ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ④フェミニズムとソーシャルスリラー

さて、『ゲット・アウト』がオスカーを受賞した2017年、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる性的暴行が明るみにされたことをきっかけに、世界の目は男女間の不公平な状況に関する話題に注目するようになる。韓国の映画監督キム・ギドクが性暴力ゆえに韓国映画界から追放されたことも記憶に新しいし、今は日本でも、映画界の中に蔓延していた暴力(これは男女問わずだが)や、性差別や性的暴行等の問題を清算していこうという動きが起きている。こうした現実の動きを捉え、世界の映画は「悪い男性性(Toxic masculinity)」を批判の対象にするようになって来た。私はホラージャンルとは言えない作品の方がこの問題を明快に扱っており、必ずしもホラーの中で観る方が鋭い問題提起ができるとも思わない。しかしホラーの側はこのテーマを素早く吸収し、ソーシャルスリラー運動の新たな原動力を得た形である。

男性性以上に悪いものはない。

ソーシャルスリラーを牽引するブラムハウス社製作の『透明人間』を見てみる。同作は、支配欲の強い男性に精神的にコントロールされた上、透明人間となった男性が弄するテクノロジーに尚も責め立てられる女性の恐怖を描いている。モラル・ハラスメントの被害者にとっては恐ろしい物語であろう。最後の最後まで孤立無援で戦い、遂に男性を打倒するという流れはイングリッド・バーグマン主演の『ガス燈』(1941年)と通じている。

ところで、同作の監督リー・ワネルは、ブラムハウス社で『アップグレード』(2018年)という作品を撮っている。こちらはソーシャルスリラー性を全く感じさせないSFホラー作品。ソーシャルスリラーが流行る少し前、ハリウッドをアジア出身の幽霊達が席巻していた頃、人の精神と肉体に苦痛を与え続ける様を露悪的に見せる同ジャンル、「拷問ポルノ」と呼ばれる作品群が登場する。同ジャンルの金字塔、『ソウ』(2004年~)シリーズで一躍人気作家となったリー・ワネル監督は、テクノロジーに淫した人間を悲劇やモンスター性と絡めて描いてきた。『アップグレード』も例に漏れない。

ところが、女性を主人公にした『透明人間』のラストで、リー・ワネルは違う結末を見せた。確かに、先にテクノロジーに淫したのは加害者である男の方だが、彼はもともとモンスターとして描かれており、そもそも人格に問題がある。したがって、作中でテクノロジーに淫して行ったのは実は主人公の女性セシリアの方である。最後のシーンで、事件を解決した彼女の顔を正面から延々と捉えるところは不穏だ。人物の顔がこちらを向いたまま終わる映画は、あまり明るい未来を感じさせない。脆さ、恐怖、絶望、孤独、破滅を前にした束の間の輝きなどを予感させる。果たして、テクノロジーに触れることで彼女は別の人間に変わってしまったのだろうかという不安を抱かせるのである。が、最後破顔し画面からいなくなることで、彼女は悲劇とモンスター化の両方から抜け出したことが読める。

弱者が復讐として強者を倒したのだと描かなければソーシャルスリラーとして完成しない。しかしそれはリー・ワネルの好みとは違うような気がするのである。

少し前、オバマ時代になるが、ブラムハウス社は「Toxic masculinity(悪い男性性)」についての作品を作っている。『ザ・ギフト』(2015年)である。夫が高校時代にいじめていた男と再会した夫婦の不穏な日々を描いている。これは、2009年以降一大ブームとなったオバマ期を代表するようなミュージカルドラマ『glee』の流れで鑑賞したため、「高校時代にいじめっ子で体育会系だったが今はお金持ちになった男」に対する「いじめられていた冴えない男」からの反逆として読めた。

しかし、後のソーシャルスリラーの展開を考えれば、男性による妻に対する精神的圧迫も描かれていたことは重要である。妻は処方薬の依存症に陥っていた過去があり、それを夫が詰るシーンがある。夫を演じたジェイソン・ベイトマンが、ハンサムだが実に嫌な中年男を好演している。ラストでは、いじめられていた男が「悪い男性性」を体現する男にとって最も難しい「疑い」を残して去っていく。それを夫が妻に対して口にすれば、更なるモラルハラスメントともなり得る上、今批判される男性性の一つの現れである「女性を所有している」感覚を刺激するような「疑い」である。抑圧され、いじめられていた男は言わば古いタイプのモンスターである。しかし、その後のソーシャルスリラーの発展の中に本作を置いてみると、本当のモンスターは、全てを手にしているつもりになっている傲慢な夫の方なのだ。

悪い男性を処罰する「いい魔女」

ブラムハウス社の『ザ・クラフト:レガシー』(2020年)は、明確に男性性を悪として描いている。ソーシャルスリラーの要素①②③の全て(①強者の属性がモンスター性を含んでいる、②弱者が「正常」を代表する、③「正常」が復讐の形で「異常なモンスター」を打倒する、①補足:ソーシャルスリラーのモンスターは社会から抑圧されておらず、本質的に歪んでいる)が当てはまる作品である。また、1996年に製作された『ザ・クラフト』の続編として製作されたにも関わらず、第1作目の設定をひっくり返すような点が散見される。

最も注目すべき変更は、2020年代の女子高生の魔女たちは、(出自がどうあれ)「正常」の側に立ち、それゆえにホラー映画の中ではもはや処罰の対象とはならないことである。

この「よい魔女」の表象は、魔女が、「正常」から外れた女性に対する攻撃や排除の口実として使われてきた(日本ならば鬼婆が該当するだろう)という過去の経緯に対する償いかもしれない。しかしそれは魔女から強い力を奪うことでもある。

『ウィッチ』(2015年、ロバート・エガース監督)は、昔のニューイングランドの入植者コミュニティにおける魔女の恐怖を描きつつも、魔女は、主人公の少女に抑圧的な家族や価値観からの解放のきっかけを与えている。しかしそうでありつつも、「魔女はモンスターか正常か」という点を明確にすることは避けた。モンスターであるからこそ得られるエンパワーメントも無視できないのではないだろうか。また、抑圧的な共同体の外に暮らす者は、必然的にモンスターを引き受けないといけないのかもしれない。最後の空中浮遊シーンは、自由を手にした者たちの喜びのシーンである。

一方、魔女は相変わらず排除の対象となるのかもしれない、と思わせるのが、Neflix映画『フィアー・ストリート』である。性的少数者かつ有色人種で女性の主人公が、自らの住む町に眠る魔女伝説に挑戦するのだが、弱者が正義や「正常」を代表しているという点で極めてソーシャルスリラー的である。しかし同作は魔女をモンスターの枠に置いた。珍しくアメリカ映画の中で神の救済を示唆したという点において宗教保守的な価値観を体現したホラー、『アンホーリー 忌まわしき聖地』(2021年)は当然としても、アメリカにおいては、魔女をどう描くかは揺れていると思う。

少し横道に逸れるが、フランス映画『RAW 少女のめざめ』の女たちの「自由」は狂暴である。自らの欲望に従って人々に攻撃を繰り返す女性たちはまさに魔女だ。欲望というものがそもそも狂暴なのだということを女性の身体を使って表現している同作は、一見社会と個人の緊張関係を描く作品のようにも見える。しかし、「個人の自由」を高らかに称えつつ表面上はフェミニズムに着地している。よって、社会と個人の緊張関係そのものを描きたい訳ではないのだろう。ジュリアデュクルノー監督にとって、社会とは、「正常」かどうかの前に、そもそも抑圧的なのではないだろうか。故に、同作はフェミニズム映画ではあるが、ソーシャルスリラーではない。作品としてそういう立ち位置があるのか心もとないが、私の考えた三大要素から考えるとそうなる。同作において、女は被害者などではない。むしろ強者として男性の上に君臨し、時には男性を搾取(捕食)する主体だ。同監督の最新作『チタン』で彼女のテーマはどのように成長しているだろうか。漏れ聞こえる評によれば、相変わらず社会そっちのけで欲望が暴走しているようである。

「悪」を喪失するモンスター

魔の力を正義に取り込むという形は、アメリカのコミック原作映画でしばしば見られる。暴力的かつ重い映画になるかと想像された『ヴェノム』が、蓋を開けてみれば、痛快なブロマンス・コメディになっていたように、モンスターが「正常」の側に立つ物語がアメリカでは好まれるのかもしれない。ホラードラマ『クリープショー』シーズン2(2021年、Huluで配信開始)には、狼男などの獣人が集まる自助グループを描くエピソードがあり、その中では「獣人は悪人の臭いが分かる」とし、モンスターはあくまで悪を退治する「正常」な側に立つのである。

1992年製作の『キャンディ―マン』シリーズ最新作の『キャンディ―マン』(2021年、ブラムハウス社、ジョーダン・ピール製作)は、再びアメリカの人種差別の状況を背景として描き、直球のソーシャルスリラー作品になっていた。また、モンスターに属する悪魔的な存在を、弱者の守護者として脚色し、社会的強者というモンスターに対するカウンターとして読み込むやり方をとっている。全く別のモンスターが正義を背負うのである。一方作中で殺害された人々の人種が全部白人であったことを考えると、反差別運動の中で起こる暴力や破壊を暗に肯定しているようにも見える。

前述の『クリープショー』はまさにそれを体現しているが、弱者は常に力を欲しているのである。念力で街を破壊してしまった『キャリー』のように。魔女は排除や攻撃の対象とされて来た一方、恐れ、敬われる存在である。魔女から「悪」のパワーをはぎ取ってしまうとき、何を奪い取ることになるのだろうか。前述のフランス映画『RAW』の激しさは、「正常」に取り込まれることを拒否しているところにある。人を食いたいという欲望を悪人退治のために使うというのは「正常」な社会への服従であるし、愛している相手を食べたくなるという欲望の抑圧である。一方欲望の暴走が男性において起こることは絶対悪である。

「正しい男性」とは、女性の欲望を受け止め、時には暴走しても受け入れることができ、自分の欲望は抑圧する男性である。非ホラーの『マリッジ・ストーリー』(2019年)のラスト、泥沼の離婚裁判を経て離婚し、元夫に一矢報いたニコールの新しい恋人はどのような存在だったか。彼は我を通したりはしないだろう。彼が彼女のルールを守れる男かどうかが重要である。

『ザ・クラフト レガシー』の中では、魔女たちの魔法で、意地悪く攻撃的な男子生徒から悪い男性性が消滅する。ロボトミーを思わせるその魔法により彼は性格が穏やかになる。その方が周り(特に女子生徒)にとっては利益があるものの、本人の主体性はどうなるのだろうか。同作は彼のことを描くことを直ぐに止める。処罰=殺害されてしまうのである。彼はより強大な(だが陳腐な)男性によって殺害される。

実はフェミニズムテーマの作品をあまり観ていない

私自身はフェミニズムについて触れることは非常に難しいと感じている。何かを書きたい欲よりも、「差別する人だと言われたくない」欲の方が勝るのである。ネット上に溢れる「いいや、お前は何も分かっていない」という否定の渦を前にすると、知的好奇心というレベルでこのことを語ることを許さないムードに気圧される。

Twitterで流れて来る様々な女性の苦痛と怨嗟の物語を読んで私なりに異論を持つこともあるし、怒るのも当然だと思うものもある。どうしたらいいのかと思うこともある。しかし結局私は、自分が痛いと思わない限り、学べない人間だ。自分の母が、仕事をし、子育てをし、料理もし、全力で生きた後、病に倒れてままならない時間を過ごしたことは、私にとっては非常に長く続く大きなショックだった。したがって女性のことについては、フェミニズムの観点から理解しているというより、恐怖の観点から理解した部分が大きい。突然の病が、立派な人から尊厳を奪い、苦痛を与え、周囲の人間の心を醜くしてしまうという恐ろしさと悲しさ、不安は一生忘れないだろう。それはいつか私にもやって来る。現実はホラー映画を軽く超えてしまうということを知っている。それもあってこのように考えたいのだと思う。

時期的には早いが、「男性性」にほとんど全ての悪を集約させる傾向は、メキシコホラーの『触手』(2016年)においても確認できる。同作のモンスターは人間ではない別の存在として描かれている。そのような存在が男性と女性のどちらを処罰=殺害するかはあくまで偶然であるはずだが、同作は、暴力的なクローゼットゲイを始末する点がソーシャルスリラー的である。

また、日本の『来る。』(2018年)は、男女間の不公平や、それを再生産するかのような日本的家族の様相が歪みを生じ、そこに妖怪がやって来るという物語である。社会性を帯びつつも、弱者は弱者のまま死んでしまい、最後は霊能者という専門家にお祓いを委ねる形になっているのが、日本的な土壌の違いを感じさせる。何となく「意識高い系」へのやっかみで終わっているようなところがあるのである。また、松たか子演じる霊能者は、人間に罰を下す妖怪を祓うという意味で、(人間社会に対する個人的見解とは別に)日本の現実を改革しようという意思は見られない。したがってソーシャルスリラー性は低い。日本においては、アメリカで見られる社会的な緊張や厳しい対立が表面化していないということかもしれない。

一方、非ホラーだが、ホラー的な重みを醸し出している作品が、2020年の東京国際映画祭で上映された『ある職場』(2022年)である。セクハラや付きまとい、同調圧力等、特に若い女性の会社員にとって日本の職場はホラーに変わり得ると訴える作品である。日本では、ボトムアップ的に社会問題が形成されていくのだという洞察を感じさせる。

さて、次は、ソーシャルスリラー黄金期を演出したブラムハウスプロダクションが、一方では様子見をしているのかと思うような作品をも作っていることを見てみたい。

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