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家族の理想

とても当たり前の話だけど、一人きりでこの世に生まれて来ることは出来ない。
生まれてくるその瞬間、それは同時に親子という関係が生まれる瞬間でもある。

先日僕は大切な人と話をしていて「家族の理想」ってなんだろうな、と考えた。

理想の家族、じゃなくて「家族の理想」だ。
こんな風な投げ掛けをしたのは彼女で、僕はその問い方がとても好きだったりしている。

何も惚気話をしたい訳ではなく、こういったことを考える機会は今まであったかなぁと考えた。
僕の知っている人達から話を聞く限り、皆それぞれの理想を持って家族という組織を営んでいるように思える。

ある友人(Wと呼ぶ)が「俺は子供にとっての幽霊になりたい」と言っていた。
Wよ、まさか早々とこの世に哀愁グッバイする気なのか!?と思いきや、そういう話ではなかった。
幽霊の真意を問うと、Wはこう言った。

「子供のために毎月貯金してるんだけどさ、大学卒業まで一人あたり最低二千万はかかる訳じゃん。それを捻出し続けるのももちろん大変なんだけど、俺は自分のそれまでの趣味とかもう全部いらない訳よ。だから捻出する分と同等くらいの貯金を保険として貯めておいてさ、大人になった時にその通帳を渡せたらって思うんだよね。そしたらさ、一人立ちした後にその通帳が幽霊みたいに子供のことを見守ることが出来るんじゃないかなって思ってるんだよ」

それを聞いた瞬間、なるほどなぁと思った。それは退散させるべきではない素敵な幽霊だろう。
Wにとって理想は子供を見守り続けられる幽霊になることだった。

そんな風に先を考えて行動出来るのは家族があるからなんだろうか。
当時独身街道を壊れたエンジンで爆走し続けていた僕にとっては「へぇー!」と驚くことしか出来ず、独身界の目線で見ればなんとも浮世離れした世界の話だと思っていた。

家族という言葉を調べてみると以下の文が出て来る。

<家>によって結ばれた繋がり・共同体のことであり、一般的には「夫婦や親子その他血縁」「同じ家に住み生活を共にする者」という意味合いまで含めて用いられる表現。

この言葉を見た時に思わず脳味噌がフリーズした。何も思い浮かぶものが無かったのだ。
けれどそれは「理想の家族」をイメージしようとしたからに他ならない。

以前のエッセイでもたびたび書いているように、僕は家庭という定義がある程度崩壊した家で育っている。家に父の姿はなく、帰って来ても兄達と喧嘩してすぐに出て行ってしまう。帰って来たと思ったら外国人の女を連れて帰って来たりする有様で、家族揃って食卓を囲んだり旅行へ行ったり、家族写真の一枚さえ撮ったこともなかった。当然、七五三とかの行事ごとなんかも経験した事はない。

世間でいう「家族」みたいなものはテレビドラマの中にしか存在しないのだ!つまりアレは正解の反対なのだ!バカボンボン!と思っていたら我が家の方が完全にスットコドッコイだった。
おかしいのはこっちの方で、どうやら他の家の方がまともらしかったのだ。

世間のイメージに慣れていないまま育つと大人になってからも何となく想像がぎくしゃくしてしまう。環境のせいだろうか、兄が二人いるが二人共家族を手放している。
長男に子供が産まれた時、兄は

「任天堂のCMに出て来るような家族なんてクソ喰らえだろ」

と言っていた。

そんな中、僕は結婚すらしないままこの年齢まで生きてきた。
別にしなくてもいいと思っていたし、生活を共にしたい人との出会いもなかったし、それ自体を拒んでいた。
昨年になって考えを改めるような出来事があり、先のことを考えるようになった。

どうありたいか、そんな風なことも時々考える。
考えながら、同じ屋根の下で暮らす相手に感謝の気持ちを忘れないでいられたらなぁと思った。
僕は根っこがだいぶラッパーみたいな部分がある。
ビガップ、つまり感謝と尊敬をかなり大切にしている。

ラッパーも物書きも言葉を操る人種なので共鳴するのだろうかと思いつつ、実はそんな気持ちを忘れずにいられたらいいなぁと思うのだ。

人は人に慣れてしまう。交わす言葉さえ、初めて手に取った日の重さも軽く感じられるようになってしまう。
目の前にいる事が奇跡のように感じられた事さえも、当然にすり替わってしまう。
それが日常となり、日常が当たり前になる。

けれど、通り過ぎてばかりいる「当たり前」に気が付いた瞬間には感謝の気持ちが生まれたりする。
毎日話をしてくれてありがとう、一緒に過ごしてくれてありがとう、ここに居てくれてありがとう、という気持ちになる。

僕は一時、そんな当たり前のことすらも感じられない環境に身を置いたりもしていた。人の命を通して「当たり前」が実は全然「当たり前」じゃなかった事も知った。どれだけ深い仲にあっても、人というのは突然死んでしまう事だってあるのだ。それは「またね」という簡単な約束すら叶わない瞬間になる。

今のところ相手に慣れてしまうような事は全然なくて、感謝も尊敬も尽きないでいる。
家族の理想を考えた時に真っ先に浮かぶのはその人がいる光景で、お互いが存在している事が嬉しかったり楽しかったりする瞬間が常にあったらそれは最高の幸せなのだろうと思っている。

最終的には暖かい日に日向ぼっこでもしながら、ふと横を見た瞬間にその人が死んでいた。なんて最期を迎える所までも考えてみたけれど、家族で季節の話や何でもないような、それこそすぐに忘れてしまうような話を沢山重ねられたらそれが理想だよな、と思った。

つまり、僕にとっての「家族の理想」はあまり特別なことではなかった。
しかし、そんなものこそ大切に持ち続けたいとも思えた。

まとまらない話だし特にオチも何もないけれど、答えを出す訳ではなくて何かを考える時間がとても好きだ。
そんな事を言葉にするのも好きだから、また何かを考えながら書こうと思う。

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