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すらすら読める人事小説:部下を持つ14

「今日の面接はどうだった?」
帰りの新幹線の中で、山田は東口、伊丹に尋ねた。越智は、質問する山田の隣で静かに話の流れをうかがっている。
「いやー20名全員が来るなんて奇跡ですよ。山田課長の初めての面接で全員勢ぞろいなんて、持ってますよね。いつもですと2割は欠席ですからね」
呑気な東口をしり目に、山田は再び尋ねた。
「午前中の面接で俺が面接の形式を変更したとき、どう思った?びっくりした?」
「あっ、はい。何が起こるのかなってドキドキもんですよ。」
東口なりに新幹線内の場の空気を読んだのだろう、山田が知る東口の2割増しで明るくとぼけて振舞っている。
「そもそもさ、何のためにあの面接の形式をとっているの?面接の狙いっていうか、目的はなに?
「ネライ?モクテキ?ですか?」
「そう、目的。うちの会社が求める人材を見極めたり惹きつけたりするために面接をするわけでしょ?」
「そうです、それがモクテキです」
「いやそうではなくて、あの形式、2対10の面接や、うちの会社の強み弱みを題材にしたグループワークを含めて、目的があるわけでしょ?」
「何のためにやっているかというと、経緯はよくわかりませんね、岡部さんがやれっていうし、これまでもそうしてきましたんで。」
経緯はわからないがやっている。皆さんの会社にもよくある光景ではないだろうか?東口には悪いが、目の前の仕事の目的が何なのかわからない、わかろうとしないで続けている社員の典型例だ。このような社員は、例外社員ではない。1名いれば必ずその何倍もの社員が企業内に存在する。
仕事をするとき、手段が先行し目的を見失う。これは決して特異な例ではなく、実は多くの会社で見られる傾向である。
一つ例を挙げよう。毎月開かれる会議を思い出してみてほしい。レポートには数字がならび、良く分析されたようなコメントや課題もしっかり書かれている。発表者の数だけ紙面が用意され、それが参加者分だけコピーされる。規定の位置に規定の角度でホチキス止めされた書類の束は、深く考察されたモノであるかどうかが問題なのではなく、重視されるのはその体裁だ。

会議の中身を見てみよう。恐らく、皆さんの知っている会議は、一言でいえば「報告会」になってはいないだろうか。持ち時間がきちんと配分され、担当者は前月の数字を読み上げる。活動内容にも踏み込んだ発言をするし、課題についても発言する。しかし、どうだろう。その課題は、先月と変化があるだろうか。1年前と本質的に変わっているだろうか。新たに発表担当者になる者や、レポートを取りまとめる作業者は、なぜこの書式でまとめなければならないかを先輩に問う。そのとき帰ってくる答えは、「これがうちの書式だから、君も慣れれば簡単に作れるようになるよ」だ。新人がその書式に違和感を覚えようものなら、「だめだめ勝手に変えちゃあ。会議で怒られるぞ」と諭される。ベテランになると、毎月同じ課題を持って行っては指摘を受けるから、微妙に表現を変えた課題を巧妙に創り出す。しかし会議の場で過去の課題の解決について突っ込まれることはほとんどないため、そこでどんな課題を書こうがお構いなし。要は、紙面を適度な文字数で埋められるかどうかがレポート作りの目的であって、本質的な課題に向き合うことは求められていない。
これは紙の問題ではない。「紙を配るのを辞めよう、これからはプロジェクターで投影しようじゃないか、いやいや各人のPCに映せますよ!」と叫ぶ企業もあるが、本質的には何も変わっていない。これが日本のサラリーマンの働き方であり、決して奇特な例でないことは、私がたくさんの顧客に出入りし、また転職するたびにそのような人々に出会ってきた経験から申し上げる。つづく。。

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