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【小説】 輪廻のソナタ 【#第二回絵から小説】

 海原千晴は肩で風を切りながらバレエ教室のレッスンへ向かっている。その傍で彼女に羨望の眼差しを向け続ける金山美宏は通称「金魚のフン」と陰で呼ばれているが、美宏はそんな噂を耳にしても平然としていられた。踊ることでその才能を世に知らしめる千晴の傍にいられることに、同じ教室に通う美宏は悦びを感じていたのだ。

「千晴様、お鞄お持ち致します!」
「……やめてもらえない? 今は下校中だから、あまりにも人の眼が多いわ」
「そんなこと……私は人の眼なんか気になりません!」
「あなたじゃなくて私が気になると言っているの。人前で他人に鞄を持たせるような人間が美しいとは、私は思わないわ」
「それは……大変失礼致しました!」
「分かったならあなたは私の後ろを二歩下がって、ついて来なさい」
「千晴様……ありがたいです! ありがとうございます!」
「……ふん」

 若干十六歳の千晴はモダンバレエ界で「若き才覚者」としてその名を轟かせていた。幼少期からバレエを続けていたものの、小学校高学年になるとレッスンは厳しいものとなり、ほとんどの者がレッスンについて行けずに辞めて行った、しかし千晴は時に食事の時間すら削り続け、自己表現の為に練習の日々を送り続けて来た。どうしたら曲の持つ世界観を身体で体現出来るのか、どうすればあらゆる表現を身体に乗せることが出来るのか、そのことばかり考えながら努力を続けた結果、彼女は他者よりも頭ひとつ抜き出た存在になれたのだ。
 小学校時代から同じ教室に通う美宏もバレエを続けていたが、身体での表現能力に乏しく、劇になると与えられる役はいつも誰でも出来るような端役ばかりだった。それでも舞台の上で光り輝く千晴に照らされることが生き甲斐としていた。

 美宏は誰よりも千晴を知っていた。涙を飲んで練習に打ち込む姿も、挫折によって心が折れ掛けた時も、美宏は千晴の傍にいた。何があっても千晴なら乗り越えられる。光り輝ける。そんな想いを心に秘めながら、誰よりも一番近くで千晴を見守り続けていた。私は人に照らされる側。そして、いつも光り輝く太陽を見上げる側。でも、それで構わない。そう、思い続けようとしていた。

 あるコーチとの出会いが千晴の絶対的な自信を、そして美宏の千晴への想いを揺さぶった。
 年に一度行われる大きなコンクールに向け、教室の指導者がゲストコーチを呼んで来たのだ。指導者の持つ強力なコネクションを駆使した結果、教室へやって来たのはモダンバレエ界で華々しい成績を上げ、メディアにも露出が多い「東徳弘」というモダンバレエ界の大物だった。
 本人が教室へやって来た瞬間、高校一年の美宏はミーハーな心を千晴の目の前で躍らせてみせた。

「わぁ! 本物です、本物の東さんですよ!」

 美宏と同じ歳の千晴はいかにも退屈そうに爪を弄りながら俯いていた。

「だからなんだって言うの? コーチはコーチ。私は私の表現を追求し続けるだけよ」

 羨望の入り混じったレッスン生達の嬌声に千晴は苛立ちを覚えていた。その声を向けられるのはいつも自分のはずなのに、その日はその全てが目の前にいるやたら背筋の伸びた男に向けられていたからだ。

「こんにちは。今日からしばらく皆さんと時間を共にさせて頂きます、東と申します。よろしくね」

 湧き上がる拍手と嬌声に千晴は舌打ちを漏らし、手の甲と甲を合わせた拍手を贈った。

 しばらくして東はレッスン生達へ群像劇を用いた共通課題を与えた。使用される曲はかつて東の為に作られた曲で、それを群像劇としてアレンジしたものだった。
 東によって配役が発表される日、千晴は肩を回しながら欠伸を噛み殺していた。
 主役としてどんな表現をしようか、どんな風に世界を体現しようか、無意識のうちにそう考えていたのだが東の声に思わず耳を奪われた。

「いきなりですが、今回の主役を発表します。主役は、金山美宏さん。あなたにやってもらいます」

 楽しげな声で告げた東の発表に、千晴は思わず声を荒げそうになる。
 ここにいる生徒達の何処をどう見たら自分以外の人間が主役になるのか、そう問い詰めてやろうとさえ思った。
 しかし、傍に立つ美宏の姿を見て千晴は言葉を失くした。美宏は謙遜するどころか、両手で口を覆って笑みを漏らしていたのだ。そして、人目も憚らずに

「嬉しい!」

 と大きな声を出していた。
 千晴はたまらなくなり、東に食い下がった。

「東さん、一体どんな基準で見たら私以外の人間が主役になり得るのですか!?」

 東は顔すら上げようとせず、脚本に目を落としたまま鼻で笑った。

「だって、君のバレエはあまりにも想像がつくから」
「想像がつく?」
「あぁ、単純なんだよね。観てて飽きちゃってさ、なんだか刺激がないんだよ。足りないというよりは、まるでない。モダンバレエだよ? 最近の君は様式美に寄り過ぎているよ」
「それは違います! その曲に合わせて、私は私の表現を」
「黙りなさい! 曲に合わせるだなんて、バレエを自分のものに出来ていない証拠ですよ。自由表現とは何かを一度しっかりと考えてください。それに引き換え、美宏さんのバレエはとても面白かった。ビデオで拝見させてもらったけど、君が使っていたあの課題曲はなんだい?」

 話を向けられた美宏は目を輝かせ、押し退けるようにして千晴の前へ出ると意気揚々と声を張り上げた。

「わ、私の地元のお祭りで使っている、伝統曲です!」

 その答えを聞いた東は両手をパン! と叩き、大笑いした。

「そのセンス! そのセンスだよ! やはり君は人を歓ばせる才能があるようだ。まるで人のことなど知らんぷりで輝く春の太陽のようだね」
「私が……太陽?」
「あぁ、君は太陽さ。どうか頑張って、この教室の未来を照らしておくれ」
「……はい!」

 その日以降、羨望の眼差しは美宏に向けられるようになった。そして、「金魚のフン」と陰で呼ばれることも無くなった。

 端役となった千晴はレッスンを放棄し、自宅で与えられた課題とは無縁の自主練習に明け暮れた。朝も晩も関係なく、怨みを晴らすかのように一心不乱に練習し続けた結果、愛用していたバレエシューズが音もなく壊れてしまった。乱暴に脱ぎ捨てたシューズを壁に投げつけると、発表の帰りに美宏から掛けられた言葉を思い出してさらに苛立った。

「千晴、今度は私があなたを照らしてあげるからね。ずっと、私の夢だったの」

 日頃「千晴様」と呼んでいたのも忘れた美宏の顔は勝ち誇った笑みに塗れていて、慈悲の欠けらさえ感じさせなかった。しかし、そのやらしい笑みから零れた「もっと上へ行きたい」という欲求を千晴は見逃さなかった。
 すぐに追い抜いて実力の差を再び見せつけてやろうと思ったのだ。
 上を目指す気力さえ、奪ってやる。
 腹を立てたり落ち込んでいる暇などない。そう思いながら、千晴は家を飛び出した。

 シューズを直そうと思い駅前の商店街を歩いていると、ずっと空いていた古びたテナントに「酒井商店」というリサイクルショップが出来ていることに気が付いた。
 店内を少し覗くと何に使うのかも分からないガラクタが雑然と積み上げられていて、狭い店内は身体を横にしなければ入れないといった具合だった。
 千晴はそれでも興味本位で店の中へと入ってみることにした。ほんの気晴らしのつもりだった。店内に並べられているのは壊れたゲーム機やマッサージ機、不気味なまだら模様の黒い皿、「竜の髭」と書かれた透明で大きな一本髭らしきもの、そして世界各国の民芸品まで、ありとあらゆる怪しげなガラクタが崩れそうな勢いで狭い店内を埋め尽くしていた。
 あまりの埃っぽさにすぐに店を出ようと身体を反転させると、仕立ての良さそうなバレエシューズがガラクタに混じって並んでいることに気が付いた。スポーツシューズの潰れた箱に置かれていたそのシューズは、まるで千晴を見つめているようにも思えた。手にとってひととき眺めていると、店の奥から主人と思われる男が現れた。
 白いベースボールキャップを逆さに被ったその男は痩せ型で、漫画のような細い吊り目をしていた。鼻の下と顎には長い髭が生えていて、千晴の目にはまるで年齢不詳だった。

「いらっしゃーい。狭いけどゆっくり見ていってねー」

 思いの外に柔和な喋り方の男に千晴は緊張を解き、小さく会釈をしてみる。すると、男が再び声を掛けて来た。

「君はこの辺の子?」
「はい。すぐ近くです」
「へぇー。この商店街はお客さん多いのかな?」
「みなさん夕方になると沢山お買い物に来ますよ」
「あー、そうなんだ。ならよかったー。何も考えないでここに店構えたもんだからさー、今日オープンなんだよ」
「今日オープンだったんですか……のぼりも、何もないんですね……」
「ないよ。旗を立てるのも面倒だからね」
「あの、このお店のご主人ですか?」
「まぁねー」

 千晴はあっけらかんと笑う店主のあまりのやる気無さに少々呆れ気味になり、シューズを元に戻そうか悩み始めた。その手元に目を向けながら、店主は細い目を見開いた。

「あー、その靴まだあったんだなぁ」
「これ、綺麗ですね」
「綺麗だけどねぇ、うーん。履く人を選ぶらしいよ」
「選ぶ?」
「ほら、シンデレラとかいう胸糞悪い、酷い物語があるじゃない」
「胸糞……そんなお話でしたっけ?」
「あれに出て来るガラスの靴と一緒でね、元の持ち主の足に完全に合わせて作られたらしいよ。ベラルーシの職人さんが三日も寝ないで作ったとかなんとか」
「へぇー……履いてみてもいいですか?」
「はははー、履けるなら履いてみてよ」

 挑発するように笑う店主にムキになった千晴は履いていたブーツをその場で脱ぎて、裸足になる。白く滑らかな脛から伸びた爪先がシューズの中へ吸い込まれるように入って行くと、千晴は満面の笑みになって店主に向き直った。

「……ほら、履けたでしょ?」
「驚いたな。まさか履かれちゃうなんて思わなかったもんなぁー」
「これ、買って行きます。おいくらですか?」
「それねー、高いよ」
「カードがありますので、心配無用です。いくらですか?」
「あ、うちはカード使えないんだよねぇ。はははー」
「ええ……?」

 千晴は店主の指示で近くのゲームショップでゲーム機を二台購入することになった。それを酒井商店へ持って行くと、ゲーム機と交換でシューズを持って帰っても良いと店主は機嫌良く言った。

「あの、こういう行為は転売に当たりませんか?」
「当たらない当たらない。それに世の中の商売はみーんな転売みたいなものなんだから。人だってそうだよ」
「人? 人も……?」
「あぁ、人もね……安く買って高く売ったりだよ」

 それまで機嫌が良さそうに微笑んでいた店主の目が一瞬のうちに黒く曇り始めると、千晴は急激に背筋に冷たいものを感じて後ずさった。そしてカウンターに置かれていたシューズを奪うようにして手に取ると、振り返らずに店を出た。その間、背中からはボソボソと店主が呪文か念仏のようなものを呟いていた気がしたが、あえて聞こえないフリをした。

 翌る日。学校へ行くと廊下を歩く美宏の姿がすぐに千晴の目を引いた。同じバレエ教室に通う女子数人を引き連れ、その真ん中で自信に満ちた笑みを浮かべながら美宏は歩いていた。彼女達は千晴と擦れ違う寸前で足を止めると、美宏を取り巻いていた女子達が何も言わずに千晴を眺めながら忍び笑いをする。美宏はニヤニヤと笑みを零しながら、周りに声を掛ける。

「ほら、みなさんお止めになりなさいよ。千晴があまりにも、かわいそうでしょう?」

 まるで天下人のように振舞う美宏を眺めながら千晴は「吹き溜まりが」と思ったが、言葉にはせずに腕組をした。それを見た取り巻きの女子が噴き出しながら千晴を指差した。

「ブサマですこと。今まで調子に乗っていた罰ですわ。あなたのバレエはつまらない、そう、圧倒的につまらないの! 東先生の、お、す、み、つ、き! 美宏様のようなセンスの欠けらもない癖に腕なんか組んで……感じ悪っ」
「そうよそうよ。ちょっと踊るのが上手いからって調子こき過ぎ! あなたが役を外されたのは天罰よ。東先生はあなたを戒めたの。何故かって? いくら踊るのが上手くても、その才能を入れる器がないからよ!」
「腕組みして睨んだ所で美宏様が主役なのは変わらないわ。でも、そうねぇ……ここで土下座でもしたらあなたのことを視界の隅に入れてやってもいいわ。ね? いいでしょう、美宏様?」

 意気揚々とした顔で取り巻きが美宏に訊ねると、美宏は頬に人差し指を当てながら「そうねぇ」としばらく考え込んだ末に、実に嬉しそうに千晴を指差した。

「土下座と、あと靴を舐めてもらったら許しましょう!」

 さすが美宏様、センスがお有りだわぁ! と周りが囃し立てると、千晴は組んでいた腕を解いて頭を下げ始めた。美宏の口角が自然と上がり、取り巻き達はスマートフォンのカメラを一斉に起動し始める。頭を下げ始めた千晴は一気に顔を上げると、美宏の顔面に向かって躊躇なく唾を吐いた。

「あら、ごめんあそばせ。邪魔だから、どいてくださる? あなた達、私の邪魔になれて光栄ですわね。……こんな話し方なら通じるんでしょ?」

 千晴は呆然と立ち尽くす美宏の肩を軽く押すと、そのまま取り巻きの群の中を突っ切って廊下を歩き続けた。

 それから数日も経たないうちに校内には千晴に関するありとあらゆる噂が流れ始めた。身体を売って金を稼いでいる、というものや審査員と寝てコンクールの賞を貰い続けている、というものもあった。千晴が上履を隠された翌日、真新しい上履で登校すると美宏が笑みを漏らしながら彼女のもとへやって来た。

「あら、上履きはどうしたの? 新しくなってしまってるようだけど」
「あぁ、あれ? 古くて敵わなかったけど、どこかの物好きが処分してくれたようなの。お陰様で清々してるわ」
「……なんで強がるのかしら。いい加減、認めたら?」
「認める? 何を?」
「私のセンス、才能よ。あなたを照らしてあげるって言ってるのよ」
「あー、田舎の盆踊りのこと? 何処かの納会で披露でもしてあげたら良いんじゃないかしら」
「…………私はただ、あなたを照らしてあげたいだけよ!」
「結構。自家発光出来るから、大丈夫」

 相手にすらしない素振りで答えた千晴だったが、その足裏は潰れた血豆の為に血で染まっていた。仲間はいらない。新しいバレエシューズだけがあれば、それで良い。そう信じ抜き、寝る間も惜しんで過酷な練習に明け暮れていたのだ。

 いよいよ課題発表の日がやって来ると、美宏は底知れぬほどの緊張の為に吐きそうになっていた。
 課題発表とは言っても舞台は立派なホールで行われ、舞台袖から盗み見る客席に目を向ければ東と指導者の二人だけが真剣な眼差しを向け続けていた。
 美宏は深呼吸をするたびに瞼の裏が痺れ、胃から込み上げるもののせいで手足も震え出し始めていた。
 このままでは演目中に倒れるかもしれない。そう思った矢先、千晴が横を通り過ぎながら彼女の肩を叩いた。

「吐いた方が楽になる。まだ時間はあるから行って来なさい」
「……う、うるさい」
「後悔するわよ」
「あなたの上に、立てたのよ……後悔なんか何もないわ」
「なら、今すぐ舞台を下りるといいわ。私は私の表現をするだけだから」
「主役は……私よ」

 そう言いながら、美宏はトイレへ駆け込んだ。

 いよいよ発表が始まると、美宏は吐き気を覚えつつもイメージ通りの演技が出来ていることを実感した。吐いといて良かった。そう思いながら横を向いた途端、群像の中の一粒の眩い光に目を奪われた。
 集団の中で皆と同じようにもがみ苦しむ演技をしていた千晴の姿が、段違いに輝いていたのだ。
 千晴は突然襲った悲痛に耐えかね、心を八つ裂きにしながら天に向かって身悶えていた。それは表現の域を越え、まるで本当に苦しんでいるようであった。無意識に一瞬、千晴の身が心配になった。しかし、それは演技なのだと気が付くと自然と身体が萎縮を始めた。
 羨望を越えた感情は、畏怖となるのだ。
 舞台の上でスポットライトを浴びながら、美宏は生まれて初めて千晴の演技を見た幼少期の日のことを思い出していた。
 小さな身体だったが、その動きはまるでどの子供達とも違っていた。そこには純粋な驚きと喜びがあった。尊敬をし続けていたはずだった。それがいつの間にか憎しみへ変化して行った。自分を無理にでも千晴より下の立場にすることで、そんな醜い部分から目を逸らし続けた。しかし、突然の吉報が美宏の心を解き放った。
 私があの人の太陽になる? そんな馬鹿な話があるものか。あの人は永遠に、それこそ本物の太陽のように光り輝く存在なのだ。その光は、私に希望を与えてくれた。いつか、才能を持てるんじゃないかと夢を抱かせてくれた。それなのに、私は彼女の太陽になろうだなんて! 

 美宏は心の底から浮かび上がる懺悔の念に押し潰され、演技中にも関わらず声を荒げた。
 それは怒り狂った鬼の叫び声のような、子を目の前で亡くした母のような叫び声であった。
 その姿を見た東は自然と腰を浮かしていた。

「あぁ、ああ! エクスタシーを感じているんだね、今の君は感情のエクスタシーに呑まれようとしている! そう、呑まれていいんだ! 呑まれてしまえば無意識な欲に溺れ死ぬことを厭わなくなる! そうだ! いけ!」

 興奮して立ち上がった東は次に目にした光景に、先ほどまで吐いていた台詞の続きを投げ捨てた。
 天井から照明が数台落下し、舞台の上で泣き叫ぶ美宏の姿を完全に隠してしまったのだ。
 東やレッスン生達は咄嗟に駆け寄り救助を始めたが、千晴は一心不乱に悶え、苦しみ続けていた。そして美宏の姿が乗り移ったように、涙を流し始めていた。

 美宏は命に別状は無かったものの、腰部と右脚に重傷を負い踊り続けることは出来なくなった。
 彼女を取り巻いていた他のレッスン生達は彼女のもとを離れ、美宏がバレエを辞めた後にはもう話題にすら出さなくなってしまっていた。しかし、その代わりにある話題で盛り上がっていた。

「海原さん、最近いつ見てもずっと踊ってない?」
「元々痩せていたのにどんどん痩せていってるみたいだけど、ちゃんと食べてるのかしら……」
「まるで表現に取り憑かれてるみたい……汗も乾いているのにずっと踊ってて、お水をあげようとしたら「そんな暇はない」って言われたわ……ちょっと、怖い……」

 美宏の事故の一件以来、千晴は気が狂ったかのように昼夜を問わず踊り続けていた。学校にいる間も、放課後も、家に帰ってからもバレエシューズを履くと無性に踊りたくなり、身体を休めようと横になると虫唾が走るような感覚を覚えた。
 家でも踊り続けているので母が心配をして食事や水分も摂るのを無理に進めると、千晴は殺気立って怒りを露わにした。

「近寄らないで! 今忙しいの!」
「千晴……あなた、何してるの!?」

 千晴から母に向けられていたのは異常なほど血走った目で、その手にはカッターナイフが握られていた。腕にはまだ真新しい傷跡がいくつか見え、母は言葉を失った。

「千晴……その腕……」
「寝ない為よ。寝たら、踊れないもの」
「そんな……あなた、あなたぁ!」

 夫の元へ駆けて行く母が部屋を出た瞬間、千晴は部屋に鍵を掛けた。そうして、朝が来るまで踊り続けた。

 バレエ教室に現れた千晴の様子を怪訝な表情で見つめていた東は、彼女に踊るのを少しの間やめるように告げた。

「君の才能は正直、認めよう。しかし、美宏君の一件があってから……君はあの子の分まで罪を背負って踊っているように見えるんだ……モダンバレエとはそんなに気負うことはなく、自由に」
「は? 美宏って、誰?」
「え?」
「美宏って、誰?」
「美宏くんは……課題で主役を勤めていたあの」
「誰と間違えてるの? 主役は私だったでしょう? 自分で課題を出しておいて、見てなかったの?」

 冗談とは思えない口調でそう言った千晴の姿に東は不気味さを感じ始めたが、罪の意識から精神が不安定になっているのだと思うことにした。

「君は悪くない。正直、美宏くんを主役に抜擢したのは君の才能を試す為でもあったんだ……君を疑うようなことをしてすまなかった」
「誰の話をしているのか全く分からないわ。もう練習に戻っていいかしら?」
「いや、しばらく休みを……君のお母さんにも僕から連絡は入れておくから」

 東が諭すように優しい声を意識してそう言った次の瞬間、教室に盛大な金切り声が響いた。

「母親は関係ないでしょ!?」

 レッスン生達は肩を震わせて一斉に千晴を振り向くと、食い縛った歯の隙間から涎が溢れていた。

「千晴くん、どうか落ち着いて」
「あなたにも関係ないでしょ!? 私はただ踊りたいだけなの! それを止める権利は誰にもないんだから関係ないでしょ!?」
「君の体調が心配なんだ、どうか無理はせずに」
「うるさい! うるさいうるさい! おまえも、おまえもおまえもおまえも、全員うるさい!」

 千晴は解いた髪を振り乱しながら生徒の一人一人を指差して「うるさい」と喚き続けた。その気迫に誰も言葉を発せず、千晴は

「ああああああ!!」

 と叫びながらバレエ教室をそのまま出て行ってしまった。
 それが教室で見た千晴の最後の姿となった。

 それから一週間後のことだった。
 千晴の母が踏切で列車に轢かれ、亡くなった。
 母は誰よりも世間体を重んじる性格で、日々おかしくなる娘を止めることが出来ずに思い悩んだ末の行動だった。
 その葬儀の間でさえ、千晴は葬儀場に一度も顔を出すことなく踊り続けていた。
 千晴の振る舞いに限界を感じ始めた父が部屋の外から声を掛けたものの、まるで相手にされなかった。

「千晴……母さんはもういないんだ。これからは二人だけで頑張って行くしかない。父さん、千晴を一人きりにさせるのはとても辛いけれど、これからも仕事のほとんどが海外だ。食事も、洗濯も、これからは自分一人で出来るな……?」
「人の邪魔ばかりする悪鬼め! 死ね! おまえは父親なんかじゃない! さっさと出て行って死ね!」
「頼むから……これ以上心配掛けさせないでくれよ……お願いだ……」
「声を掛けるな! どうせ不出来な悪霊の癖に!」

 父として娘との対話を試みたものの、会話のやり取りは不可能だった。知らぬ間に豹変してしまった千晴を父はどうすることも出来ず、結局は知人の医師を頼って精神病院に千晴を入院させることにした。事前には何も知らせず、ある日突然屈強な男達が家を訪れ、千晴を無理矢理部屋から連れ出し、郊外の病院へと運んで行った。
 千晴は格子のついた部屋に運ばれるとベッドの上に寝かされ、自害防止用の拘束具をつけられ身体の自由を奪われた。それでも千晴は想像の中で踊り続けていた。来る日も来る日も、踊ることだけを考えていた。医師が何かを問い掛けてもまともに返事をすることはなく、糞尿を垂れ流しながらやがて想像の中で生きるようになった。
 しかし、身体を動かす欲求に駆られ続けていた千晴に変化が訪れた。人に対して人間らしい心を見せるようになったのだ。季節が過ぎて行き、春を前にした頃には大部屋のベッドの上で静かに本を読むにまでなり、すっかり落ち着きを取り戻しているように周りからは見えていた。
 慣れない義足を引き摺りながら、美宏が見舞に訪れると千晴は柔和に微笑んで彼女を受け入れた。その頬は桜のように、仄かに赤く染まっている。

「千晴、元気になって来たんだね」
「ええ。来る日も来る日も踊りに取り憑かれていたみたいだったけど、今はもう冷静になったわ。迷惑ばかり掛けて、本当にごめんなさい」
「ううん。私こそ酷いことをたくさんして、ごめんね。正直……ずっと千晴が羨ましかった。追いかけても追いかけても追いつけなくて、今はもう追いかけることも出来なくなってしまったけど……少しホッとした所もあるの」
「ホッとした? どうして?」
「あのまま踊り続けていたら、私もどうかしていたかもしれない。あの日、主役で舞台に上がっている時に、なんだか自分が自分じゃなくなってしまったように感じたの。それはとても怖い感情で……事故には遭ったけれど結果的に命は救われたんだなって、そう思えるようになった……」
「そうだったのね……ずっと踊り続けているとね、時に表現に食われることだってあるわ。少し前の私も、そうだった……」
「それでも……千晴のバレエは本物の太陽よ。これからも自分を責めたりしないで、自由を表現し続けて。お願い」
「もちろんよ。その為にこうして入院しているんですもの」
「ねぇ、千晴……いつかまた」
「うん?」
「いつかまた、千晴様って呼んでもいい?」
「いいわよ。その時はちゃんと二歩下がって歩きなさいよ」
「……はい!」
「普通に返事してよ、まいっちゃうな」

 二人の笑い声が響く病室の外では、春一番の風に揺れる桜の枝先に蕾が見え隠れしていた。病室の中の会話を聞いて楽しげに聞いているかのように桜蕾のついた枝先は春の風に揺れていた。しかし、二人の会話をあたかも嘲笑うようにも揺れ続けていた。

 美宏が見舞に訪れた数日後の夜のことだった。消灯後に大部屋を巡回していた看護師が千晴のいる大部屋に見回りに入ると、ベッドに千晴の姿がないことに気が付いた。

 千晴は身体中に拘束具を付けられていた日々の中で片時も忘れることなく、たった一つのことだけを延々と思い続けていた。

 踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい踊りたい。

 それは拘束具を外された後も変わることはなかった。見舞に訪れた美宏と楽しげに会話をしていた日も、窓の外の蕾が花を開く瞬間でさえも、思い続けていたのだ。まともなフリを演技しながら、辺りを注意深く観察し続けていた。警備が緩くなった段階で、始めから病院を抜け出すつもりだった。

 入院着のまま、千晴は裸足で夜の街を駆け続けた。
 父のいない家に帰ると部屋へ行き、バレエシューズを引き出しの奥から取り出した。久しぶりにシューズと再会を果たした千晴は、癒やしい化物のような粘ついていて引き攣った笑い声を喉の奥から漏らしていた。バレエシューズを履き、散らかったままの部屋の中で千晴はしばらく踊り続けた。
 シューズに足を入れた瞬間から、千晴のステージは既に始まっていた。入院の為に出られなかったコンクールが想像の中で開催され、千晴は灯りもなく散らかった部屋の中で観客達の賞賛と喝采を浴びていた。唸りを上げる審査員達を見下すように微笑み、一礼もせずに舞台を去る。当然、優勝は千晴だった。

 世界中のありとあらゆる表現の中で、千晴は自分が自由の表現者として最も相応しいと感じていた。他の追随など一切認めない。自分こそが自由そのものなのだ。私が、この世界に自由をもたらす太陽なのだ。そう胸に強く刻むと、千晴はバレエシューズを履いたまま部屋を飛び出した。
 赤信号の交差点を笑いながら、そして踊りながら突っ切った。たまたま通りかかったタクシーの運転手がクラクションを鳴らしながら急ブレーキを踏むと、千晴は嬉々として停車したタクシーのボンネットの上に飛び乗った。ボンネットの上に仁王立ちすると、唖然とする運転手を見下ろしながら千晴は微笑んだ。その口角の端から一筋の糸が垂れると、運転手は恐怖心に駆られてアクセルペダルを踏み込んだ。痩せ衰えた千晴の身体は軽々と宙を舞い、地面に叩きつけられる。起き上がると足の感覚を失くしていたが、それでも立ち上がり、再び踊り続けることで心に安堵と無常の喜びが湧き上がった。

 千晴は真夜中の住宅街を踊りながら通り抜け、ライトアップの終わった真暗闇の桜並木に差し掛かる。時折吹く風は桜の木々を揺らし、満開の花弁を人のいない街へ運び続けている。

「私の出番よ!」

 散り行く花弁を拍手と思い込んだ千晴は内から込み上げる感情の全てを身体に乗せた。自由に踊り、身体の神経のひとつひとつの動きや働きが手に取るように感じられた。
 桜並木を踊りながら、千晴は遠い過去のことを思い出していた。
 それはとても小さかった時の記憶で、まだ小学生にもなっていない頃のことだった。母に手を握られながら、とあるバレエ教室の隅に立っていた。
 幼少期の千晴は人前に出るのが極端に苦手な子供だった。年上の女の子達が踊るのを、千晴は母の陰に隠れながら眺めていた。あまりに前へ出ようとしない千晴に、母は痺れを切らし始めた。

「千晴、バレエはちょっとやめとこうか?」

 そう訪ねると、まだ幼かった千晴は母の手を強く握りながら首を小さく何度か振りながら、声を振り絞った。

「ママ、これがいい」

 そう、これは自分で選んだ道なのだ。そして、それは何よりも正しい選択だったのだ。何故なら、私は踊ることでこんなにも自由になれるのだから。

 そんな悦びを胸に感じながら、千晴は桜並木の真ん中で踊り続けていた。
 バレエシューズは真っ赤に染まり、赤い足跡が並木道にいくつも出来上がっていた。足首は妙な方向に曲がり、腕も関節の強度を失くしていた。
 しかし、それでも痛みすら感じないまま踊り続け、強く吹いた風の為に運ばれた大勢の桜の拍手の向こうに、やがて彼女の姿は消えて行った。 
 その翌朝、桜並木の真ん中で千晴は裸足の遺体となって発見された。

 多くの者が千晴の死を悼んだ。あまりに突然の出来事に東は気力を失くし、コーチを辞退することとなった。千晴の父はかつての日本の家族を必死になって忘れようと、海外に越して新しい家族を持った。そしてまたひとつ、季節が巡って行った。

 駅前に立つリサイクルショップのドアを、義足の少女が入って行く。
 大学受験に追われ、ストレスと向き合い続ける日常の中での、ほんの些細な気晴らしのつもりだった。
 雑多に並べられた怪しげな商品やガラクタの山の向こうから、間延びした男の声がする。

「いらっしゃいませー。狭いけど、ごゆっくりねー」
「ありがとうございます。へぇー……見たことないものがいっぱいある。あ……これ」

 少女の目に止まったのは真っ赤なバレエシューズだった。手に取って眺めてみると、かつて親友が履いていたシューズにどことなく似ていることに気がついた。
 しばらく眺めていると、店の奥から男が声を掛けて来た。

「あー、その靴まだあったんだなぁ」

 少女はその声に小さく微笑みを返した。

「綺麗な靴。友達が使っていたシューズに形は良く似てるんです。色は違うけど」
「へぇー、そうなんだぁ。それ綺麗だけどねぇ、うーん。履く人を選ぶらしいよ」
「履く人を、選ぶ?」
「ほら、シンデレラとかいう胸糞悪い、酷い物語があるじゃない」
「シンデレラって、あの……お姫様の話でしたよね?」
「……あれに出て来るガラスの靴と一緒でね、元の持ち主の足に完全に合わせて作られたらしいよ。ベラルーシの職人さんが三日も寝ないで作ったとかなんとか」
「えー、凄いですね。私は……履きたくても履けないからなぁ」

 そう言って何処か申し訳なさそうに少女が小さく笑うと、店主は愛想よく微笑んでからこう言った。

「せっかくだし、履くだけ履いてみたらいいんじゃないの? まぁ、合うなんてよっぽどの奇跡でも起きないと無理だろうけど」
「……じゃあ、片方だけ。失礼します」

 少女は山のように積まれた商品に手を置きながら、靴を片方脱いだ。そして床に置かれた真っ赤なバレエシューズに白く細い爪先を少女は恐る恐る近付けてみると、まるで吸い込まれるようにして爪先がシューズの中へと入って行った。

「履けました! ほら、見てください。履けましたよ!」

 少女の無垢な声を聞くと、店主は頭を掻きながら首を傾げた。

「驚いたな。まさか履かれちゃうなんて思わなかったもんなぁー」
「私、買います! このシューズ、買います! 友達に少しでも近づける気がするんです」
「それねぇ、ちょっと高いんだよねぇ……うちカード無理なんだけど、手持ち大丈夫?」
「はい! もし足りなかったら下して来ます」
「履かれちゃったら売らない訳にはいかないもんなぁ、毎度あり」

 少女から数枚の札を渡された店主はシューズを抱えながら嬉しそうに店を出る少女を見送った後、煙草に火を点けて誰もいない店内で独り言を呟いていた。
 その言葉を聞かないまま、聞けぬまま、ようやく歩くことに慣れ始めた少女はそれからもう二度とその店に足を踏み入れることはなかった。

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