【小説】 猫と犬 【ショートショート】
騒がしい場所が嫌いなんだと、その猫は言った。
「喧騒の中にいると耳も、鼻も、目も、まるで自分のものじゃないような気がして来るんだ。だから嫌いだ」
犬は猫の隣で、首を傾げながら不満げに鼻を鳴らした。
「なんでさ? わいわいしている中に居た方が心が安心じゃないか」
猫は犬の言葉の後に深く俯いた。心が重たくなったからではなく、目の前を一匹の蟷螂が過ぎて行ったからだ。無意識だった。生きる性だ、と猫はふと自身を想ったのだが、そのおかげで犬の言葉は半分も届いてはいなかった。
草むらの中へ紛れてしまった蟷螂だったが、草葉の奥で尻を揺らしているのが猫の目には映っている。犬は猫の方へは見向きもせず、リビングの大きな窓を開けて主人が出て来ないものかと、待ち侘びていた。
「心が、なんだって?」
ふと顔を上げた猫の言葉は犬の耳には届いておらず、猫は心の中で犬を嘲笑う。
どうせこいつは誰の言葉も聞いちゃいないんだ。尻尾を振って、主人に愛想を振り撒くのに必死で、餌の一つも自分で獲れやしない情けない奴だ。
そんな風に思いながら猫は欠伸をする。空が晴れていて、冷えた風は緑色が枯れ始めた匂いを鼻腔に運んで来る。
こんな季節に生まれたことをぼんやりと猫は考えているが、そこに誰かの姿はなかったことを少し思い出すと、いつもそこで思考を止めてしまう。
こんなに天気の良い日ではなく、雨で濡れた地面から跳ね返る雨粒に、頬を打たれていた気さえして来る。
「なぁ、主人はこの頃ずいぶんと機嫌が良いけど、何か良いことでもあったのかな?」
犬が嬉しそうにそう尋ねて来たので、猫は心底面倒臭そうに後ろ脚で顔を掻いた。
「知るかよ。そんなことを知ってどうする?」
「だって、主人が嬉しかったら僕だって嬉しいんだもの」
「あら、そう」
「なんだよ、君だって嬉しくなるだろう?」
「嬉しくなる!? おまえと一緒にするな! 吐き気がする!」
猫は本気で怒り、牙を剥いて犬を威嚇した。
主人の機嫌に心がいちいち左右されるなんて、冗談じゃない。
全くもって、思考の寄生虫みたいな考え方だ。
気持ち悪い。
猫がそう思う間、犬は隣で不機嫌になった猫を見下ろしている。
この存在は何故にこうも幸福というものを否定し続けるのか、犬には理解不能なのであった。
この世界はどんな瞬間でも、愛で溢れている。主人が向けて来る眼差しも、愛娘も、その妻も、いつも自分に最大の愛情表現をしてくれる。だから、愛を返したくなる。愛が返ればさらに愛が返って来て、愛は山積みになる。そして、山積みになった愛は誰にも崩すことの出来ない絆に変わる。
猫より僕ら犬の方がよっぽど賢いから、僕らはわかっているけれど、猫には一生理解出来ないのだろう。なんて可哀想で哀れな連中なんだろう。
これほど体格差があるのに僕が君を殺さないのは、慈愛を知っているから。ただ、それだけのこと。そして君は、それだけのことさえ理解は出来ないのだろう。その証拠に、いつも目の前を走る小さな虫や止まり木でうたた寝をする鳥達の命を弄んでいる。まるで、こいつら猫は通り魔そのものだ。
犬が猫を蔑んでいると、勢い良くリビングの窓が開け放たれる。主人が眼鏡を光らせて、嬉しそうに彼の名を叫ぶ。
「ジャッキー! カモン!」
尻尾を振って駆け出した犬の後姿に唾を吐き掛けたい衝動に駆られながら、猫はその場に止まっていた。
犬が馬鹿のひとつ覚えのように主人の周りをくるくると回り出すと、主人がリビングの奥にいた見知らぬ女を手招きした。歳は三十は届かないくらいだろうか、遠く離れていてもケバい化粧とドギツイ香水の匂いが鼻をついた。まるで喧騒が服を着ているような、人工物みたいな女だった。女の登場に犬は主人の周りを回るのを止め、姿勢を正して女を見上げ始める。
「この人は僕の新しいワイフだ。さぁ、カリン。ジャッキーを撫でてあげて」
女は鉤のような爪を眺めながら、退屈そうに呟いた。
「私、犬が嫌いなの。昔噛まれたことがあるから、見るのも嫌なの」
「そうか、そうなんだね、カリン。知らなくてごめんよ。ジャッキーは明日にでも保健所へ預けるよ、ごめんね」
「そうして頂戴。ねぇ、フレンチに行くんでしょ? 何を着て行こうかしら。選んでよ」
「ちょっと待って、まだ家族がいるんだ……シェリル、シェリル!」
「また犬?」
「いや、自由気ままな猫さ。いつも手をやいてる。シェリル!」
「えっ、私、猫大好き! おいで、シェリル!」
猫は誰が決めたのかも忘れてしまった自分を「呼ぶ用」の名前を聞きながら、家の周りを囲う柵を飛び越えた。犬は唖然としたまま舌を出してクゥン、クゥン、と鳴いていた。
ざまぁみやがれ。散歩でしか世界を見てない、この世間知らずのクソ坊ちゃんめ。
そんな風に思いながら、猫は路上に飛び出る。声はまだ微かに聞こえていたが、振り返ることも立ち止まることもない。
路上には陽が射していたが、冷たかった。その温度を足の裏に感じながら、名前を決めたのが主人の娘だったことを思い出す。
いつもめちゃくちゃに自分のことを撫で回すのであまり好きではなかったが、決して嫌いな訳でもなかった。
猫は空気の澄んだ枯れた季節の匂いの奥に、有りもしない彼女の匂いを探し始める。
突然顔を出してやったら、喜ぶだろうか。
そんなことを考えながら、何処に行ったのか居場所も分からぬ彼女の跡を猫は辿り始める。
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