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勝つまで戦うか、諦めて死ぬか。

 人生の節目にいる。事業で失敗し4年間潜ってしまっていた事と、コロナが落ち着きはじめた事が相まって、その事をより強く感じさせているのかもしれない。新たな挑戦を前に多くの人と別れ、ポカンと開いたこの隙間を満たすであろう新たな出会いに、希望を感じずにはいられない。

 このnoteは、自分の人生に大きなインパクトを与え、今尚、影響し続けている5つの出来事を振り返る事で、永木 武(ながき たける)とは一体何者なのかを、これから出会う人達に知っていただけたらと思い、書く事にした。俺の事を5年以上前から知っている人にとっては、Facebookに前々から投稿していたり、常日頃から話している内容なので退屈かもしれない。

 俺が勝つまで負けを認めない理由。

1, 息子、そして父親として

 少し幼少期から少年時代を振り返りたい。1988年12月13日、愛媛県松山市で生まれた。防水屋の職人の父親と専業主婦の母、2個上の姉の4人家族。幼少期の地毛が金髪に近かったからか、物心ついた頃には「自分は周りとは違う」と考えている変わった子供だった。ちなみに、小学生の時は空手とソフトボールをやっていて、自慢ではないが勉強はクラスでもトップクラス。文部両道のガキ大将タイプだった。

 そんな自分の父親は、自分が3歳(父親は33歳)の時に仕事中に事故に遭い、左腕が使えない2級障害者。3階建のビルの屋上でコーキングを後ろ向きに施工していたところそのまま転落してしまい、何度か足場にぶつかりながら左手から着地し、全身を強打する重症を負い、7年間ほど入退院を繰り返しながら治療していた。不幸中の幸い、奇跡的に命を落とす事はなかった。

屋上-笠木取合コーキング打替え-1024x768

↑こんな感じの作業

 俺には両腕が使える父親の記憶はない。キャッチボールの時は右で受けてグローブを外して右で投げ返してきていた。

 自分が10歳になった頃、父親が若い従業員を雇って会社を始めた。すると、若いながらも徐々に豊かになっているのを実感できた。それなりの家も新築することも出来た。一方で自分は中学に上がり野球も辞め、ボクシングも中途半端、学校も行かず、家にも帰らず、朝まで遊び続ける日々を送っていた。「俺は親父みたいに社長になるから。勉強なんかいらん」と思っていた。笑 ついには15歳の頃「共同危険行為(暴走行為)」で逮捕され、鑑別所に送られてしまった。(それ以降起訴された事は一度もない)

 父親の会社で働く事を条件に、少年院行きは免れた。16歳の誕生日とクリスマスを中で過ごして年末に出所し、2005年1月から父親の会社で主に防水とコーキングの職人手伝いとして働き始めた。週に2回、学校の日以外は現場に出た。そこで見たのは片腕だけで足場の上で作業をする父親の姿だった。自分が両手を使っても出来ない事を、片腕でそつなくこなしていた。自分は父親の後をついて周り、左腕の役割をしながら、事故に遭って復活するまでにどんな事があったのか、どんな思いでまた職人として働いているのか、日々思いを巡らせていた。何もかも中途半端でフラフラしていた俺は、

「俺は両腕使える。ここまでして育ててもらった俺は、何かすごい事が出来るに違いない。次に始めた事は何があっても諦めない」

 と思い始めていた。今、俺は33歳。失敗した時に3歳だった息子は7歳になった。彼が俺の背中を、俺が父親を見ていたように見てると思うと、絶対に諦められない。

2, 親友として

 小学1年生で同じクラスになってから、高校まで一緒に通った「塩田」という親友がいる。元々、徒歩2,3分の距離に住んでいたが、中学の頃自分たち家族が引っ越してからは、道路を挟んで3軒隣になった。少年時代の思い出には必ず奴がいる。聞く音楽も同じ、ほぼ毎晩一緒にバイクで走りに行った。俺はHAWKⅡ、アイツはCBR400Fに乗ってた。おっちょこちょいな奴で、転けて1人だけ警察に捕まったり、買ったばかりの車(ランクル)で事故を起こして横転させて廃車にしたり。ふざけていて友達の車を2台一気に破壊してしまった事も覚えている。自虐ネタが好きな奴で、常に周りを笑わせて誰からも好かれる人気者だった。塩田が起こしてきたおっちょこちょいだけで爆笑必須の本が1冊書けるレベルだ。

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 2012年、23歳で起業してから、塩田との間に距離が出来た。起業直後のハードシングスに加え、1年後には長女が生まれ、生活をする事でとにかく必死で友人と遊んでいる暇は無かった。俺は昔から群れるのが嫌いなタイプで、他の地元の多くの仲間たちと俺を繋ぎ止めていたのは彼だったのが今でははっきり分かる。

 2013年末、珍しく夕食に誘われて地元の居酒屋に行った。お互いの近況報告をし、経営が厳しく給料も中々取れないと話していた。塩田もちょうど転職考えていると言っていた。自分の話よりも、なぜ俺が起業をしたのかを何度も聞いてきていた。食事を終えて店を出ようと立ち上がろうとする時、

「俺は武の事一生応援しよわい!」

と言われた事をハッキリと覚えている。普段、お互いそんな事は言わない仲で照れ臭かったが「おう、頼むよ」と答えた。それがアイツから聞いた最後の言葉だった。

 2月末、新たな解体屋に転職して1週間ほどで張り切っていたんだと思う。屋上で後ろ向きに番線を巻いていた所、そのまま転落してしまい後頭部を地面に強打する事故に遭ってしまったのだ。(デジャブ)それから20日間ほど集中治療室に入っていた。仲間達で千羽鶴を折って見舞いに行った。全員がまた遊べる日が来ると信じていた。

 3月19日、ベルギー人の友達から俺の Facebook ページに、こんな写真が投稿された。

IMG_1137のコピー

 彼女は日本に旅行に来ていた友達からお守りをプレゼントで貰い、そこに何が書かれているのか知りたがっていた。そこには「絆のお守り」と書かれていた。次の日の朝、自分とよく 3 人組でいた親友から電話があり、塩田が亡くなった事を伝えられた。俺は暫く信じることが出来ずにいた。電話を切り、涙の中頭によぎったのが、前日の「絆のお守り」の事だった。いつしか俺は、これが塩田が俺に最後にくれた物と考えるようになっていた。

 アイツが生きていたら、気持ち悪くてこんな事は言えないだろうが、俺はKizunerをお前と一緒にやっていると思っている。お前が生きれなかった分を俺が強く生きてやるよ。一生応援してくれよ。絶対に諦めんで。

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3, 創業者として

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 2012年4月11日、地元の愛媛県松山市で株式会社iLandscapeを立ち上げた。社名は愛媛の愛にLandscape(景観)そしてIslandを掛け合わせた。「景観を良くする事は、社会を良くする事」という理念を持った建設・不動産会社で、自己資金は30万円、資本金の995万円は親に借りて登記後即返済、役員貸付995万円、更に運転資金として600万円を借入してスタートした。(今ではこのような事は到底出来ない)

 当初のメンバーは自分と友人2人、ハローワークで採用した建築士と営業マンの計5人でスタートした。宅建業の免許を取るには資金が足りず、建築士事務所に登録した上で耐震診断を無料で実施し、耐震補強工事とその周辺のリフォーム工事を受注するビジネスモデルで事業を開始した。月の固定費は約200万円。3ヶ月後に残ったメンバーは建築士の1人、資金は底を尽きる寸前をひたすらキープし続けた。控えめに言って地獄のような日々だった。役員報酬はほとんど取らず広告費などの成長資金に投下し、会社設立から2年経った頃には、役員貸付の995万円は役員借入1000万円になっていた。その甲斐あって2期目の売上は1期目の倍に成長した。

 3期目はまた更に倍成長し、売上は億を超えた。また、宅建業の免許を取得し「オレの家」という中古リノベの事業を開始した。この時コンサルとして支援していただいていたMさんと、毎日夜中まで電話やチャットでやりとりし、事業の進捗と戦略を話し合った。戸建をメインに仲介し、800万円前後のリノベを受注した。これまでもやってきた3Dパースでの提案、無料での耐震診断が中古戸建の仲介にフィットし、「これはイケる!」という手応えを感じた。

↑当時のブログ

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↑3Dパース(永木作)

 モデルハウスを起点に継続的に集客を行い、4期目は3期目の4倍に成長した。資本金も1億を超え、横浜と東京にも支店を出した。社員は40人近くになり、上場を目指していた。

↑80万再生越え

 悩んだ事は全てやった。完全にYESマン。振り切っていた。松山市の中島という離島で民宿を買い取り、リノベーションしてゲストハウスにして運営もした。(売却済)

↑買ってくれた会社が今も運営してくれている。是非行ってみてね!

 ギリギリまで攻めて挑戦し続け、成長に繋げるスタイルを貫き、5期目にはORE(Open Renovation engine)の開発を始めた。通常なら現地調査から1週間ほど掛かるリノベプランを5分程度で作成するシステムだ。このシステムに加え、無料耐震診断とモデルハウスの利用をパッケージにし、不動産仲介会社のパートナーに月10万円で提供した。そしてそこから発生する工事を請負い、不動産会社に10%キックバックするモデル。

 この時俺は、不動産会社へのBtoBの営業をメインにやっていた。10万円の数を増やす事が会社を安定させ、価値を高めると思っていた。数ヶ月でエージェントは100社を超え、パートナーは20社ほどになった。案件は急増した。更に、システムをより良いものにするために、より多くの3Dパースを必要とした。そのしわ寄せは工務部にいき、現場が疎かになった。あまりの忙しさに工務部の退職者が増え、引き継ぎ漏れから更にミスが起こり、粗利が出ていない現場が目立ち始めた。今思い返すと、この時のメンバーはよくやってくれていた。攻めすぎて守りを疎かにした俺の責任だった。

 この時、月の固定費は2000万円を超えるほどに膨れ上がっていた。予定していた資金調達も遅れ、月末の支払いに足りない金額は毎月1億近くあった。受注した案件の入金を早め、支払いを遅らせるよう、取締役と毎日電話で謝る日々が1年ほど続いた。2018年2月くらいには社員を解雇せざる得なくなり、受注している案件のキャンセルが不運にも立て続けに起こり、なんとか奇跡的に繋いできた資金繰りが限界を迎えた。取締役会で事業を停止する決断をし、破産手続きに必要なお金は全てお客様に返金する道を選んだ。50人近くいた社員は全員いなくなり、役員も退任、創業以来初めて1人になった。

 たらればの話には意味がないが、OREを開発しなかったら、今頃数十億ほどの売上でまだオレの家を続けているであろうし、同時に行なっていた資金調達がうまくいっていれば、固定費の全てを月10万円のストック収益で賄う、中古リノベが出来る DX & SaaS 企業に転身していたと思う。

 必ず復活するからそれまで待っていて欲しいと、多くの人と約束している。何よりも、自分が始めたことを中途半端に投げ出して尻を捲る事を許容する事が出来ない。それが住宅関連なのか、はたまたメタバースなのかはまだ分からないが、俺は絶対にiLandscapeを復活させる。

4, 期待の若手として

 2018年5月、当時ホーチミンにいた幼馴染を頼って日本を出た。ベトナムが急成長している事は知っており、その友人からも若者の多さとその活気について聞き、何かビジネスチャンスがあるのではと考えていた。ホーチミンでは知人に不動産会社や建築会社を紹介してもらい、今までの経験を活かして事業を展開していくつもりだった。友達になった同世代のベトナム人の不動産営業マンと何日かいろんな物件を一緒に回った。数年で倍になった〜などの話を良く聞いたし、海外投資家を中心に高層マンションの売れ行きも凄まじいものがあったが、完成が数年単位で遅れる事はザラにあると聞いて驚いた。実際に自分の住んでいたシェアハウスのオーナーも、購入した物件の引き渡しが予定よりも2年遅れていると言っていた。

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↑ベトナムで依頼を受けて製作した和モダン風なデザインイメージ

 建設会社を経営する友人も出来、一緒に建設現場を見て回ったが、それまで日本で10年以上培ってきた業界の常識はほぼ通用しそうもなく、適応するのに最低でも1年は掛かると思った。日本人に多い過度な神経質は人間としての適応力を低下させる事を痛感した。

 ベトナムで建設・不動産の事業を展開しながら、資金をプールし、iLandscapeを復活させる道のりは果たしなく遠く無理があると考えるようになった。日本より単価も低く、工期の遅れなどから入金がいつになるかも分からないし、毎回売上を回収できる保証もない。OREをベトナム仕様に変更する事も考えたが、新しく開発するのと同等の工数がかかる事は予測がついた。目標を達成するには、グローバルを狙えるソフトウェア(アプリ)を開発するしかないと考え始めた。すぐに決まった事は「絆」が連想できるようなサービス、人と人を繋ぐマッチングアプリ的なものという事だけ。多くのアプリをダウンロードして使ってみた。また、このままホーチミンにいるのではなく、新たな経験が必要と思うようになり、まずはベトナム国内から貧乏旅を始める事にした。2018年9月中旬の事だった。

 ダナン→ハノイと進んだ頃、9月28日にインドネシアのスラウェシ島で大規模な地震・津波が発生した事を知った。10月の頭の話だった。事業に失敗し、多くの人に迷惑を掛けてしまったからなのか、人の役に立ちたい気分だったし、今必要な経験はこれだと確信できた。

↑Kizuner 創業ストーリー

 ここに創業の経緯の全てを書くと長くなりすぎるので割愛するが、勢いで来たジャカルタの空港で財布を落とし絶望していた所、快く助けてくれた日本人のご家族、そのお陰で辿り着いた被災地で出会った現地の人々、この経験の全てが、ぼんやりしていた新事業の構想をより現実的な物にした。また、この後に続く旅での沢山の出会いが、ペルソナをより明確なものにし、構想に新たな機能や仕組みを加えた。ただ、先立つものがなかった。

 2019年5月、オレの家でお世話になったコンサルのMさんから連絡があった。とある上場企業の会長がOREの事を気にしているという内容だった。Y会長は2017年のリフォーム産業新聞の弊社の記事を見て、Facebookで友達リクエストを送っていただき、少しだけメッセージのやり取りをした事が過去にあった。5月29日にMさんも同席いただき、大阪で昼食をご一緒させていただいた。オレの家について説明させていただくと気に入ってくれて、

「じゃあウチで一緒にやろうよ。」

とお誘いいただいた。実際に一番楽なのはこの道だったかもしれない。ただ、それを受け入れる事は、iLandscapeの復活を諦める事を意味していた。社員として働く事は出来ないが、導入時には責任を持ってサポートする旨をお伝えし、その日は別れた。正直どうなるかは分からなかった。分かっていたのは、売却できたとしてもiLandscapeを復活させるには全然足りない事と、Kizunerをなんとか形には出来そうという事だった。

 その数日後、有り金をほぼ全て叩いて10年ぶりにCaliforniaに行った。どこで会社を登記するか悩んだ末、90%以上US(Delawere)に決めていた。ベンチャー投資総額が桁違いでユニコーン企業の数がダントツの上、Delawereだと外国人の自分1人で登記が可能だった。あとは規制や文化の違いなどの観点から、日本よりは事業の自由度が上がり、新しい物やサービスを受け入れてくれやすいと思った。また、世界中から集まった多様性のあるメンバーを集める事も出来ると考えていた。

 2019年6月17日、Y会長からメッセージが来た。

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 死ぬほど嬉しくて手が震えていた。Liquor Shopに行き、辞めていたタバコとビールを買って一気に飲み干してタバコを吸った。我慢できなかった。最高に美味かった。帰りの飛行機の便を早めて帰国した。1ヶ月ほど契約内容を擦り合わせ、7月31日に松山までお越しいただき、契約手続きをした。その日の車の中で、

「本当は永木くんに一緒にやってもらいたいんだけどな」

と再度言っていただいた。本来であればそれが筋道な事は十分理解しており、本当に心苦しかった。

「すみません。導入が終わってもサポートさせていただきます」

と答えると、

「もしKizunerで成功したら、その時は頼むよ!」

と笑顔で答えてくれたのを覚えている。

 2021年4月、Y会長は不慮の事故で亡くなった。まだ50代だった。あの言葉が何を意味していたか定かではない。ただ、俺はこの恩を忘れる事は出来ないし、どのような形にしても返すのが筋道だと考えている。Kizunerのこれからの成功と、その先にあるiLandscapeの復活は、Y会長がいなければ無かったもの。どれだけ感謝しても足りる事はない。

5, 日本人として

 人は必ず死ぬ。それが生物に与えられた唯一平等な条件かもしれない。そして、これまでこの日本という国を守るために、多くの先人たちが命を落としてきたのは言うまでもない。俺は何故か、アメリカに留学している時に「坂の上の雲」を読んだ。世界で勝利を収めた偉人が地元にいると思うと、誇りに思えた。日本人としての意識がより強くなり、愛国心が芽生えた。

 日本の事は愛しているが大嫌いだ。このままではどう考えても好転する事はない。恐怖心が国全体を支配している。よほどの馬鹿でもない限り、今この国に必要なのは消費を増やす事、お金を使って挑戦し、儲ける事だと分かるはず。にも関わらず、頭で理解してもそれを行動に移すことが出来ない上、それが全体の空気感となって、足並みを揃えてしまっている。その根本にあるのは、失敗に対する恐怖に支配された短絡的な利己主義だと考えている。子供が2人いる父親からすれば、子供達の未来のためにすら自己犠牲を出来ないのであれば、それは大人とは言えないのでは?と思ってしまう。

 この落ち目で負けっぱなしの状況に納得が出来ないし、それを許容する事が俺には理解できない。「去勢された宦官のような国家に成り果てている」とは石原慎太郎氏もよく言ったもんだなと思う。人口が急激に減る中、GDPを維持するためには生産性を上げるか、外国人の受け入れに寛容になる必要がある。また、企業というファクターでは国際的な競争力を養わなければならず、成長産業の中で世界で勝てるサービスやプロダクトを作らなければならない。しかし、そのような企業が日本から生まれそうな気配はなく、その大きな理由の1つは、日本人がマジョリティーの中で日本語で経営しており、その文化そのものが世界で勝てなくなってきているからだと考えている。

 では今何が必要か?世界で勝つ事。どこの国でかは関係ない。日本人が世界での勝ち方をもう一度学び直す必要がある。逆にこれをしなければ、日本のGDPの多くが外国企業の物になるかもしれない。何にそんなにビビって二の足踏んでんのかよく分からない。外に出たらヘコヘコして、家だけで威張っているダメおやじみたいだ。

 俺は普通に生きているつもりだが、運命か潜在意識が常にドタバタさせてくるのは、俺に何かをやらせようとしているに違いないと考えるようになった。今、日本に足りないのは挑戦。俺が失敗しても次で返す所を見せてやればいい。そういう経験をした俺にしか分かってやれない事もある。

 個人的には次、日本人が強くなる時、世界に平和が訪れると信じている。アメリカには原爆のお返しに、絆という愛の爆弾を投下して、それを世界中に広めるのがKizunerでの俺の使命だと思ってるよ。

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