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「たぐい vol.1」を読んで

「たぐい vol.1」を読んだ。

読んだまま忘れてしまうのも勿体ないので感想を書くことにした。

マルチスピーシーズ人類学の試み

本書は「マルチスピーシーズ人類学」の研究にかかわる方々による思想誌である。

従来の人類学は人間を扱う学問であり、周囲の環境は人間が関係する「対象」として捉えられてきた。
それに対して、「マルチスピーシーズ人類学」は人間のみならず、複雑な世界を動的に、かつ複数種との関係の在り方を相互的なままとらえるようとする学問である。世界を有機的なままとらえる方法を探る試みであるとも言い換えることができるのかもしれない。

本書ではマルチスピーシーズ人類学が目指す学問像を提示するとともに、実践の記録や学問の在り方を問い直す文章が綴られている。

まだ理解しきれていない箇所も多いが、本書で作り上げようとしている学問体系や探求している姿に共感している。
これが根源的な学際というものなのだろうと感じた。理系研究の知見を文系の世界で活用する、といった表層的な、橋渡しとしての文理融合ではなく、一つの世界を包括的にとらえようとする姿が格好良かった。

感覚と生成過程

「言語化はできないものの、感覚として持っている体験やそのときの心情」が学問と結びついたときに、僕はしばしば新しい世界が開けたような感覚を覚えた。それは、もやもやしていた経験が自分だけではなかったという安心と、体系化することの楽しさがあったのだと思う。

だから僕は学問の世界に足を踏み入れたのだが、最近は学問と感覚が乖離しているという感覚を持ち始めている。学問を探求する試みと、対話的に探ろうとするあり方がどうもかみ合わない。

なぜなのだろう。
僕のこのもがきは、近代を抜け出したいというか、生まれた時から19年間当たり前だった世界を何とかして相対化したい、という願望なのかもしれない。

このことに対して、本書で印象に残った部分があったので取り上げる。

だがここで考えてみたいのは、エビデンスなき飛躍にこそ、知の本領があるのではないか、という可能性である。(中略)さらに、「面白い」という感覚を強く喚起するのは、しばしば、そうした知の飛躍、まだ論理や形式が追いつかない場所での思考の輝きなのではないだろうか。そして、論理や形式の追いつかない場所というのは、案外、素朴な感覚や実感のなかに潜んでいるのかもしれない。(たぐい vol.1,p37 不明の草原 椎名登尋)

この文章は、学術論文が形式に縛られがちで、エビデンスが重要視されるがゆえに、大事な細部が抜け落ちているのではないかという提起である。

この文章を読んで、僕はわからないことに対して、安心して向き合うことができるようになった気がしている。なぜなら、自分の思考を学問に当てはめるのではなく、むしろそのもやもやした感情や、それを探ろうとすることが大事だと思えたからだ。

僕が今探求している、もしくは求めているのは、この営みをともにおこなう関係性、仲間であるのだと思う。それが実現している既存のコミュニティもたくさんあるだろうから参加してみたいし、自らつくりたいとも思っている。

その他感想メモ

他にも書きたいことはあるのだけれども、なんせ書くのが遅いのでメモにとどめておくことにする。

・性質と機能が異なるものに僕は興味があるのかもしれない。

・複雑なものをどこまで複雑なままとらえることができるのだろうか。

・環境を(時間的、空間的に)どのスケールでとらえたら良いのだろうか。フラーが提唱した宇宙船地球号に代表される地球スケールの環境に共感する部分も多いが、「環境を愛しながら、利用する」観点が抜けている気もする(開発⇔保護の二項対立になっている?)。「環境」が、私たち(の身近な世界)の範囲を超えた崇高な(あるいは脆弱な)”対象”となりそう。

・環境と人間をつなぐ「食」の機能を考える(機能としてみるのは良くないのかもしれない)。

・僕が「里山」という言葉を好んで使う理由は、自然を守るうえで最適だと信じているからではなく、そこでの自分(たち)の生き方が魅力的だからであったからなのか。(発見)

・「文化」を人間だけでなく、その周囲の環境も含めて、また時間軸も含めてとらえる。(自戒)

・ぼんやりと「まちのつながり」「やさしさ」といった言葉で形容してきた関係性を明確にするには別の言語体系が必要?

本の情報

タイトル:たぐい vol.1
編者:奥野克巳、シンジルト、近藤祉秋
発行者:亜紀書房
発行日:2019年3月28日

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