錆色の街
生まれて初めて降り立った街の空は想像していたよりもずっと高く、とても広かった。
足早に過ぎる季節に一時停止ボタンがついていたとするならば、僕はそのボタンを自らの手で押したんだと思う。
先日、こんな記事を書いた。
でも最近、会いたい人にはやっぱり会いに行った方が良いだろうと思えるようになった。
その人が、自分が、いつ「まさか」になるかも分からない。
でも、そんな想像をして身を震わす暇があるなら「またね」と言えるようになりたい。
そして、いつか「久しぶり」と言いたい。
今回の記事は前回の続きのようなものだ。
僕は過去のトチ狂ったエッセイの中でも申し上げている通り、かなり面倒臭がりな上に出不精な人間だ。おまけに「理解不能」と人様から言われてしまうような性格の持ち主。
朝方のサービスエリアで黒く混ざり合っていた空が何層にも分かれる景色を眺めながら、そんな時間になって地元の境界線を軽々と越えている自分に驚かされた。
どうしてサービスエリアにいたのかと言えば、理由は実に単純なもので「会いたい人に会いに行った」からだ。
それは一見とても勇気がある行動のようにも思えるが、見方によってはマーク・チャップマンのような「動機」に繋がる可能性だってある。
けど、そんな物騒な冗談を言い訳に自身の感情に保険を掛けるような真似はしたくなかった。
人が死ぬような作品率高め(直近でも死んでます)の僕だけど、さすがに現実で人を殺めようと思った事はない。
そんな僕は「会いたい」と言うシンプルな感情だけをポケットに突っ込んだまま、ちょっとした旅に出た。
昨今「お散歩ジャンキー」と化している僕は降り立った場所からまず、街の散策を開始した。
地元とは微妙に色合いの異なる空。チェーン店が幅を利かせているだけではない多様性に満ちた街。朝方から活気に溢れる商店街の光景にも出会えたりした。
違う街にやって来た実感が得られた頃、僕は少しだけ眠る事にした。
浅めの仮眠を取ってから街をあちこち回っていると、ある公園で家族四人が地面を眺めながら何かを囲んでいた。
ふと視線を向けると家族の眺める視線の先にいたのは腹を見せて転がっている蝉で、こんな会話が聞こえて来る。
小さな男の子と、その妹。
「これ生きてる? 死んでる?」
「お兄ちゃんイジっちゃダメー!」
「だってひっくり返ってるんだもん」
「ツンツンしたらかわいそうでしょー」
僕も気になって覗き込んだその途端、蝉が「ビビビ!」と鳴き声を立てて飛んで行った。仰け反って驚く僕と、見知らぬ一家。
顔を見合わせて笑うと、奥さんが僕に言った。
「やだぁ! ビックリしますよねぇ!?」
「心臓止まるかと思いました」
マジで心臓が止まるかと思ったけど、そんな風に知らない場所で知らない誰かと一瞬の会話が出来て嬉しかった。
公園には楽器を持ったミュージシャンらしき人物や、舞台稽古の練習をしている人がちらほら居て、ぼんやりと眺めているだけでも楽しい。
噴水の音と夏の風に混じって、こんな声が聞こえて来る。
「先日こんな事がありまして」
「へぇ、凄いねぇ」
「まだ話してないですけど……待って、ストップ」
「え?」
「間が悪い。もうちょいゆっくり入って来て」
「分かった。もう一回」
炎天下の石畳。若者二人が掛け合い漫才の練習をしている。
もちろん、二人の目の前には誰もいない。けれど、その目にはきっとお客さんが見えているんだろう。一体、どんな風に見えているのだろうか。
その後、二人は同じ台詞を何度も繰り返し練習していた。
どんな風に見えているのだろう。
それは僕が知りたかった事のひとつでもあった。
待ち合わせ場所に辿り着いた頃には既に多くの人が待ち合わせをしていて、僕は正直眩暈を起こしそうになった。
この中を移動しながら僕に見つからないよう「待ち合わせレベル」を上げるその人を、何とかして見つけ出さなければならなかったのだ。
服装含めノーヒントで探し始めると、タイムリミットを設けた旨のラインが届く。
歩き回っても何処にいるのか分からず、僕は次第に焦り始める。
向こうから僕は見えているようだけど、僕からは全く分からなかった。
ムキになって同じ場所をぐるぐる回っていると、誰かを待つ女の子達から怪訝な目を向けられた。それと、土産袋を持ったオジサン二人にも。若い男の子達にはあからさまに笑われた。
そりゃそうだ。眉間に皺を寄せた怪しげな男が自分の顔を眺めながら、それこそ回遊魚のように何度も目の前を通り過ぎて行くのだから。
同じ場所を何周もして、ふと目線を横に向けた瞬間にやっと見つけられた。
立っているものだとばかり思い込んでいたのだが、座っていたのだ。
やっと見つけられたその人に近付いて言葉を掛けると、違う言葉で質問を投げ掛けられた。
その瞬間に僕はようやく、ずっと会いたかった人に会う事が出来たのだと実感した。
一人では中々入る事の出来ないお店や場所にも、二人なら訪れる勇気が湧いて来る。これはとても大事なことで、それは人と過ごす醍醐味だったりもする。
一人じゃ笑わないような事、驚かないような事、通り過ぎてしまう景色も二人なら違って来る。
会話は無意識に弾み、それはまるで掘れば掘るだけ地盤が緩くなる宝探しみたいだった。
地面の奥底の距離なんか分からないけど、宝箱はあっちにもこっちにも埋められていた。
会う前にどれだけの不安や心配を抱えていたのか忘れてしまうほど、僕は共に過ごす時間を「楽しい」と感じていた。
前回話した通り、僕は誰かとの「またね」が「まさか」に変わる瞬間が怖かった。
深い関係を築けば築くほど、心の琴線に辿り着く前に人とは距離を置こうと意識していた。
それは自分が傷付かない為の手段。そんな自分をきっと、ずっと前から見透かされていたようにも思えた。
「死ぬ事ばっか考えるなよ。なに墓の準備してんだよ、まだ若いのに」
一緒にいるうちに何度かそんな事を言われ、そのたびに僕は「ああ」と、曖昧に笑いながら答えていたように思う。
言われた通り、僕は自殺なんかするつもりは無いが先を見越して死ぬ準備は色々と済ませていた。
どうせ独身のまま死ぬのだから墓も合祀墓でいいだろうと、申し込みも済ませていたのだ。
「ああ」と曖昧に返事をしたのは否定したい気持ちがあったからではない。
なんでそんな事をしていたんだろうと、自分の命に対して恥を覚えたからだ。
「どうせ後、死ぬだけだから」
日頃自分の口癖になっていたそんな言葉を思い出し、そんな自分を恥じたのだ。
自分の生き方に対してではなくて、自分の命そのものに対して申し訳なくてたまらなかった。
普段の僕なら確実に偏頭痛を起こしている時間になっても、頭は一向に痛くはならなかった。
僕は喫煙者なので夜中に何度か外へ出て、ほとんど真っ暗になった喫煙所で座り込んで話をした。真夜中を過ぎた頃、まるで昔に戻ったような錯覚がした。
それは行き場が無くて路上にたむろし、煙草を吹かしていた高校時代だったり、ライブハウス前でメンバーと座り込んで話し込んでいた頃の記憶だった。
喫煙所の階下ではスケボーを転がす音がして、近くの公園を歩けば真夜中の記憶を現役で刻み続ける若者がチラホラ見えて来る。
僕はほんの少しだけ彼らに自分の「真夜中の記憶更新」のお知らせをしたくなった。
遠く白み始めた空が徐々に新しい「今日」を連れてやって来る。僕らはまだ「昨日」をぶら下げながら、建物のコンコースから並んで路地を見下ろした。
そして千鳥足のおっさんが漫画みたいにフラフラ歩いていているのを見て、かなり「昨日」なままの人がいる事に笑った。
昼。アーケードを当ても無く歩き回り、見つけた路地裏を次々に散策する。狭い路地に建つ古びた家でもしっかりと人が住んでいる形跡があって、僕らは声を潜めながら奥へ奥へと進んで行く。
とある路地を歩いていると、その人が顔を上げてあるスペースを見つけた。
表へ回ると何処かのお店の屋上のはずなのだが、それが中々見つからない。
目星を付けていた古い雑居ビルの狭い入り口に入り、落ちたら確実に死にそうな急階段を息を殺しながら上がって行く。
二階の怪しげな占い屋をさらに過ぎ、右手に現れたさらに狭く急な階段を上って行く。そして薄暗い先に現れた開け放しの屋上へ続くドアを抜けると、暗い視界が一気に開けた。
すぐ真下には人がごった返すアーケード通りがあるはずなのに、その場所だけは夏の光の青さと静けさに包まれていた。
屋上の古びた扉を見返すと、それはまるで僕らを異次元に運んでくれる魔法のドアのようにも思えて来る。
その場所は沢山の民家の屋根に囲まれていて、すぐ脇にはアーケードの天井部分を走る真っ白いレールがあった。
周りの民家の二階部分の窓からは階段が出ていて、どの家も階段の先に洗濯物を干すスペースなんかが設けられていた。
青い夏に白い風が通り過ぎ、錆色が浮かんだ建物の中からは時折誰かの話し声が聞こえて来る。
途中で買った地元謎メーカーの缶珈琲を飲みながら、二人で腰を下ろす。
まるでアーケードに隠されてしまった青空を掴まえたようなその場所は、とても美しい静けさに包まれていた。
空を眺めると飛行機が真っ青な空を横切って行く。
飛行機を眺めながら、僕が軽口を叩く。すっかり耳に馴染んだ笑い声が辺りに響く。
階段を下りればすぐに雑踏に紛れてしまう二人の声も、ここでならハッキリと聞こえる事がおかしくなって来る。
腰を下ろす僕の横で、その人が寝転んで空を眺めている。
アーケードのレールを這う剥き出しの電気ケーブル。辺りを囲む生活感に溢れた古い屋根。その中から漏れ聞こえて来る誰かと誰かの話し声。音の無い屋上。遠くからこちらを覗くビルやマンション。目の前にはすっかり錆び切ったナショナルの壁看板。
二人で見つけた、とても静かな夏の光景。
きっと、東京オリンピックを何十年後かに思い出した時、僕はこの時の光景がふと頭に思い浮かぶのだろうと感じていた。
知らない土地が知っている土地になった。
知らない人が知っている人になった。
会いたい人が会ったことのある人になった。
それらは全て、生きているからこそ出来た事だ。
帰りは有難い事にお土産を買ってもらい、あっという間にその人と別れる時がやって来た。
楽しかったのはもちろんだけど、もう別れ際なのに思わず色々な事をもっと話したくなってしまう。
「話したい事とか、聞きたい事とか大丈夫?」
「大丈夫な訳ねぇだろ」
こいつ、何言ってんだと思いながらも感謝の気持ちを伝えたくなる。それでも口をついて出るのは取り止めもない冗談ばかりだ。
時間は呆気ないほど、感情を置き去りにして駆け足で通り過ぎて行く。
駅の案内板を眺めながら進んで行くうちに、少しずつ会話が減って行く。
やがて構内の曲がり角を折れると、その人が突然言った。
「またね」
まるで仕事帰りに別れるみたいなテンションの別れ方に、ハタから見れば僕は一瞬目を丸くしたであろう。
けど、僕も同じように「また」と返す。
過ごした時間の割りにすんなり僕も「また」と言えたのは、再び会える事を信じられるからだ。
それはその人とまた会える日の自分を信じられるという事だ。
こうして、僕は前回言っていた「またね」を叶える事が出来た。
消えて行く後姿を見送っている内に急に寂しくなったけれど、それだけ楽しい時間が過ごせたのだと思いながら僕も背中を向けた。
振り返った時にはもう姿は見えなくなっていた。
一人で駅の構内を歩いていると、ずっと隣を歩いていた感覚が抜けずに少しだけ歩き方がおかしくなっている自分に頭を掻く。
その後、僕はすぐにツイッターのプロフィールを変えた。
今の僕は独身貧民から独身鳥貴族へ変わった。
申し込み済の合祀墓もキャンセル連絡を入れた。
不器用ながらに、この世界で僕はこれからも生きてみようと思う。
二人ならあれだけ楽しく美しい景色が見られるのだ。
とてもじゃないが、一人のまま生きて死ぬなんてとてもじゃないけど馬鹿らしくて呆れ返ってしまう。
夏はまだまだ始まったばかりだし、それに次の季節だって待っている。
自分の適当さと軽口、それと物騒な発想を手に突き進んでやろう。
新しい景色を見つける楽しみを糧に、僕はまだまだ生きて行くつもりだ。
死にたくなるのにも、死を見詰め続けるのにも飽きてしまったら後は簡単な話だ。
今日が過ぎたらやって来る明日の前で、僕は怯む事なく堂々と生き続ければいいのだ。
人様に張れるような胸はないが、運命に抗う口と言葉ならごまんと持っている。
人の手によって投げ捨てられそうになったこの命は、人の手によって救われながら今日も生きている。
次はその人に「久しぶり」と言える事が、僕は今からとても楽しみでたまらない。
誰かの為に用意されていなかった夏の風景は、いつか誰かがやって来るのを待っていたかのように、ひっそりと静かに佇んでいた。
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