【小説】 水切りの恋 【ショートショート】
翔子は中学時代から一貫して女子校に通っていた。その持ち前の美貌から街で彼女を知らない者いないほどで、社会に出るとすぐに数々の男に言い寄られる毎日を送ることになった。
「なんで男の人ってみんなすぐにお近付きになろうとするんだろ……」
かねてから作家の泉鏡花に憧れていた彼女は、世間に彼のような静謐な男がないことに絶望しかけていた。
「もういっそのこと、ポスターと結婚しようかな……」
印刷会社に特別発注を掛けて制作した二メートル大の巨大「泉鏡花」ポスターにそっと頬を寄せながら、翔子はその晩も親が与えたワンルームマンションの一室で心を落とすのであった。
そんな翔子に、ある出会いが訪れた。
なんとなく会社に赴く足が重くなり、生まれて初めて彼女は欠勤をしたのであった。
「ずる休みしちゃったから、私って死ぬべきよね。そうに違いないわよね、あぁ……死ぬ場所を探さなくては……早く死ななければ」
よろよろと河川敷を目指して歩く翔子だったが、川に向かって石を投げる男が目について死に急ぐ足を止めたのである。
丸眼鏡の男は痩身で背が高く、髪をぴっちりと撫でつけており、ダークブルーのスーツがよく似合っていた。それに、なんとなく遠目での雰囲気が泉鏡花に似ていたのである。
男は水切りをして遊んでいる風に見えたが、顔は真剣そのものであった。
「ねぇ、何をしてるの?」
翔子は声を掛けられずにはいられなかった。
それは、突然に落ちた恋だった。
平べったい石を手に取った男は、川に向かってそれを投げた。一回、二回、しかし、すぐに石は水の中に落ちて行った。
腕前は相当に下手なようであった。
腰に手を当て、太陽に目を瞑りながら男は答えた。
「水切りさ」
「水切り? それは見てたら分かるけど、お仕事はどうしたの?」
「仕事なんてしなくたって人は生きていけるよ。現に、僕はそうだからね」
「どうやって、生きてるの?」
翔子はあくまでも日頃の収入について質問したつもりだったのだが、男は哲学を答えた。
「今日は自分を探しながら、生きてる」
そう言ってズレた眼鏡を掛け直した男に、翔子は全身が雷に打たれるような衝撃を受けた。
やはり、恋に落ちていたのである。
男は相馬颯人と名乗り、仕事は何もしておらず、それどころか家さえもなかった。
哲学をほざく、ただのルンペン野郎だったのである。
しかし、そこは惚れた者の弱みで翔子は颯人と暮らすことを即決した。
その朝の出会いがあり、昼にはワンルームマンションでの同棲生活が始まったのである。
彼は名入りの泉鏡花の巨大ポスターを見るなり、ぽつりとつぶやいた。
「この人は、誰だい? 彼氏かな?」
「ううん。今はもう……元カレ」
「そっか。せんきょう、はな君。今まで翔子をありがとう」
見事なまでの読み違いにそれまでの翔子ならばムキになって美貌破壊の白目を剥きながら
「イズミ・キョウカ!!」
と怒鳴り散らしていた所だが、颯人が隣にいる彼女にとってはもう読み違いだろうが何だろうが何も気にならなくなっていた。
ポスターを燃えるゴミに出し、二人の愛の日々が動き出した。
翔子は颯人を養うというバイタリティを得たため、言い寄る男共を蹴散らしながらも社内で頭角を現しつつあった。
一方、颯人は飽きもせず朝の八時には河原にたどり着くと、夕方の五時まできっちり水切りの特訓に明け暮れるのであった。
しかし、下手なまま何も進歩はなかった。
来る日も来る日も一向に上達しない颯人に、翔子は水切りの動画をススメた。
「ここに文字を入れて、検索ボタンを押すと……ほら、いっぱい出てきた」
「ほう……この画面が、パソコン?」
「ううん、この画面はユーチューブよ。画面を映してるこの機械がパソコン」
「パソ、コン……聞いたことある気がするのは、前世の記憶かな?」
「うん。きっとそうだよ、だって颯人って第六感ありそうだもん」
「これが、スピッチュアルってものなんだね」
「本当、運命って不思議……」
こんな具合に、ラブラブ生活をとっぷりと送っているのであったが、動画を見ているうちにある考えが颯人の中に生まれたのである。
「俺、プロになろうかな」
プロになる。その言葉に、翔子は胸の奥に熱いものを感じた。
「なれるよ! 颯人なら、絶対になれる!」
「あぁ、俺はプロになるよ。水切りの、プロになる」
「私、応援する! あなたならできるって、信じてる!」
「まずは水切りのオリンピアになることからだな……よし」
水切りのプロなどというものが存在するのか不明だが、とにかく颯人はプロを目指した。
翔子もまた、真剣な彼を応援し続けた。
来る日も来る日も水切りに明け暮れ、しかし上達の兆しのない日々に颯人は苛立ちを覚えた。
それは翔子との生活に、ほんのわずかな亀裂を生むことになり、やがて同僚に心変わりをしてしまった翔子が切り出し、二人はとうとう別れの日を迎えてしまうことになるのであった。
「私の心変わりで……本当にごめん。これからも、頑張って」
「俺は、何も変わってないよ。今日も水切りのプロを目指す、ただそれだけさ」
「颯人、その、今まで言えなかったけど……実はね……」
「知っているよ、わかっていたさ」
「えっ……?」
「水切り界に、プロリーグなんてないこと」
「そんな、なんで……?」
「君の顔に、そう書いてあったから読んだだけさ……じゃあ、俺は行くよ」
「あぁっ…!!」
翔子は泣き崩れた。顔に書いてあることを読めてしまう存在は、きっと心変わりをしてしまったあの人には無理だと痛感したのだ。
水切りのプロリーグがない。そんなことくらい少し調べたら馬鹿でも分かることなのであったが、翔子は大いな理解者を失った喪失感にしばらくの間、苛まれることになるのであった。
時は過ぎ、翔子は同僚の彼と結婚することになった。
住み慣れた街を離れた祥子が乗る電車が、いつかの河原に差し掛かろうとする。
こんなおめでたい時なのに、心はつい浮ついてしまい、数々の思い出が蘇る。
二人で汗をかきながら、平べったい石を探した夏の日。完璧なほど平な石を見つけた祥子の頬に颯人の指が触れ、褒められた秋の日。一斗缶を囲み、颯人のかつてのホームレス仲間達と焼芋大会を催し、不審火を出した冬の日。朝イチでお弁当を作り、水切りの背を眺めていた桜の降る春の日。
どれもこれも幸せだった光景に、祥子はたまらず涙を流し始める。美しい女の涙に車内の男どもが「大丈夫?」「話し聞こうか?」「相談乗るよ?」など口にして集まって来たが、彼女の目線は河川敷に向いていた。
そうして、もう二度と目にはしないだろうあの日と変わらない彼の姿をその目に焼き付けていた。
初めて会ったあの日よりは、わずかに上達していた。
一回、二回、三回、四回。
水を跳ねた石は水の中に落ちて行き、その数に「サ・ヨ・ナ・ラ」という意味を超想像力で感じ取った祥子は、嗚咽混じりの涙を流すのであった。
時は流れ続けた。
祥子は幸せな家庭に恵まれ、苦労のない幸福な老後を過ごしていた。
晩御飯にいつものシャンパンを開け、テレビに目を向けるとグラスに注ぐ手が止まった。
『無名の達人15人シリーズ・第3弾!』
その番組で6人目に出て来た老人の姿に、祥子は衝撃を隠せずにいた。旦那の心配をよそに、主人が帰って来た瞬間の腹を空かせた猫のように画面に飛びつき、齧り付いた。
『さぁ、6人目の達人の紹介です。とある家を持たない老人が、なんと水切を極めに極めたということで取材に向かいました』
老人の名は相馬颯人。ボロボロの丸眼鏡のツルをセロテープで貼り止め、伸びっぱなしの髪は真っ白くなっていたが、あの彼に違いなかった。
画面の中の颯人は目を瞑りながら、手を大きく振り上げて五感で河原の石を「感じ」始める。その怪しげな動きにスタジオでは大笑いが起きていたが、祥子はぴくりとも笑いはしなかった。信じていたのだ。
颯人は「いました」と呟き、平べったい石を手に取る。
そして非常にゆったりした動きでスライダーの要領で腕を横に振り、振り抜く瞬間に目にも止まらぬ速さで腕を振り抜いた。スタジオから驚愕の悲鳴が上がったのはその直後だった。
なんと、颯人は川の上を跳ねる石に腕組をしたまま飛び乗ると、そのまま対岸までたどり着いてしまうのであった。
背後から、旦那の声がする。
「祥子! 観えないよ! どいてよ!」
そんな声もおかまいなしで、祥子は画面に齧り付いていた。
なんと、達人と化した颯人は水の上のみならず、通常の道路の上でもそのようにして移動するほどの技術を身につけていたのである。
一般道で車列に混じり飛び石に乗って移動する颯人の姿に、祥子はとめどなく溢れ出す感涙を抑えることが出来なかった。
「あなたなら、出来ると信じてた」
画面に齧り付いたまま、いつか彼に向けた言葉が叶えられたことを、その胸に感じていた。
達人の紹介が七人目に変わり、祥子は食卓についた。
人生の終わり間際に、良いものが見れた。
そう思いながら微笑みを湛えながら、シャンパンをグラスに注ぐ。
カン、カン、カン
何か固いものがアスファルトを跳ねるような音が、外からうっすらと聞こえて来る。
カン、カン、カン
その音が徐々に徐々に、近付いて来るのが聞こえて来る。
「なんだこの音?」
祥子は確信した。間違いなく、あの音は……。
旦那が制止しようとする声も振り切り、祥子は裸足のまま玄関を飛び出した。
石がピタリと、家の前で止まる。
だいぶ枯れ果てた姿に、互いに微笑みながら、いつかのように祥子は訊ねた。
「ねぇ、何をしてるの?」
「飛び石で、ドライブさ。乗って行くかい?」
「……もちろんよ!」
アスファルトに弾かれた石に、男に抱えられた格好で祥子は飛び乗った。
見上げた夜空。目に映るのは、満天の星空。
夜はどこまでも、どこまでも続いていた。
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