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うつらつらつら、うつらつら

つらつら書きたいので、今回は文体がやや異なる事を承知頂きたい。別に何も真面目な話をしようって訳ではない。

普段からぼんやり、のんびり過ごす事が苦手だ。
そんな時間をたまには作った方がいいだろうか、とも思うのだけれど変な妄想が浮かんだり居ても立っても居られない心持ちになったりするのでマッサージを受けている時以外は常に何かしら考える癖が付いている。

考えるとはいってもそれは答えのないものばかりで、ましてや哲学なんて呼べるものでもない。

noteでは小説を書くのがメインで、次にエッセイ、次に随筆という順位付けを勝手に行っているのだが、自分自分の心情をありのまま吐露する事はほぼ無い。
それは「小説」が軸にあるからで、エッセイにしろ随筆にしろ何処かしらに脚色が加えられている。
これは画面の外側に相手がいるからそうしているからで、その瞬間に他者を意識している自分に気付かされるものの、不思議と書いている最中は文の中に没頭しているので他者の意識はそこに介在しないのである。

書き終えた瞬間、私は「読者」になる。
そうして出来上がった物を読み直している内に、あちらが気になりこちらが気になり、作り手に戻る。
作り手としての自分を自分の中から抜いて行く作業を経て、やっと読者として自分の作品を俯瞰的に眺める(と結局は思い込んでいるだけだろうが)事が出来る。

外は雨が降っていて、薄寒い。
隣の他人が「けんみんSHOW」の話で盛り上がっていて、私は時折耳を傾けたり、邪魔に思ったりするのである。
人のすぐ隣で邪推や妄想をしてみても、それが相手に届く事はないので落ち着いた頃合いを見て整理し、物語が生まれるかどうか考えてみる。

一つ注意したいのが私が書いている物はあくまでも

「作り話」

なのであって、見聞したものをそのまま書く気にはさらさらならない。
盗み聞いた話が幾ら楽しかろうと、そこに意地でも自分の手垢を付けておきたくなるのが作り手の心情なのではないだろうか。

自分で自分の事を「作家」とは呼びたくないし、なるべくであれば呼んで欲しくはない。
「駄文屋さん」とか、そんな呼び名ならばしっくり来るだろうか。
その程度の物書きである事は自認しているので、常々書く事に対して考え続けなければならない。
でないと、すぐに物語が筆に降りて来なくなるからだ。

ドイツでは「キオスク小説」というものがあって、それは電車で移動する間のみ読まれる短編集なのだそうだ。
移動の暇潰しに読んだらゴミ箱へ捨てられる本がキオスクで売っていて、それが一つの文化になっているのだとか。
何かと聞き違えていたら申し訳ないが、そのスタンスは「本が可哀想」と想う者を無視すれば、中々素晴らしいものなんじゃないかと私は思っている。
パッと読まれ、パッと忘れられる。読んでいる間は、移動している時間を忘れられる。
作者と読み手がなんと後腐れが無く、サッパリした関係性なのだろうか。

書物の練習として日々下手な鉄砲の如く短編を書き散らしては読んで頂いているのだが、こういった「キオスク小説」に近い感覚を持って頂けると嬉しく想う。
パッと読んで、何かを感じて頂けたらそれはそれで嬉しいのだが。

今日はいつもとは少々異なる文体で書かせて頂いた。
「固いな」と思った方も多くいるだろうし、この記事に関しては特に何も求めていないし、求められる事も少ないと想う。
何故このような文体になったかと言えば、リアルタイムで考えながら書いているからだ。

ここまで十分少々で推敲する事もなく思ったままを書いているのでだいぶ乱暴で悪筆な物になっただろう。

たまにはこうして、ありのまま何の色も加えずに頭の中の文を書き散らすのも私にとって良い、と思ったのだ。

雨が染み込んだ街に車が走る。淋しそうに泣いている。


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