孤独と自足について

ついに私は一体何を語ろうと言うのか。わからない。少なくとも、何がしか善きものに対する愛好症はある。
孤独はそれ自体状態であって、孤独感とは区別される。しかし同時に、孤独も孤独感もともに、大人数の中にあっても成立する事態である。私が私でしかありえないこと自体が、もはや孤独なのである。しかし、孤独感は著しく精神化学的な事態であり、また心理的な事態である。孤独感の場合、対処としてはあくまでも慣れていくことだと思う。人は生まれ育ちに規定され過ぎた機械ではない。人間はおのずから作り替わる存在である。だから、むしろ変わりたければ変わろうと決意するのではなく、変わるための選択をしなければならない。泳ぐためには、床の上ではいけない、まずは水に入るところから始めるのである。孤独への恐れ!大丈夫、あなたは泳げるではないか、あなたは生きることができているではないか。ただ生きるということにどれだけの遂行が伴っているのかわからないのか。だから大丈夫、われわれは決してたんなる社会的動物ではない。確かにわれわれは社会的動物のもとに生まれ、社会的に成長するが、なにもその規定に永劫束縛されるイワレはない。
理解されない、話が通じない、かえって誤解され馬鹿にされる、そんなことはどうでもいいではないか?私はなにか他者に意義あることを伝える媒体としてありたいのではない。むしろ欲するのは自足である。だから、私が求める何がしか善きものとは、社会的倫理のことではなくて、極論を言えば私にとっての私のための何らかの何かである。だから私は短い人生、愚か者に関わっている暇は、本来無いのである。古典を読むことは、過去のすぐれた精神との対話であろうが、まあ、くだらない啓発本にも一片の価値はあるだろう。とにかく自由や孤独を称揚する本を読むことでそれを自己洗脳として作用させることくらいはできる。
 愚か者の役割とは、私への生活基盤の提供である。私に役割はない。だから私は愚か者どもを太陽や大河の如く感じる。しかし私は、大いなる精神と対話するためにもまた稼いでいかなければならないのだ。すなわち、私は社会生活にも適応しなければならない。精神の自足ではあっても、身体の自給自足ではありえない。ともかく、まだ死ぬ気はないのである。

2023年5月14日

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