見出し画像

幼少期は虐待地獄③ ついに解放

どうも武丸隊長です♪
23日目の投稿ですね。

前回の続きを書いていきます。
未だの方はこちらから↓↓↓

極貧生活

小学校時代は兄弟全員丸刈りでしたね。理由はバリカンがあれば、床屋代がかからないから。

生活は貧しく、欲しい物はあっても買ってくれなんて言えないからお願いなんてした事も無いです。これ欲しいなんて口が裂けても言えなかったですね。

小学3年生のある日、クラスで筆者の給食費からお金が無くなりました。

先生にそれを伝えると、みんなの前で誰か盗ったのかと確認し、誰も手を上げるはずもなく、最終的には自分でどこかに落としたんでしょ?で終わらされ、悔しい思いをした事もあります。中身が入っているのは確認済みでした。

いやいや先生、そんな事父親に言ったら殺されますよ!と思いながらも、そう思われても仕方なかったんです。

家はトタン屋根のボロ家で、ポットン便所、給食費なんて、何度も払えなくなって『今月の給食費も待って貰う様に先生に言っとけ』なんて日常茶飯事。

でも、父親に言うしかなく。事情を説明しました。
そして、筆者が殴られるんです(笑)
もう今だから笑えますが、悲惨でしたよ。

もちろんですが、小遣いなんて無いし、お年玉なんて自分で使った事はありません。

『お父さんがみんなにお年玉をあげているから、お前達は貰えている。だからこのお年玉はお父さんの物だ』それが父親の言い分でした。

その金で父親はパチンコに行ってたのも覚えています。
なぜなら昔は子供も入れたんですよ親と同伴で。
なのでよくパチンコ屋にも一緒に連れていかれてました。

あと、買い物パシリは毎日の様に行かされてましたので、その釣銭から少しづつくすねて、自分の小遣いにしてました。

靴を買いたい時はアルミ缶をいっぱい集めて、売りに行き、そのお金で安い靴を買って貰ったんです。本当に極貧の貧しい暮らしでした。

小学校時代の遠足を思い出してください。
特にお母さんのお弁当、楽しみですよね?

一度、父親が作ったお弁当がありました。
いざお弁当の時間に友達数人と見せ合いっこしますよね?

何が入ってるんだろうとワクワクドキドキしながら蓋を開けたら、
まさかの激臭。
腐ってて、食べれませんでした。

暑い夏に、ご飯を冷まさずにいれたのでしょう。

それからはトラウマとなり、お弁当の日は朝早起きして、総菜屋さんに行き、弁当の具を買って、家に帰って自分で盛り付けする。これがお弁当の日の日課でした。

どうやったら楽になれるかを考えると・・・

落ち着いて1人になると、やっぱり考えてしまうんです。

『なぜ自分はこの世に生まれてきたんだろう』

『なんでお父さんとお母さんは僕を生んだのだろう』

『死んだらどうなるのかなぁ』

『きっと自分は生まれてこなきゃ良かったんだろうな』

『自分が居ない方がお父さんもきっと幸せなんだろうな』

『死んでもまたお母さんに会えるかな』

『なんの為に人間は生きてるの?』

『宇宙ってなんであるんだろう』

『どうやったら楽に死ねるのかな』

こんな事を小学生の頃、殴られて、罵られて、とても辛い時に考えていました。

縄跳びの紐を子供部屋の天井の角材に吊るし、首を入れて、力を抜いてみたり、包丁を手に取りずっと眺めてみたりもしましたが、やっぱり怖くて死ねなかったですね。

無意識に首吊り用の紐を縄跳びで作ってる時に両手見たら、ハッとして、我に返った事も。

無意識って本当に怖いです。

きっと筆者が死なずに生きてるのは、先祖が『お前はまだ死ぬな』と働きかけてくれたのでしょう。

虐待から解放される日=父親を殺す日?


そして、家庭内暴力がどんどんエスカレートしてくると、筆者らも黙ってはいません。

中学2年生になった時にとうとう本格的な兄弟会議が始まります。

中学生になっても毎日交互に殴られていましたので、殺意はどんどん強まり、いい加減やっちゃおうぜって話になったんですよ。

父親殺人計画

さすがに何年も殴られたら、人って痛みに慣れて、打たれ強くなるんですね。友達と喧嘩して、殴り合いしても、あまり痛みを感じないんですよ。

まぁアドレナリンの影響もあるでしょうが、父親の方が100倍痛いし、打たれ強くはなってたのでしょう。だから今の俺たち2人ならいけるんじゃね?ってなったんです。

いつ殺るか、兄貴と散々話し合いました。

このまま毎日殴られていたら、本当にいつか殺されてしまう。
うちらが先にやっちゃえば、もう殴られる事も無いし。。
自分たちは少年法で守られているし、少年院入っても数年経てば出て来れるだろう。その時に罪を償って人生をやり直せばいい。
そもそも父親が一方的に理不尽に殴り続けるから悪いんだと。

そう考えるのは自然の流れで、ある程度身長も伸び、体格も大きくなってきた兄弟2人は何度も話し合いました。

ただ、兄貴はあまり乗り気ではなく、毎回筆者をなだめていました。

時は来た!

その日は中学2年生の夏休みでした。

夏休みに入って、2週間ぐらい経った頃、やっぱり毎日、些細な事や理不尽な事、ただただ八つ当たりで毎日交互にどっちかが殴られる日が続き、もう我慢の限界を通り越してました。

今までは反乱軍になるのが怖かった。服従するしか無かった。

でも今は違う!
力も強くなってきたし、素手では負けるだろうけど、武器を使えば殺れる。本気出せば勝てる。

子供部屋のベッドの上で二人でもう今日殺っちゃおう!って筆者が言い出したんです。

ところが、根はとてもやさしく真面目な兄貴は
『もう1日だけ待とう。もしかしたら明日には優しいお父さんに戻ってるかもしれない』と言って、筆者を止めました。

兄貴の言う通り、1日待ちました。
案の定、筆者が殴られました。

もう1日だけ。
翌日は兄貴が殴られました。

それを3回程繰り返して、
筆者が『これで分かったろ?鬼は明日も鬼なんだよ!殺ろう!』

そこで兄貴が下した決断は、『分かった!じゃぁ家を出よう!夜、荷物をまとめて、一緒に逃げよう』だったんです。

夜中の逃避行

あの日の事は今でも忘れはしません。

結局、逃げるを選んだ兄弟。

薄暗く月夜が照らす午前2時頃。
小雨が降っていたのを覚えてます。

『お父さんへ 
今まで育ててくれてありがとうございました。
お父さんとはもう一緒に暮らせません。
こんな僕たちを許してください。』

学習机に父親への置手紙を残し、脱獄開始です。

子供部屋の小さな高窓から1人は外に出て、
部屋から外へ荷物リレーをしました。

2人の荷物は凝縮して要らない物は置いていく。
それでも2人合わせて紙袋13袋分。

そして、ちょうど自宅から200M程離れたところに、母親と長男が以前住んでいた3階建てのアパートがありました。

母親達は既に退去してますが、一時避難する場所がそこしか出てこなくて、そのアパートの地下階段の踊り場に荷物を全部運びました。
ほとんど使われてない事を知っていたからです。2人で3~4往復しました。

どちらも自転車があったので、夜中の4時頃から近くのコンビニに行き、おにぎりとコロッケが入った200円ぐらいのオニコロセットとミニかつ丼を買い、アパートの地下階段の踊り場で二人で食べたんです。

その時に兄貴と抱き合いながら
『お前が弟で良かったよ!ありがとうな!』
『お前が兄貴で良かった!こちらこそ!』
そんな会話をしながら、今後も何かあれば二人で乗り越えようと決意した日でした。

どちらかが欠けていたら、きっと違う結末になっていたと思います。

辛いときも苦しい時も2人で乗り越えた地獄の6年間があるからこそ、
世界で一番、誰よりも一つ上の兄貴を信頼しているんです。

人生が大きく変わり始めた日

朝6時になり、公衆電話のあるコンビニへ。
母親の携帯電話に電話をし、事情を説明。

当時母親が付き合っていた方の車で迎えに来てもらい、母親が住んでいる隣町の実家に逃げ込みました。

もちろん父親が連れ戻しに来てたらしいですが、そこは安全圏。

父親のテリトリーではなく、母親の親戚一家が暮らす集落なので、ようやく鬼と決別出来たんです。

それからもストーリーは続いて行くのですが、幼少期の辛い過去シリーズは一旦おしまいです♪

また気が向いたら、夜逃げのその後の記事を書きますね。(笑)

父親との和解

だいぶ端折りますが・・・(笑)

それから16年後、筆者が30歳の時に機会が訪れ、その父親とも真剣に話し合い、和解しました。

『昔はやりすぎた、反省してる、本当に申し訳ない』と筆者に向かって膝をついて、頭を下げたんです。

想定外でしたね~。自分の非を認める事が出来る様に父親も丸くなったんだなと感じ、自分の想いを全てぶちまけて、殺す計画をしていたのも全て話ました。謝られたところで傷は癒えないですからね。

しかし、あれだけプライドの高く、自我が強い父親が頭を下げて初めて謝った事で、筆者も大人になり、一生許さない予定でしたが、
これからは親と言うより友達な!って事にして、一緒に酒飲んだんです。

今では年に2回程、子供達も連れていって会わせてあげてます。(^o^)丿

一応1人しかいない父親なので。

自分の子供が殴られないか、それが一番の心配でしたが、娘達を連れてきた時はとても楽しそうにずーっとニコニコ眺めています。

一番許せないものを許すという事で、これまで胸に引っかかっていた突っかかりが取れた様な感覚になれました。それが出来た自分もきっと成長したんだろうなと考えています。

将来の決意

筆者が虐待を体験して決意した事は、

結婚して家庭が出来ても、女性に手を出さない。
子供達に手を出さない。
優しいお父さんになる。
子供達のやりたい事をいっぱいさせてあげる。
いろんなところに連れてって、視野を広げてあげる。
一緒にいっぱい遊んでいっぱい笑う。
成功して、金持ちになって、子供達に腹いっぱい美味しいご飯を食べさせてあげる。

10代の頃の筆者が強く思った事です。

まだまだお金持ちの類では無いですが、
上記に記載した事全て実現出来ている事が本当に嬉しい限りです。(^^;

1番は子供達の笑顔を見た時に、生きてて本当に良かったなって心から思えますね(^-^)

最後のまとめ

子供は意外と口に出して言えない。
怖くて言いたがらない。

筆者も虐待に合っている事を誰にも言えませんでした。

周りの大人や友達、学校の先生にも詳細は言えず、言ったら解決出来る保証も無く、逆に誰かに伝えた事で父親が激高して、更にエスカレートするんじゃないかという不安の方が大きかったので、誰にも相談すら出来ずに、結果逃げるという選択肢を選びました。

でもあの時、もし筆者に兄弟が居なかったら、違う選択肢を選び、人生は違う方向に向かっていたか、終わっていたかもしれません。

筆者は兄貴の存在があったから乗り越える事が出来ましたが、誰かに自分の状況を相談する事がもっと早く出来ていたら、もっと楽しい幼少期を過ごせたかもしれません。

だからもし、虐待やDV、いじめに悩んでいる方がいるなら、ハッキリ言える事は勇気を振り絞って必ず誰かに相談しましょうって事です。

しっかりSOSを出して、助けを求めましょう。
必ず誰かが助けてくれます。

それが最速かつ最善の解決策に繋がると筆者は考えています。

この記事を読んでる方はきっと大人が多いでしょう。

筆者の記事を読んで、何か少しでも感じた人がいっらしゃるのであれば、身近な子供達には特に気にかけて欲しい、伝えて欲しいと切に願います。

なぜなら今この時も虐待に苦しんでいる子供達がいるのだから。

最後までお読み頂き誠にありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?