋ねるとエライ剣幕で怒られてしまったので私はそのままイワナを持って帰り、夕飯の一品としてそれをキレイに平らげた。

 夜中、トイレのために目が覚めて薄暗い廊下を進んで行く。
 しかし、生きていれば妙な体験もするものなのだな、と改めて感じながら放尿の為にイチモツを出し、便器に向けた。
 チョロチョロと勢いのない音が便所に響く。 
 すると

「おい!」

 と聞き覚えのある怒気を孕んだ声がした。
 私はトイレの中を見回してみるが、当然便器の中にもイワナはいない。
 しかし、声は聞こえて来る。

「おい!」

 恐る恐る、その声を耳で探る。

「おい!」

 私は尿を吐き終えたイチモツを持ったまま、半ば放心状態になった。

「おい!」

 その声は、間違いなく便所に置かれた芳香剤から発せられていた。

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