竹美映画評66 想像力は不要だ 『Black Panther: Wakanda Forever』(アメリカ 、2022年)

日本からのRRR旋風(っつっても知る人ぞ知る、なんだろうけれども…)を受けて、更にはテルグ赤色映画の喜びを得て、向かい風に向かって歌って踊るBoAのように元気になった!

自由なの?孤独なの?どっちが好きなの?(その人の歌じゃない)

長時間ツイッターをやり過ぎて最近は頭がひどく披露してしまった。いかんいかん。長文ツイートをすると長文書けなくなる。

ということで、今回は多くの映画ファンは『RRR』よりこちらを待っていたであろう、『ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』を観て来た。

すごいわね、世界最大のコンテンツ業者さんのものはコマーシャル無しで再生されるのか(当たり前)。

あらすじ

ティ・チャラの突然の死去。悲しみに包まれるワカンダ王国を再び危機が襲う。今回は、ヴィブラニウムという鉱石が実は海底深くにもあった!ということで、ワカンダの優位性が危ぶまれる状況になる。ヴィブラニウムを狙う列強の思惑は、ヴィブラニウムの力を以て海底深くで暮らす王国タロカンを警戒させる。タロカンの王ネイモアはワカンダの女王ラモンダの前に現れ、共闘するか、敵となるか選べと迫り、挙句の果てに王女シュリを誘拐する。

感想

キャストの演技は非常によくて、何かもう、アクションとか特撮とかは要らない位なのかもしれないね。お笑いとシリアスの使い分けのバランスもよくて、楽しく観ることができた…のは多分、ネイモアが海パン一丁でずっとむちむちした太ももを出し続けていたせいであろう。前作やシリーズに全く思い入れがないため、メタ的に追悼の気持ちに寄り添うことはなく、淡々と観てしまったと言える。

ワカンダは高度な文明国で、それ故に鎖国していたんだった。それ故の誇りもありつつ傲慢さがあると読んでいる人がいて、その角度が無いと私はこの映画分からんまんまだわ、と思った。私が思ったのは、この国、身分制度とかはどうなっているのかとか、何故上の方の人は英語を話すのかとかそういうことが気になってしまった。

しかしながら表面的にはアフリカ系アメリカ人にとってシンボリックな意味のあるヒーロー映画で、マーケティング的にも批評的にもそれが当たったと言える。

これはリトルマーメイドの主演女優に関する論争とも絡むのだが、Twitterに流れたように、『自分と同じ顔をしたヒーロー、ヒロインが出てきて泣くほど嬉しい』という感性を私が欠いているため、その観点から書くことができない。書いてもそれは事実確認でしかなく、私の実感を伴った評価とは言えない。

もう、こういう顔の俳優が好きだ、とかいう個人の欲望を語るのではなく、あらゆるステートメントが政治化されている。リトルマーメイドに関しては子供まで動員され、単なる子供の感想が政治の力を持つことになる。そこに例えば「作為性」を読み込むということは、その種のステートメントを支持する者たちの敵になることを意味する。

一体、部外者としてはこういう状況をどう理解し、それを発信したらいいのだろうか。もはやニュース解説と同じになってしまうため、事実に関する知識がものを言うことになる。政治的ステートメントとして読める以上、裏を取ることが必要になるわけだが、これをやっていくということは、非常に暗い道のりに入っていくことになる。見つけたファクトが自分の倫理観や世間一般の倫理観と合致しないとき、ひどく悩むわけである。

何故カニエウエストはこんなことを言っているのか。

けしからんだろう。しかし、もっと前だが、カニエはこの事件の他の事件の被害者にも、少なくない額の寄付をしている。

ここで我々は一瞬悩むわけである。この2年間に何があったのだろう…しかし「世間一般の倫理観」の物差しの方に近そうな事実…カニエウエストはけしからん、とその都度空気で一緒に怒る方を選びがちである。他の色々な論争を呼んでいる問題についても我々はそういう態度になびいている。私はそうだ。そういうコンテクストにある『ワカンダフォーエバー』である。

今回の敵は、海底王国の一族である。彼らとて自衛のために他国を攻めようとするわけで、ワカンダに対しても、協力するか敵になるかの二択しか与えない。それほどに追い詰められている種族の立場をメソアメリカの先住民の立場として描いた。彼らが最初に登場するシーンはホラー的で恐ろしい。しかし、その顔の裏側には「普通」に生きている人々がいて、王は彼らに対して責任を負っている。「王者チャンネル」で、ワカンダの王女シュリは、交戦にまで至ったドロドロの展開の中で、ナウシカよろしくすっくと立ちあがり、ネイモアとの間に平和協定を結ぶことに成功する。驚きの外交力は、彼女の「人徳」によって支えられているわけだ。

ワカンダは実在しない。作り手やその視聴者が思い描く「理想の世界」である。ズートピアと同じだし、バーフバリ王の帰還したマヒシュマティ王国だ。その場所では、ミクロレベルからマクロレベルに至るまで正義しか行われないはずである。ビリー・アイリッシュという人がどんな歌を歌っているのか知らなかったのだが、この記事を読んでみると、『ワカンダ』がどういう位置にあるのかが分かる気がする。

ばっさり言うと、「現実」が嫌いなのだろう。身体も嫌いだろうし、現実の中で生きている他者が嫌いだし、言語が嫌いなのではないだろうか。共感共感共感の洪水だ。したがって他者の事情や状況の経緯を「自分が全く共感できない方向」から検証することが非常に難しいようである。私にとっても難しいことだが。

勝ち気な歌を歌って皆を煽って来たテイラー・スウィフトですら身体のことに悩んでいることにあまり驚かなかったものの、驚いたのはその表現に対する周囲の反応だ。

「テイラー・スウィフトのような著名人が、摂食障害との闘いについて語るとき、それは非常に良い影響を与え、(摂食障害に悩む)人々に助けを求めるよう促すことができます。ただし、彼女たちの表現がもたらす影響に留意し、慎重に行ってもらいたいと思います」

自分の問題を語る(この時代にである)アーティストであるテイラースウィフトが慎重に考えていないはずがなかろう。具体的にどうすることなのか、と問うこと自体がもう差別だとか人を傷つけることだとされ、天下のテイラースウィフトですら引っ込むのだ。

共感共感の時代であるということは、一ミリでも共感内容がずれると、「傷ついた」「酷い人間だ」と憎しみをぶつけられることになる。しかし、我々はコミュニケーションの方法を忘れてしまったんだろうか。「どうしてだろうか」と考える時間は無いのだろうか。共感共感の時代(元芸人のみちゃこは「きょうかーんきょうかーんきょうかんしてくださーい」と歌っていたが図らずも時代の潮流を代弁していて妙味)は、我々から想像力を奪い取ってしまった。目に見て頭に思いついたことが全てだ。第一印象が全てである。それが我々のワカンダである。

ところで、ワカンダ人のエリートたちはなぜ英語を話すのだろうか。面倒だからそうしているという割にはアメリカ英語ではない発音をしている。そして、これは旧植民地国の全てでみられることだが、社会言語学的に言って、使用言語によって社会階層が分断されているのが今の世界である。そうした世界であの表象をすることはどういう意味があるのだろう。アフリカ独自の言語で専門書が書かれているとはどうも思えない。アメリカ人という立場から見たアフリカと、現在のアフリカ人から見たアフリカがイコールではないという点を部外者である私はどう理解したらいいのか。

或いは「この作品はそんなんじゃない、アフリカにリスペクトを示している」という証拠を探して納得して不問にすべきなのだろうか。私のこれは、RRRへの映画批評に対して投げつけられた「知りもしないくせに何書いてるんだよちゃんと勉強しろ」という無知の産物なのだろう。

しかし、本作はそういうことしか書くことが無い映画なのだ。私にとっては。映画体験として得たものがほとんど無い。何故なら想像力は全く必要がないからである。味が薄いのだ。インド映画の濃い味に慣れてしまった私にはもう無理なのだろう。

だから、ディズニーが手を取って教えてくれているとおりに反応すればいいのだ。それは想像力というよりは共感のための知識だ。想像力は生活体験(痛い、いやだな、疲れたな、でもちょっといいことあったな、美味しいもの食べたら落ち着いた、早く寝よう…)に根差したものだ。知識はそれを助けてくれる材料だと思う。知識は世界の断片であるし、大いに矛盾しているし、正反対のことを語ることがある。それでは共感はしにくいから、選択的に知識を選び、共感に至ろうとしているように思う。でもそれは…今日本で大いに問題とされているカルトに近いのではあるまいか。

アメリカ映画を考えるとき、宗教と政治はどうしても切り離せない要素だ。観ている方までその政治闘争に巻き込もうとする強烈なエネルギーは我々を魅了し続けている。

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