永久と存在 【随筆】
雨の中、店先で傘を盗まれたらしき男が店員に向かって怒鳴り声をあげていた。
「どうしてくれるんだ!」
店員は「そう言われましても」と困惑していたが、それを見ていた私はすぐに
「上がるのを待てばいいじゃない」
と思ってしまった。
私は紳士ではないし、怒り狂った中年男に役得を与えてもこちらの実りは少ないので傘を差し出すことなど無かった。もちろん、思い浮かんだ言葉を掛けることもなかった。
その昔、駅を出た途端に雷雨に襲われて駅から一歩も出られなくなった事があった。
まいったな、そう思っているとバイト先の客のブラジル女性(三児のパワフルママさんだ)に声を掛けられた。
「ハイ! タケシ、どうした?帰らない?」
「こんなに降っちゃ帰れないよ」
すると彼女は「OK」と笑いながら、僕に自分の持っていた傘を差し出した。
これはいけない、と思い
「マリー、濡れちゃうからダメだよ」
と傘を返そうとしたが、彼女は既に雨の中を全速力で走り出していた。
そして、笑顔で振り返って
「ワタシはダイジョーブ!」
と元気な声を出して暗闇の向こうへと走り去って行ったのだった。
毎日のように訪れる客だったので数日後に訪れた際に傘を返すと申し出ると
「マダ覚えてたの!?キモチワル!!」
と眉間に皺を寄せられたことを覚えている。
もちろん彼女は冗談のつもりで言ってくれたのだけれど、この「ワタシはダイジョーブ!」という言葉の力強さを近頃ふと思い出す事がある。
noteをまともに始めたのが今年の三月頃で、五ヶ月が経つ。
季節も変わり、気付けば読んで頂く機会も増えた。
「伝えたい事は特にない」
と初めのうちは公言していた割にハイペースで更新し続けたが、自身の生涯は無言の石のように誰に見られる事もなく淡々とした死を迎えるものだろうと思っていた。
しかもそれに対しての準備も行っていた。
おおらかに構えながらも、それが無意識で意図的ではない自死なのだということを薄らと感じながら、もうこれ以上人と深く関わることは無くて済むだろうと安堵していたのが、私の「ありふれた日常」的な考えだった。
大人になればなるほど付き纏う「状況」「環境」「経歴」「経験」という看板が私から未来を見る眼を次から次へと奪って行ったと思い込んでいたのだ。
盲目にさせていたのは自分自身による諦めなのにも関わらず、看板を眺めながら「そうしなければならない」、「そうでなければならない」、と常に自分に言い聞かせていた。ここ四年は特に酷いものだった。
言い聞かせ続けた言葉達はまるで私を躾ける家庭教師のように、朝から晩まで執拗に隣に居座り続けていた。
限りなく「0」に近い人生を送ろうとしていた自分を顧みることが無かったのは、期待も価値ももう何も残ってはいないと自身を値踏みしていたからだ。
最後の最後の誰宛でもない一方的なお便りのつもりで書き始めた小説。
実は元々小説を書く予定はなく、三年ほど前に必要に迫られて書いたのがきっかけだった。
今はすっかりライフワークとなって、近頃ではコミュニケーションツールの一つにまでなっている、なんて思ったりもしている。
そんな風に物を書き伝える中で変わったのは私の日常だ。
実家が無くなったりしたのは対外的な環境のひとつ。
自分自身の日常はまた別の形で大きく変わった。
臆面もなく言えば人としてとても大切な人が出来た。
これは今までの生活では考えられなかったことだし、想定もしていなかったことだ。
その人はいつも常日頃うるさく喋る私の話を半分も聞いていないと思う。
それでも、いつどんな状況の私の話をしても
「私は大丈夫」
というような、とても力強い言葉と笑顔を見せてくれる。
その人が本当に大丈夫だから言っているのだというのが伝わる。
ああ、それなら私も大丈夫だ。あ、大丈夫だったんだ。
と、まるで本当に阿呆のように私は自分のことを思いながらも、とても多くの勇気をもらっている。
このような出会いを人は時に「運命」と呼ぶけれど、私はこれを運命とは思えない。
運命とはいつも悪戯に乗って、自由気ままにやって来るものだ。
自ら手繰り寄せた行動の結果ならば、それは運命ではなくて日常なのではないかと思っている。
これはきっと偶然と必然の関係性にも似ている。
運命ばかりが素晴らしいと言われがちだが、日常の美しさに勝る運命などあってたまるかと私は思う。
だからこそ、今という日常を大切にしたい。
いつか必ず止まると分かっている時計の針に目を配り続けているうち、目の前に在る人を忘れてしまうような真似だけはしたくはない。
どうせ同じ忘れることならば、どうせ忘れてしまう会話を何度だって繰り返したい。
時計の針を自分の指で幾ら早回ししても、その時はついに訪れなかった。
回す指を誰もが苦々しく、または諦め顔で眺め去って行く中、たった一人だけがその腕を止め
「何してんの?」
と伝えてくれた。
本当に、何をしていたのだろうと思う。
死ぬために生きている訳ではない。
生きた末に人は死を迎えるのだ。
「ワタシはダイジョーブ!」
いつかのそんな言葉を反芻として重ねているうちに、夜の雨は上がっていた。もう人から傘をもらわなくても、私は歩いて行けるだろう。
隣を見ながら、たまには声を掛け合いながら。
雨の降り飽きた空は暗くとも、どこまでも晴れ渡っている。
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