【日記】skepticism,パイノメノン、寿司と疲労 2022年9月16日

  1. 日記開始にあたって

 今日から日記をつけはじめる。動機としては、住居を移しての生活がひとまずの安定をみたので、この機に始めてみようと思った次第である。
 しかし私のような精神の不安定な怠け者のことなので、鼻から継続的なかたちでうまく続くとは思っていない。しかし、私は、やってみることから始めるというのが一番いいと思っている。というのも、私は、個体のあらゆる活動は経験(experience ※参考:〔藤本隆志〕. 『岩波 哲学・思想事典』第1刷 「経験」: 岩波書店, 1998.3, 401p.)でしかなく、<行為→結果→観念の形成>=経験、という図式は妥当と思われ、また、経験は行為を駆動するだろう(すなわち私は行為の作用因を行為に含めていない)という信念を有しているから、私は私が何をしたいのかわからないし、また私は何か行為として正しいことがあるとか或いは正しい行為といった基準の信念を有していないのであるが、しかし同時に自分がどうなりたくないかという消極的志向はあるので、その志向に適合する経験を進みたいのである(むろんここには私の自分自身の能力に対する一定の信頼がある)。なお、私がなりたくない事態というのは、自分自身が暫定的な志も果たせないままに、かつ苦しみながら生きながらえるような事態である。
 私は何がしたいのか?・・・わからない。
 私は何を知るか?・・・わからない。
等々…。
 ともかく、特別な場所などないとされる宇宙のなかで、我々の地球は太陽の周りを公転しており、また太陽系自体が銀河系を動いているのであるが、地球がブラックホールに吸い込まれる確率はほぼないようであるし、仮に吸い込まれるとしても私には毫も関係ないはずである。
 しかし、そのように積極的志向も特になく、およそ何らの知識(έπιστήμη)も有していない私においてであっても、(浅学菲才な私にあってはM.ハイデッガーの著書は未だ一冊も読んでいないので語らないとして、)今まさにありありと現われ(φαινόμενον)として現象しているこれが、この文脈において越権的なことを交えて言うと、宇宙において点のようにしか思われないこのせいぜい自分が感じることのできる領域が、明らかにありありと現われているこの事態について、私はなにか感動とともに恐ろしさを感じざるを得ない。
 今年の3月に国立天文台の隣の精神科の閉鎖病棟に強制入院になったときに窓の外にわずかに見えたあの闇夜の星辰は、5歳の時分に父の暴力から逃れて母と弟との3人で母子寮に住んでいたころ通っていた近くのプラネタリウムの光と、一体どのような差異があるのであろうか。その答えや、そこから引き出される何か、それ如何によって私にとっての私の今後は全く別様の展開をなすような気がして仕方がない。
閉鎖病棟と宇宙って何が違うんだろう?
 太宰治が『HUMAN LOST』で

自由を、青草原を!

と書いていたが、これには途方もない共感を覚えた。
 少なくとも、私はもう二度と、一時の狂気の発露によってあのような監獄にぶち込まれることだけは、死んだって狂ったって避けたいというのが本音である。

2.今日の活動

 9時ごろ一旦目が覚めたが、あまりに眠かったので再び入眠、起きたのは12時30分ごろと記憶している。
 精神的不調や引っ越しに関わることが重なっていたのでなかなか着手できていなかった三重野教授の近世近代哲学史の講義のレポートに、今更ながら着手。テーマはヒュームの外界存在の同一性について。
 まず、朝食と言っていいか昼食と言っていいか、或いはおやつなのかもわからないが、アイスをいくつか食べた後、事典を開き懐疑主義やヒューム関連の諸々の項目を読む。そして、方針として、まずヒュームについての概説を読み、そしてヒュームの当該議論の本文を精読、そののちに議論を展開できそうであれば展開するための素材集め、といった流れを企てた。
 早速ヒュームの概説書で一番読みやすそうな、イギリス思想叢書5『ヒューム』泉谷周三郎著 1996.11 を読む。前提知識の寡少により、多くのことを調べながらの読書だったので65頁までしか読めなかった。遅すぎるので、明日もまた語学学習を行うとともにレポート関連作業を急ピッチかつ余念なく進めるので、明日はより速く、かつ正確性を落とさずに読み終えたい。反省点を挙げようとしたが、否で、この件は反省よりもむしろ圧倒的な慣れの不足だと思うので、意識的に通読するものとしての読書活動を継続していくことで能力を高めていきたいという所存である。
 そのことにも関連するが、私にはともかく「ひたむきさ」が足りていない。腰を据えて取り組むこと。そして、外側から観望して目録を作成するような作業としての勉強ではなく、云わば「内側から学ぶ」経験としての学習を心がけて勉強を進めていかなければならない段階に来たと思う。すなわち、語学の習得に力を入れる、テクストとコンテクストの意義を了解して古典を読み通す、といったところに力点を置くべきだと考えているので、実行する。なお、対話や凸などの息抜きは私の場合放っておいてもやっていくので敢えてするということはない。それらとともに、従前通りの「拡大路線」も継続していこうと考えている。
 さて、その後夕方には数十分間LINEで複数の知人とやりとり。また、ディスコードの云わば哲学同好会のようなところでも息抜きに一暴れ。ごく少数の人物との談話を除き、読書や事典閲覧に比べ収穫は少ない。
 再び読書。
 20時ごろ、同居人と近所にたまの外食。回転寿司のテーブル席で向かい合わせだったが、思考が亢進し口を利かず。
 帰宅。疲れとそれから来たであろうと感じられた寒気を覚えていたので、熱めの風呂に入浴。現在に至る。遅いのでもう寝る。



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