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ドライマティーニをひとつ。彼女には旬のフルーツカクテルを。

男には、知られたくない顔があるものだ。
上司としての顔もあれば取引先での顔、馴染みの友としての顔。夫としての顔や、父としての顔。
女性の皆様が、一度は耳にした事のある都市伝説があるだろう。

男には1人の時間がなければ死んでしまう。

全ての仮面を脱ぎ、誰にも見せない素顔でいる時間があるからこそ。男は仮面をつけて戦えるのだ。

素顔の時間をどの場所で作るかは男によって変わる。
この時間をどれだけ充実して過ごせるかに男は人生の大半を費やす。
車やバイクをイジるガレージであったり、読書するカフェ、十八番を一曲歌うスナック。口説きたい女性のいるクラブ。Barの1番端の席。
私の場合は、コロナ禍に入ってからは車の中だ。かなり格好悪い。ただし車内で1人タバコを吸う表情は俳優そのものだ。ここは譲れない。

素顔の時間をどこでどう過ごすかはその男を作り上げる上でとても重要になってくる。


こんな例を挙げてみよう。
1.ある男は仕事帰りに立ち食い蕎麦屋に寄り、一杯のビールとあたたかい蕎麦を食べて帰る。
2.ある男はクラブに通い、酒の力を借りて夜の蝶を追いかける。
3.ある男はBarで1人、グラスを傾ける。

言うまでもない。どの男がかっこいいのか。単純明快だろう。
1の男は蕎麦とビールで下っ腹を膨らませる。
2の男は素人が作った酒と女で股間を膨らませる。
3の男はナッツとウイスキーで人格を膨らませる。

男に生まれたからには、やはり3番の男を目指したくなるものだ。

20代の頃、隣の駅から徒歩5分の場所にあるオーセンティックバーに通っていた。結婚する前である。
元々アルコールに弱く、3口も飲めば顔が赤くなる蟹のような男だ。泥酔した事も記憶を無くしたこともないつまらない蟹だ。


初めて飲んだお酒はコンビニの缶チューハイ。確かカルピスサワーだったと思う。まるまる1本を飲み干したつまらない蟹男は眠った。真っ赤に茹で上げられた蟹は海へは戻らず、そのまま眠った。

そこから数年間、私はお酒を飲んでも3口までにしていた。3番の男を目指す私にとって、蟹になることは許されない。
そんな中、10代の頃から私の髪をカットしてくれている美容院のダンディおじさまとの何気ない世間話でとても良いことを聞いた。

「安い酒は気持ち悪くなるけど。良い酒は気持ちよくなるんだよ。」

世界が一瞬にしてひっくり返ったような感覚だ。
そうか。私に安い酒は似合わない。
こうして隣の駅のオーセンティックバーに通い始めたのだ。

事前にネットでウイスキーやバーボンの知識を身に付けていた蟹は得意げに注文をした。

「バランタインの17年をストレートで。」

「はい。」

マスターの仕草は一つ一つが洗練されている。
グラスを取るだけでも、まるで愛する彼女に触れるかのような仕草だ。蟹はパフォーマンスに魅了された。笑顔でも怒っている訳でもなく、ただマスターが目の前のお酒に向ける表情は確実に匠の域に達している。
私の注文したバランタイン17年はすぐにカウンターテーブルに現れた。

私は既に酔いしれていた。
なにもかもが完璧だ。

タバコの火をゆっくりと消した後、グラスの中の綺麗な酒を口に含んだ。

目を瞑った私の口内で、アルコールが一瞬で広がる。



マズッ。

蟹人間の飲むものではなかった。


安い酒も良い酒も私のような蟹にとっては毒であった。

私はすぐにコーラを注文し、飲み干した。

うまい。うますぎる。

そして「ご馳走様。」とお会計をスマートに済ませた蟹は、店の外に出て死ぬほど吐いた。
ファルファルという音が喉から出た。
まだまだ私は1流の男には程遠いようだ。

あれからオーセンティックバーに行っては、1杯目からコーラである。自分に嘘をつくよりいくらかマシだろう。

いつかは言ってみたいものだ。
「マスター。ドライマティーニを1つ。彼女には旬のフルーツカクテルを。」

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