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トニ・エルドマンみたいなオバジの子

インドに来て約1年が過ぎようとしている。ちょうど1年前は引っ越しのことで発狂していたのを何となく覚えている。

発狂していたが、この1か月後にはもうインドに渡っており、新しい状況が始まっていたんだな。でも、そのときはまだ知らないことが沢山あった。私は、1年前には「自分の中に「ホーム」があれば、どこに行っても大丈夫よ」と自分を励まそうとしていた。

しっかしねえ、言うは易し、行うは難し。私もともと体力がある方だからなんだろうけど、自分が無理しているとか、疲れているとか、神経衰弱ぎりぎりのオバジになっているとか、気が付きにくい。んで、知らないうちに、できもしないのに、仕事だったり色々なことに、「このくらいできなきゃいけない」「このくらい何てことない」と思い込む癖がある。

最近、仕事が終わるともう何もできないくらいぐったりしていたり、好きだったはずの映画も観る気力がなくなったりしていた。それがライターとして何かができている気がしないという焦りと相まって苦しかった。まあ充実しているってことなのかなとも思うことにしよう。

RRR旋風のおかげで元気づいてきて、テルグ左翼映画を知ったり、折口信夫の本を見つけて読んだり、ホラー映画方面をもっと自分らしく堀り進めていくことに自信ができてきた。

このポッドキャストに誘っていただいて色々話をしていると、考えもしなかったアイデアも浮かんできてとても楽しい。少し角度の違う人と話をするって大事なことだね。もっともっと二人の「違うところ」を見つけ出して考えていきたいと思う。もちろんそれは、土台の部分で共通点がたくさんあるから、ということなんだけど。

日常では、自分がストレスを感じそうなところからは極力離れて来たつもり。朝バスに乗ることも止めた。でもそれだけだったな。

仕事の中身が新しいということ、そして、この仕事ができるようにならないと三年後にビザが更新できないかもしれないという焦りと不安、それでいて癖の強い英語で話す当地のITスタッフとのやり取りに慣れなきゃいけないという気持ちもあり(しかも当地の人間の話法だからまあワイルドなこと)、些細なことにイライライライライらライラライラライラライラライ…

当地では黙っていても路上や商店や交通機関で様々なストレスが降りかかって来るので、それにいちいちイライラしたって仕方ないんだけど、やっぱり許容量というものはあるから遂に最初の限界が見えて来たのかも。

体力あるからさ、ちょっともう無理ってなるぎりぎりのところまでは走っちゃうんだね私は(しつこいが、できもしないのにさ)

何か久しぶりに『ありがとう、トニ・エルドマン』を思い出したよ。

予告編観るだけで泣きそうになれるという極めて珍しい映画。EUの勝ち組国ドイツから出て来た作品でね、「何で私はこんなにできないのよおおお」と自分を追い詰めながら生きるビジネスウーマンのイネスと、それを「ちょっと頑張り過ぎなんじゃないか」と心配する父ヴィンフリートのすれ違いと和解、そして助け合い。

ああ、今日メッセージして少し話した友達は、トニ・エルドマンなんだわ。私はイネスでさ。もちろんイネ子のように優秀ではないのだが、実はそれも私の頭の中にある「こうでなきゃいけないの」という思い込みと驕りの産物なのだ。ヴィンフリートはきっと、人生のどこかの段階で「頑張り過ぎたって得られるものは多くはない」と悟るような場面があったのだと思えて来た。或いは、頑張り過ぎて体を壊したとか。どこか、社会というものを斜に構えてみているのだ。だからこそ、今頑張りたいのよッと体力気力の限界まで頑張っちゃうイネ子とは衝突するのね。

私もね、その友達と、仕事の話題をすると、かすかな違和感がいつもある。恐らく、この父とイネ子のやり取りと同じやつね。そういう、かすかに軋むような話も聞いてくれるし、軋んでるって分かった上で率直な言葉を誤魔化さないその友達の存在は、何とありがたいことだろうか。軋みの無い会話が欲しいときももちろんあるけどね、多少軋んでううんって考える会話だって私には必要だ。軋んで削れて角が取れたり、目からうろこ等が落ちる可能性があるから。もしかしたら自分が変われるかもしれないから。そして、話し終わるといつもちょっとガスが抜けたような気がする。その人は私のトニ・エルドマンだ。

また、私には、下の映画の「タリー」に当たる友達も何人もいる。きっとね、その人達は私の中にあるものに共鳴できる部分を見せてくれているのだと思う。それを持ち寄ってくれているんだね。

今日の正直な気持ちを言うと、インドなんか見たくもないし外に出たくもない気持ち。インド男を見ても昨晩は見るだけでイライラしてしまった。何故映画が好きなんだろう。インド男だらけだよ…

でもそれは別にインドが悪いんじゃない。悪気ないんだもん。ここで生きていたいのだから、それらをどう体験して処理していくかは私の使命でもある。ここの日常は、ほとんどの人がむき出しの我をぶつけて来るが故に、段々私の中にあるどす黒いモノや狂暴なモノがどんどん前の方に出て来ているのを感じる。

昨晩はレストランバーで明らかに会計をちょろまかそうとしてきたので、英語で怒鳴ってしまった。何でそんなウソつくんだよ!!インドなんか大嫌い!と喚いた。私は、ヴィンフリートに感謝しながらもキレちらかすイネスの気持ちが分かったし、と同時にとても恥ずかしいし、まあもうあのバーに行くことはないと思う。料理美味しかったし、店員さんたちも感じよかったけどね。子供でも分かるような雑な嘘つかれるのは本当につらい…そして切れ散らかした自分が情けない。

そのくらいストレスが溜まっていた。悪気なんかないって分かるよ。分かるけど流すことはできなかった(というか、騙されそうになったらインド人めっちゃ抗弁するからな)。

仕事でも「どうやったらいいんだよお…」と落ち込んだり、日常生活全般が苦痛で何もしたくなく、どうしたらいいのだろうかと途方に暮れている。

今になって…自分がその立場に立ってみてやっと分かることがある。

彼氏が日本にいて、何もできないまま2年半も過ごしたストレスや苦しさというのがやっと分かるような気がするし、日本の習慣に馴染めなくてキレ散らかしていた外国人の元カレ(達)の苦しさもやっとわかったような気がするよ。結局は自分が痛い思いをしなければ、他人の痛さを想像することなんかできない。高校時代の口うるさい英語教師なら「生活体験」と呼んだだろう。恩師が言っていた「国際交流というのは果てしなく疲れるよ」というのも本当に実感するよ。生活体験って何て苦しいんだろう。原体験と言ってもいいのかな。そういう実感から出て来るモノ(カミ・オニ・タマ・モノの中の一つね名状しがたいから)に形を与えるのが知識だ。自分の生活体験から来た実感の伴わない知識は、いくら増えても頭でっかちでしかない。実感と知識のバランスを保ちながら、私の中の「モノ」を文章に落とし込んでいくことができるようになりたい。たまたまできているときもあるのだろうが。

映画はそういう私の中の「モノ」を引き出してくれる。そういう感情があったのか、こういう状況があり得るのか、という驚きと、「どこかで見たぞ」という既視感が混ざる映画に出会うと頭の中で何かパズルのピースがハマったような気持ちよさを感じる。まあいつでもそういうものがあるわけではないから、この「インド」というとてつもなく人間的な場所で沢山の実感を持てることはきっと、このものぐさな私にとってとてつもなく豊かなモノをもたらしてくれるに違いない。

ま、それはもっともっと疲れるということなんだけど。よく寝て、食べて、飲酒はほどほどにして、やり過ごしていこうね。そして、里帰りしたら思い切り日本のものを食べようじゃないか。そしてまたここに戻って来て…一からやり直し。許される限りそれを繰り返そう。

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