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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会③「差別する人」だと思われたくない


民主党支持の白人が黒人を搾取するホラー映画がアカデミー賞脚本賞受賞。

ソーシャルスリラー作品について語るのであれば、やはりジョーダン・ピール監督の映画『ゲット・アウト』(2017年)は避けて通れない。白人女性の恋人と共に、彼女の実家を訪問した黒人男性が体験する恐怖を描いた作品だ。白人女性の一家は、一見人種偏見に関する意識の高さを披露、「オバマ支持」であることまでわざわざ明言し、主人公を安心させる。ところがその家に集まった人々のステレオタイプ的な発言や、家で働く黒人の使用人達の様子が彼を不安に陥れる。

本作は「白人が黒人に対して何気なく発する「あるある」発言」が繰り返される作品である。監督のジョーダン・ピールは元々コメディを作り、自ら演じて来た経緯がある。同作で出て来る数々のステレオタイプ的な発言はコメディの題材であろう(「あっちの方は強いの?」とか。)。この種のコメディは、無知を披露すると相手はどういう気持ちになるのかという題材を使って、強者をちくちくやり、少量の毒薬を盛る。そうやって、強者との間でバランスをとろうとしているのだと思う。

他方本作は、そうした背景を持つ種類のコメディ要素に、突飛なSF的な設定を繋ぎ、それを絶体絶命の恐怖として演出した。したがって私が「こういうことを言ったら相手はこういう気持ちになるのか~」という程度の感想を漏らすのは、「状況を何も分かっていない」「特権的な立場にいる自分に自覚的ではない」という非難を浴びることになる。

2013年だったか、東京の劇団が『Avenue Q』(2003年)という、セサミストリートをパロディ化したミュージカル劇をやったのを鑑賞した。その劇中のナンバー「Everyone's  a little bit racist(みんな少しは差別してるよ)」を聴いて、アメリカの文化というのは、こういう風に社会の問題に取り組むことができるんだなあと思っていた。今アメリカの娯楽の中で、ソーシャルスリラー的な形で表出している一連のポリティカルコレクト現象の最初の兆候は、ドラマ『glee』(2009年~2015年)だと思うのだが、今思い返せば、スー・シルベスターというキャラクターを使って、同作はポリティカルコレクト的な価値観を相当おちょくっていたように思う。同作プロデューサーのライアン・マーフィーが後に監督した『ザ・プロム』(2020年) にも、その「笑いの毒」は感じられる。彼が製作してきたホラードラマシリーズ『アメリカン・ホラー・ストーリー』シーズン7「カルト」(2017年)は、シリーズの中で唯一超自然的要素が無く、白人男性の人種主義を気味悪く描いていたが、あれもまた、皆が反トランプ運動に流れることに対する一種の皮肉だったのかもしれないという気がする。ライアン・マーフィーは要注目だ。

しかし、時代は基本的にはそういう「笑いの毒」を許さないようである。

『ゲット・アウト』の恐怖の源泉は「長寿と健康な身体を欲するあまり、他人の身体を乗っ取る」人たちの強欲から発生している。その欲そのものは人種に紐づいていない。しかしその欲望に人種的ステレオタイプを含む発言を載せたことで、明確に人種属性が恐怖に紐づいた。白人という集団は、黒人という集団を差別し搾取してきた、そして今尚そういう存在なのだ…と観客は言わば「過剰に」理解する。

ソーシャルスリラーが観客に線引きを教える。

同作は、登場人物の好ましくない欲望を個別的な逸脱として描くのではなく、ある属性の集団に見られるステレオタイプ的な言動と連動させてその欲望を描き出した。よってその集団には本質的に、黒人の主人公が体現する「正常」を脅かすモンスター性があると暗示している。繰り返すが、ソーシャルスリラーのモンスターが脅かす「正常」とは、観客が共有しているべき日常性である。『ゲット・アウト』の主人公の恋人(白人女性)は、過去の作品ならば、自らの家族の罪を認め、それに決別する決心をした上で、最後にヒーロー(主人公の黒人男性)と結合したであろう。ところが同作で彼女は最後まで主人公の敵であり続けた。彼女は、女性だから処罰されるのではない。差別主義者(モンスター)だから処罰されるのである。これはウッドが論じた八十年代ホラーとは全く違っている。

ステレオタイプ的な言動が、強者が隠し持つモンスター性を炙り出す。これは後のジョーダン・ピール製作・ブラムハウス製作の『キャンディマン』(2021年)で更に展開されるが、ソーシャルスリラー作品は人を「差別する人」かどうかと差別するお手本を見せてくれる。これは映画よりも先に現実に起こっていると思われる。SNS上で、何かの言動を根拠に「差別する人」だと指弾され、「炎上」すると、全方向から非難を受け、自分がそれまでに手にして来た物全てを失うリスクに直面する。今ネット上で「差別をする人」と言われることは致命的だ。差別主義者を告発する側に立つ方が、その指摘が適切なのかどうか吟味するよりも利益が大きいと判断できる限り、この「キャンセルカルチャー」は終わらないだろう。理由はどうあれ「被害者を攻撃した」と見なされると、更に厳しい批判に晒されるからである。

映画が、観客に対し、属性(白人、男性、シスジェンダー、異性愛者等)を軸として「あなた/あの人たちは、本質的にモンスター性がある」という宣告をする形で、社会集団に線を引き、差別を促している。弱者に寄り添った立場から強者に対して行われる場合、それは差別とは言わないのかもしれないが、自分がモンスター性を指摘された属性を持っているとしたら、どうだろう。自分が直接やっていないことであっても、自らの「原罪」を適切に告白できなければ、己の特権性を自覚できていないと指摘されるとしたら。

Twitter上では、「謝罪になっていない」とか「これは分かっていない人の謝罪だ」と我々は安全な場所から簡単に決めつけることができる。そのような形で、見知らぬ相手から次々に、「知らずにやっている差別」を炙り出される光景は本人にとってはホラー的である。また、前回指摘したように、ソーシャルスリラー的作品では、弱者がモンスター性を内包しているとは見せない。ソーシャルスリラーは、モンスター(=差別する人)というレッテルを貼り、モンスターを排除しようと促している

『ゲット・アウト』から5年後の今、強者の属性を持つ人がそれなりに人目に晒される立場に立つとき、自分が「差別をする人」ではないと証明し、それを皆に承認されなければならない。先日、『最後の決闘裁判』(2021年)を監督したリドリー・スコット(白人男性で恐らく異性愛者でシスジェンダーで英語圏出身という最強のスペック)は、映画の内容について質問した記者を「そんなことも分からないのか」と叱りつけたという。監督は、そう𠮟りつけることによって暗にその記者を「差別する人」として線引きする方を選んだ。こういうニュースに接し、映画ライターを自称している自分は、今何をどう考えたらいいのか悩んでしまった。

「差別する人」だと言われたくない私

私もまた、「差別する人」と言われたくないがために、踏み絵となりそうな作品(上記の『最後の決闘裁判』や『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)等)の視聴を避けている。また、自分の感想が、弱者の立場に経った「正しい」感想と一致しているかということを無意識に推測していることに気が付いた。自己検閲である。ライターとしては失格だ。せめて「売れるかどうか」で判断しているならともかく。

一方、本論で延々とソーシャルスリラー作品の描き方に公平性が無く偏っていて醜悪だと非難することは容易い。しかしそれは、アメリカ映画を長年に亘り愛し、楽しんできた上、今からもずっと愛するであろう自分の存在を隠ぺいすることだ。私は八十年代を中心としたアメリカ映画を愛してきた世代である。そして文章を書いていく中で、一方で愛し尊敬しながら、片方で「偏った嘘ばかり描いている」と告発したいという陰謀論的ですらある欲望を持つに至った。非常に捻じれている。これでは、自分自身の中で、古典ホラー的な意味で、抑圧されたモンスターを生んでしまうのではないか。或いはもうそこにいるのか。

ソーシャルスリラーは差別的ツールで今の世界体制の改善を促す。

そのような個人的な考えもありつつ、ソーシャルスリラーの物語は、伝統的ホラー映画におけるモンスターと「正常」の間で行われていた差別や排除を、多少加工した形で引き継いでいるという観点から見ていく。「こちら側に入って来てはいけない」モンスターと、「こちら側」の正常の区分が明瞭であるのならば、「正常」とモンスターという語(シニフィアン)が意味するもの(シニフィエ)が大きく変化しているとしても、発想法は変わっていないように思える。確かに、過去のホラーのモンスターが「抑圧された者」であるとされたのに対し、ソーシャルスリラーのモンスターは、抑圧されていない強者として傍若無人に振る舞っている。そこは明らかに変わっている。前に書いたソーシャルスリラーの三大要素を修正するならば、

①強者の属性がモンスター性を含んでいる
②弱者が「正常」を代表する
③「正常」が復讐の形で「異常なモンスター」を打倒する

に、①補足:ソーシャルスリラーのモンスターは社会から抑圧されておらず、本質的に歪んでいる

という点を入れ込む必要があるだろう。

しかし、こう言えると思う。ソーシャルスリラーから古典的な悪魔祓い映画まで、人格的要素が多少なりとも描かれ、それが現実の人間の要素に紐づいている可能性がある限り、アメリカのホラー映画はモンスターを必要としており、それ故に差別的である。悪魔祓い映画についてはまた後で考えることにする。ソーシャルスリラーは、差別的なツールを使いながら、差別に反対しているというのが面白いのである。

一方、強いて言うなら、差別の度合いが低いホラーとは、自然災害の映画、または、自然災害的に描かれるゾンビ映画であろう。ただゾンビ映画も進化し、ゾンビ状態から人間に回復できるという設定(『ゾンビ・リミット』(2013年))や、人間の男よりゾンビの方がましという物語(『ゾンビーノ』(2006年))も出て来ている。他方で『スリーデイズ・ボディ 彼女がゾンビになるまでの3日間』(2013年)や、『ソウル・ステーション/パンデミック』(2016年)のように、こんな酷い世界なんか、ゾンビになって壊してしまえ、という形で、抑圧された弱者がゾンビとなって「正常」な世界に襲い掛かる物語もある。マルクス主義の影響を強く受けたウッドの論に倣うと、既存の社会は打倒されなければならない。襲い掛かるところで映画が終わる上記2作品は、社会の打倒が社会的弱者(特に若い女性)の解放と重なっている点が爽快である。一方ソーシャルスリラーは、既存の社会を打倒したいと本気で思っているようには感じられない。モンスターを排除し、「正常」が回復されなければならないからである。その点では、社会批判ではなく政治闘争である。そういう意味では『ソウル・ステーション/パンデミック』はソーシャルスリラー的な側面が強い。韓国の現体制が、学生運動・民主化運動とグローバル化という相矛盾するようなものに寄っているからである。

ホラー映画の中で差別を体験するのは楽しい。

チリの学者アリエル・ドルフマン著『ドナルド・ダックを読む』(1984年日本発売)は、アメリカ人が海外の熱帯地域にバカンスに行き、現地で対立を発見して正義の味方になり、悪を倒して人々からの尊敬を集め、現地の宝を持ち帰るという形式を持つ昔のディズニーのコミックを強く批判している(批判しつつも優れたアメリカ論になっている)。私にとってはそれは昔のこととは言えない。その物語の形式は80年代に『インディー・ジョーンズ 魔宮の伝説』(1984年)で見事に再構築され、同作は大ヒットしたのである。私もその物語を大いに楽しんだし今も好きだ。同作に出て来たインド描写はあまりに事実と乖離しており、当時の時点で批判されたという。アメリカのホラーはその定番の物語を少々捻り、海外に出て行ったアメリカ人が現地で災難に遭う物語を執拗に繰り返している。『ゾンビ伝説』(1988年)から『ミッドサマー』(2019年)まで、アメリカの観客にとって海外とはモンスターや異常性に満ちた場所である。こうしている間にも、モンスターという他者は既に国内や家庭や近所に入り込んでいるかもしれない。あからさまな蔑視や偏見を含む侵略や略奪や抑圧を糊塗する勧善懲悪の物語は分かりやすい上に、一般に楽しい娯楽なのだ

アメリカのホラー映画が「国外・国内のあらゆるモンスターに対立する「正常」側に自分が立っていたい」という需要(つまり差別したい欲)に応えているのだと考えると、そのような作品群を支持し愛好する私というのは、「差別を許容する人」である。いや、「自覚無く差別していたい人」と言ってもいい。強者属性の人を現実のモンスター予備軍として描いてはばからないソーシャルスリラーは、実際のところ差別したい欲のガス抜きをしつつ、「差別する人だと言われたくない」という需要に応えているのだと思う。「自分は差別する人ではない」と観客に自己点検させるため、妥協なく、強者属性のキャラクターを、その属性故に差別的かつ偏見に満ちたモンスターとして描く。

我々は何故こんなにホラー映画を愛し、作中での差別を楽しむのだろうか。これもまた後で私なりに考えてみたい。

意識の高い富裕層を弄ぶ初期のソーシャルスリラー作品

さて、この「差別する人だと思われたくない」感覚は、日本で言えば「意識高い系」であるが、アメリカではそんな揶揄的なレベルではなく、ほとんど信仰のような重みをもっているようである。この感覚がリベラル志向の富裕層の間で共有されている様子を捉え、尚且つ「罰」を与えたスリラー作品に、『インビテーション』(2015年)がある。悲しい過去を乗り越えた富裕層のカップルたちが一夜のパーティのために集まるが、闖入者の登場によりパーティが惨劇の場と化す映画である。前半は、富裕層のカップルの面々のあまりにも政治的に正しい。様々な人種に加えゲイカップルもいる。そこへ闖入者として存在するのが、カップルの友人のカルト教団メンバーである。団体が強者の属性と紐づいているとは描かないため、ソーシャルスリラー性は低い。しかし、場違いな雰囲気を醸し出す教団のメンバーたちに違和感を感じつつも、富裕層の彼らは「この人たち、気持ち悪い」と表立って不快感を表明できる程、意識の低い人たちではない。ところが、その「意識の高さ」が数々の不穏なサインを見過ごさせ、惨劇に繋がるのだと読むと俄然面白いのである。

かように考える私は、富裕かつリベラルな層に心底憧れながら、同時にやっかみを持っているのであろう。どこまでも捻じれている。

ラストでは、男女のカップルが、その教団によって高級住宅街に引き起こされた騒乱を前に、観客に背中を見せ、手をつないで立つ姿で終わっている。主人公が背中を見せたままラストを迎えるとき、主人公の決意や勇気、希望が感じられる。同作のラストにはどんな決意や希望が読めるだろうか。「私たち」の町(=「正常」)に恐ろしい混乱をもたらした異常な「モンスター」と戦い、「正常」を回復するのだという悲愴な決意である。そこで「正常」な観客は「私たち」と同化することが期待されている。かつてカルト教団がアメリカで引き起こした数々の事件を考えるとそうとしか思われない。カルト教団もまた、アメリカのホラー映画で頻繁に登場するモンスターである。

ラストシーンの「私たち」の決意を観ると、今のソーシャルスリラー的な志向が感じられる。観ていると、「彼ら」との対決を前に観客は気分が高揚するのである。製作時期は、アメリカ大統領選挙の1年前。今観ると、同作のモンスターであるカルト教団はどことなく気の毒な人たちの集団のようにも思われ、彼らに代わり、どんな人を次のモンスターにするのか考えているようにも見える。

さて、2017年『ゲット・アウト』で一旦完成の域に達した人種問題の政治闘争は、同年、映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の対する過去の性的暴行の告発、後には俳優のケヴィン・スペイシー氏、更には映画監督のブライアン・シンガー氏等の性的暴行の疑いが発覚したことで新局面を迎える。現在、ソーシャルスリラーは積極的に女性の立場を巡る政治闘争を展開している。次にフェミニズムがどのようにソーシャルスリラーに出て来ているかを考えてみたい。

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