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師匠よりも反面教師を

よく質問であるじゃないですか。
「尊敬する人物は誰ですか?」
みたいなの。

もちろん私も居ないわけじゃありません。そしてそれはその人たちが持っている才能や、残してきた結果に対する憧れという側面が強いように思います。

過去2回に渡ってこのテーマについて話してきましたが、今回は私なりの結論をここに提示したいと思います。

考えの変化

上記の2つの記事を書いた時の私は、比較的尊敬という言葉に関して肯定的でした。誰かの業績に対して憧れを抱き、追随する。そういったことは自己の成長に欠かせないものとすら、考えていたように思います。

厳密に言えば2つ目の記事で良いとこ取り、という言葉が登場しているように、尊敬するだけでは不十分であるという気持ちも同時に持っていながら、その原因については上手く言語化出来ていなかったように思います。

尊敬の不十分さ

1年経った私は、そのもやもやをこう説明します。尊敬のみではオリジナリティは生まれない、と。

誰かに対して憧れます!とか、ついていきます!とか言う人は一生誰かの模倣をするだけの人生になります。再生産です。さらに劣化版の。
いやもちろん全てのオリジナリティは模倣から始まります。それは前提条件としてあると考えてください。ここで言いたいのは、尊敬だけじゃだめなんです。尊敬というのは、それだけではなんの価値も無いんです。何も生まれないんです。

さらに言えば尊敬する人といっても、その人の全てを肯定することが出来るなんてことはありません。その人が言うんだから正しいという思考は非常に危険で、まさにカルト化です。

尊敬尊敬と言うている人ほど、ただ自分で考えることがめんどくさいだけだったりするんですよね。誰かについていけば、自分の頭を使わなくてもいいですから。

かと言って、他人をぞんざいに扱え!なんて事ではありません。全員の考え方に対して尊重する精神を持つ必要があります。人それぞれの考え方がある、ということはとりあえず頭に入れておくことが大切です(これは全ての思想を肯定している訳では無いことにも注意)。

様々な考えがある中で、共感するものをピックアップしていく。これはまさに2個目の記事の良いとこ取りの話に繋がります。尊敬という言葉では重すぎるんです。人物崇拝に繋がりかねない。それでは意味が無い。

師匠よりも反面教師を

ここでこの言葉に繋がります。私の考えをひとつの文章にまとめるとこうなるわけです。人は誰しも憧れる人はいると思うんです。しかし前述した通り何もかも完璧な人間はいません。何もかもが自分と同じ考えの人が居るわけないんです。それはそうであると信じようとしているだけなんです。

であれば、逆転の発想で考えればいいんだ!!そう思いました。

こうはなりたくない!あんな奴になんかなってたまるか!!
皆さんはこう思った事はありませんか?好きなやつがいれば、嫌いなやつも必ず居るのが人間という生き物です。
好きという気持ちは時間の流れですぐに変わってしまう脆いものなのですが、嫌いというのは厄介で中々変わらないものです。

これつまり、その嫌い!と思う人と反対のことを自分がしていけばいいんですよ。それって確実に好きな自分に向かってますもんね。尊敬という崇拝的な行動ではなく、嫌いなものから忌避していく行動。一見ネガティブにみえるでしょうけど、明らかにそちらの方が健全ですよね。確実ですし。

反面教師という言葉が世の中にはありますが、素晴らしい言葉です。師匠についていくだけでは、ただ師匠の後追いになるだけです。それならば、嫌いな人と反対方向に歩いていくことで、自分の道を歩む方が何倍も良いですよね。

少なくとも私はこれからの人生はそうやって歩んでいきたいと思います。どんな自分になりたいかなんて、そんなもんは結果論であってどうでもいいんです。なりたくない自分にならないための努力、それだけに集中したいと思います。

いやはや、どうでもいい話を長々としてしまいすみません。ただ、書いて残しておきたかったんです。皆さんも僕を好くなり嫌うなり無関心なり、どうぞご勝手に。

それではまた!

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