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43歳、“書いて生きる”道に踏み出す覚悟

医療デザイン Key Person Interview:蒲原雄介

好きなことを仕事にするのは、それだけで尊い。だが好きというだけで続けられるほど、甘くもない。

「毎日が背水の陣です。」

43歳という分別盛りに会社を辞めて大胆にもフリーライターへの道を踏み出した蒲原雄介。2人の子供の未来とマンションのローンがその背中にずっしりとのしかかる。

「でも背水の陣でよかったと思います。決してサボらないし、火事場の馬鹿力が出る。」

書くことで新しい人生を拓くという覚悟が、今の蒲原を動かしている。


NHKとワールドカップ

蒲原のキャリアのスタートは21世紀の幕開けと同時だった。

理工学部で応用化学を学んでいたものの、就職活動で志望したのはマスコミ。そもそも理系を選んだのは「文系から理系は大変だけれど、理系から文系は簡単そうだから」という理由からだった。将来に明確なビジョンがあったわけではない。派手でカッコよく見えたからマスコミを志望したというのも何となくうなずける。

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌という当時のマス4媒体を手当たり次第に受けたのも、要するにマスコミならどこでもよかったからだろう。

 「文藝春秋の先輩を訪問して、お土産にもらったのが『Number』。サッカーはワールドカップ日韓大会が目前で、野球ではイチローが大リーグに挑戦しようとしていて、スポーツ界は大いに盛り上がっていました。」

残念ながら文藝春秋には落ち、最終的にNHKに入局する。志望は制作。「大河ドラマをつくりたい」というのが面接で語った動機だった。

 そして配属されたのがNHK新潟放送局。

「2002年の日韓W杯の現場に立ち合いたいと考えて希望した配属先の一つが、新潟だったんです。」

蒲原のサッカー好きは筋金入りで、我が子に有名Jリーガーと同じ名前をつけるほどだ。社会人としてスタートしたタイミングが日本でのW杯開催に重なったのは、まさに千載一遇。

「でもこれほどのイベントになると一地方局にできることはありません。スタジアムでイングランド対デンマークを生観戦したのが私のW杯体験でした。」

自分の力で稼ぎたい

取材の当ては外れたが、新潟で過ごした4年間は充実していた。W杯の余韻の中、Jリーグのアルビレックス新潟も快進撃を続け、地元はサッカーバブルで大いに盛り上がる。

「自分で勝手にアルビレックス担当を名乗り、好き勝手にやらせてもらいました。選手を呼んできてインタビューしたり、J1昇格試合では現場担当としてピッチサイドに立ったり。そうした経験を通じて実感したのは、NHKという看板の大きさです。『NHKの蒲原』だからこそ好きな選手に会え、取材もできました」

 そんなふうに組織の力を実感しながら仕事を続けてはいたが、NHKを辞める決意をしたのも組織が理由だった。当時NHKでは不祥事が明るみに出て、厳しい非難を浴びていた。そんなときに蒲原は喫煙室でベテラン局員の会話を耳にする。

「笑いながら、定年までなんとかしがみつければいいや、というような話をしていました。それを聞いて飛び出すことにしたんです」

そして選んだ転職先が、見本市業界の最大手RX Japanだった。

「NHKは受信料で成り立っていますから、いわば自動的にカネが入るわけです。だから自分でつくったコンテンツが売れたという実感が持てず、フラストレーションがたまっていました。対して見本市というリアルなイベントは、企業に出展してもらってナンボの世界。仕事の評価がダイレクトに跳ね返ってくることに魅力を感じました」

2005年、26歳のときだった。

のちに蒲原と日本医療デザインセンターが出会う国内最大規模の医療介護分野の展示会

組織人に見切りをつける

転職して最初の1年間、意気込みは空回りして蒲原はまったくブースを売ることができなかった。営業スキルが不十分だったこともあるが、NHKの看板がなければ自分は無力だということを改めて思い知らされた時期だった。

「数字が上がらないから上司にはずいぶんと詰められました。でも折れることはなかったですね。メンタルは強いんです。どんなに怒鳴られてもこういうものだと思っていましたから」

今のライターとしての蒲原の持ち味は、卓越したコミュニケーション力と誰にどんな状況で対峙しようとも物おじしない図太さだ。フットワークもかなり軽い。こうした強みはこの時期に磨かれたものだろう。

結局この会社に16年間在籍する。医療・介護分野の展示会ではゼロからの新規開催にも携わり、日本医療デザインセンターとの出会いを含めて800社以上の企業誘致の実績を残すことができた。その間結婚し、2人の息子も授かる。社会人として、組織人として、順調な歩みを刻んだのである。


一方で長く在籍すればするほど、組織の淀みのようなものがまとわりついてくるようになるのも世の習い。昇格や降格も経験し、憂さもたまる。

「そんな私を見て妻が“ブログでも書いたら”と。そこで好きなサッカーについて狂ったようにブログを書いた時期もありました」

最終的に2021年に退職の決断をする。慕っていた上司が会社を去り、自身も将来のビジョンが描けなくなっていた。

「このままなんとなくずっと会社にいると思っていました。なんとなく。会社の看板で生きてきましたし。でももし誰かに給料を決められるのではなく、ブログのように自分が書いた文章で生きていけるなら。現実が嫌になって、ちょっと夢を見たのかも」

 組織人として生きていけば、安定していたのかもしれない。だが自分で道を切り拓きたいのなら組織人をやめるしかない。

こうして蒲原は42歳にして業界最大手企業の社員という安定した環境を飛び出すことにしたのである。

医療分野の見本市を立ち上げて、医療・介護関係者との人脈が生まれた

ギャラは1,700円

蒲原が初めて自分の文章で報酬をもらったのは、退職のおよそ1年前。クラウドソーシングで受注したその仕事は、約2,000文字でギャランティが1,700円だった。とても独立をイメージできる額ではない。だが自分の文章がお金になったという手応えは大きな充実感をもたらした。

それ以来、朝と夜の時間を使って、月10万円を稼いでいた。

 「会社を辞めて本格的にフリーになってもすぐに月30万円は大丈夫じゃないかと思いました。しかも右肩上がりに増えていくと確信したんです。それでも家族4人が安定して生活できる水準にはまだほど遠かった。妻には“苦労かけるかもしれないが”と、ライターになるプランを打ち明けました」

幼い子供2人とローンを抱えて夫がフリーになるというのである。妻の心情は十分に察することができる。だがさほど案じることなく認めてくれたそうだ。「書く姿を見て楽しそうだと思っていたようですし」とのことであるが、たとえ失敗してもなんとかなるという自信というか割り切りがあったのではないか。“そこまで言うなら気の済むまでやらせてみよう”と。

こうして蒲原は思いのほかあっさりとフリーライターとしての第一歩を踏み出したのである。


80点で満足しない

フリーとして出発して約3ヵ月。蒲原の足取りは順調である。

「収入面では、とりあえず家族が飢え死にすることはないだろうというレベルです。背水の陣ではあるけれど書くこと自体が好きですし、それが認められて収入になるのは大きな喜びです。最近はリピート発注も増えました」

組織の後ろ盾がないから、看板も自分で用意しなくてはならない。そう考えて電子書籍も出版し、現在は次の著作の準備を進めているところである。

まずは順調な船出と言っていいだろう。

 インタビューの現場などで一緒に仕事をする関係者の8割から9割は年下だ。42歳の新人としてはどんな思いだろう。

「むしろおいしいと思っています。腰を低くすれば“年上なのに謙虚な人だ”と思ってもらえるし」と蒲原。このポジティブさも、フリーとして生きていく上で必要な姿勢だろう。

 自分自身については次のように語る。

「器用なタイプなので、80点でよしとするようなところがあるんです。一言一句にこだわって自分を追い込むことができてないですね。このままでは、不器用だけど納得いくまで諦めないというタイプのライターに負けちゃうんじゃないかとも感じています」

蒲原の現在の仕事は企業のホワイトペーパー制作やSEOライティングなど、請負でのものがほとんどだ。それらに求められるのは過不足のない“納品”だから、確実に80点を取りにいける器用さは大きな武器となる。だが蒲原は“納品”ではなく自らの“納得”にこだわりたいと考えている。

その根底にあるのは「いつかは作家になりたい。やっぱり自分の名前で仕事ができることを目指します」という志だ。

 会社員時代のつながりで得た、日本医療デザインセンターとのつながりで関係者のインタビュー記事を多数手がけた。その縁から派生する形で、次々に新たな仕事の依頼を手繰り寄せている。

 着実に「作家」と名乗れる未来に向けて歩みを進めている。

取材後記

 松本清張が作家としてデビューしたのは41歳のとき。歌手の秋元順子がメジャーデビューしたのは58歳だった。
人が新しい何かを始めるのに遅すぎることはないし、別の道へと歩み出すかどうかを決めるのも本人次第。つい年齢という縛りでキャリアや人生を測ろうとする我々に、蒲原さんはそんな大切なことを教えてくれる。
(ライター:丹後雅彦)


蒲原 雄介さん プロフィール

1979年生まれ。2001年に早稲田大学理工学部卒業後、NHKに入局して番組制作に従事。その後、見本市主催会社RX Japanに転職し、「医療と介護の総合展」を立ち上げ、出展募集や講演企画、集客プロモーションを担う。自身が誘致した企業はのべ800社以上。
日本医療デザインセンターでも、ライティングスキルを生かして広報や取材などで活躍中。目標はナッジ(人の行動を促す)の効くライティング。


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