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左手にプール

彼女は最終的に1時間ほど遅刻してきた。

さほどイラつかなかったのは、「まあ出会い系なんてこんなものか」という諦めに似た感情があったんだと思う。待っていたその間、待ち合わせ場所と予約したお店を何度も何度も往復して時間を潰した。スマホのマップを見ながらお店に行くのは嫌だった。スマートだと思われたかったから。


「○○さんですか?」

振り返る。ポニーテール。ダボッとしたTシャツ。黒いスカート。写真より少し可愛くない。これから行く客単価5000円のイタリアンは正直勿体ないと思った。でもすでに予約していた。「遅れてごめんなさい」と申し訳なさそうな顔を尻目に、「大丈夫ですよ」と適当に返事をする。今日は奢るのをやめようと思いながら、もはや歩き慣れていた道を進んだ。


店に着いた。

こじんまりとした店内はほぼ席が埋まっている。予約して良かったと自分を褒める。席に着いて適当なお酒を頼み、自己紹介をしようと思ったタイミング、彼女の手の甲に何か書かれているのを発見した。薄暗い店内で目を凝らすと、汚い字で、しかも油性マジックの太い方で「プール」と書かれていた。


プール?

彼女の職業の欄には「公務員」と書かれていたはずだった。プールという単語と公務員のイメージがうまく結びつかない。公共事業に関連した部署だろうか。だとしても手の甲にマジックで直書きは流石にない。たとえ書いても消せよ。


待たされて少々ゲンナリしている状態で、ガキが書いたような「プール」という文字は、なんとなく精神を疲弊させた。明日は金曜日だから仕事もある。時刻は20時を回っている。適当に切り上げて帰りたいと強く願っている中、彼女がペペロンチーノを頼んでいて、口臭とかあまり気にしないタイプなんだと思い、帰りたさに拍車をかけた。


「手のそれ、なんですか?」

ぶっきらぼうに話しかける。彼女はメニュー表から顔をあげ、「これですか」と手の甲を愛おしそうにさすりながらえへへと笑った。ずいぶんと気の抜けた笑い方に、こっちの勢いも少し削がれる。


「明日からプールなんです」

彼女はそう言いながらもう一度えへへと笑った。だからプールってなんなんだ。そうツッコみたい気持ちをグッと抑える。彼女の屈託のない笑顔。その笑顔からプールを心底楽しみにしていることだけは分かった。話の続きを待っていると、彼女はニコニコしたままメニュー表に顔を落とした。


会話が宙に放り出されてしまった。
珍しい形で会話が終わったことに驚きを隠せない。聞き方が悪かったんだろうか?


彼女は店員にオススメのドリンクを尋ねているが、こっちは早くプールについて尋ねたくてウズウズしている。彼女は店員に何故か自分のドリンクを二杯分頼み、そのままお手洗いに向かった。


聞きたいことが1つ増えたと同時に、帰りたい気持ちがなくなっていることに気づいた。





聞けば「プール」とは明日から始まる水泳の授業を指しているらしい 。彼女は千葉の田舎の方で小学校の先生をしていて、住む場所も小学校の近く、この待ち合わせた所から大分離れた場所にあるという。

待ち合わせ場所に職場から遠い所を選んでしまったことを詫びる。私も業務が長引いてしまって、彼女はそう言いながらかぶりを振った。


普通の出会いであれば、互いの職業や住む場所を知らない状態でデートするなんてことはありえない。しかし出会い系だと会ったこともない人に色々情報を与えるのは危険だという共通認識があるため、こういったどうしようもないことは度々起こる。


でも悪いことばかりではない。

互いに知らない状態で出会うからこそ、互いの職業、好きな食べ物、趣味、休日の過ごし方。今まで交じわらなかった人生を埋めるように、丁寧に質問をしあう。その瞬間がたまらなく好きだ。

「好きな食べ物はなんですか?」なんて普通の出会いだったら絶対に聞かない。けれどもそれを互いに丁寧に確かめ合っている感じがおかしくて、妙に恥ずかしくて、少しだけ甘酸っぱい。



「ピアノとか弾けるんですか?」

遅刻の理由も分かり、プールの謎も解け、僕らはペペロンチーノをすすりながら互いの人生を紐解きあっていた。時には恥ずかしさも相まってなんだか意図が分からない質問をしまう時もあった。ピアノなんか小学校の先生なんだから引けるに決まっているだろうと、質問をしてすぐさま思う。


意外にも彼女は手の小ささを理由にピアノが弾けないことを打ち明けた。彼女の手に視線を移す。確かに小さいように見えるが程度がよく分からない。比較しようと自分の手のひらを空中にかざした。


「ほら、小さいでしょう?」

かざした右の手に彼女が手を触れ合わせた。
突然の行動にビックリする。何とか動じずに済んだ。が心は強く脈打っている。

彼女は動揺を見透かしたようにケラケラと笑う。彼女の手は確かに小さい。自分の半分くらいの大きさしかない。けれども彼女の手は血の通ったやわらかな温かさに包まれていた。

誰かを守る手というのはこういう手なのかもしれないなと、ドギマギしながらダサいことを思った。



そのままの流れで話がプールに戻る。

「来る前に消そうと思ったんですけど消えなくて⋯⋯。『先生明日からだよ!』って子供に書かれちゃって、全くしょうがないですよね」

彼女は左手のプールの文字に顔を落とし、右手の親指の腹で何度も優しく文字をなぞった。柔和な表情で何度も何度も文字をなぞった。

その瞬間、彼女の聖母のような眼差は学校での日々に向けられていることに気づく。今この時、目の前にいる僕に対して1㎜も意識を向けられてはいないことに、恥ずかしいことに強い嫉妬心を抱いた。


嫉妬心をかき消すように、彼女に質問を連ねる。

彼女は、時に教え諭すように、時にまるで母親のような表情をしながら小学校の日々を語った。初めての遠足引率。運動会での生徒が頑張る姿に思わず泣いてしまったこと。あっけらかんとした子供の笑顔がいかに尊いか。左手をさすりながら語った。


思わず左手のプールの文字に視線を移す。
ぐちゃぐちゃで、それでいて大きく書かれたプールという文字。


それを見て、小学生の時を思い出す。


6月のじんわりと汗ばむ季節。鳥が横切った気がして思わず窓の外を見る。そこにはだだっ広いグラウンドがあって、雲ひとつない青が空に駆けている。ふと見たプールに、陽光が反射してキラキラと輝いていて、いてもたってもいられず、先生の元に駆け寄った。

興奮気味にプールの様子を喋る少年に、彼女はニコニコと優しそうに笑っていた。






気づけば3時間が経っていて、彼女の終電が迫っていた。手早く会計を済ませて店を出る。広がる夜の帳にかすかに光る星々が見えた。

彼女を改札まで見送る。僕らは十分に話をしていたから、特に話すこともなく別れた。黒いスカートが人ごみに吸い込まれる姿を確認してから家路に向かう。


家まで帰る道をゆっくりと歩きながら彼女との時間を思い出した。

彼女は子供の話をするたびに柔和な微笑みを浮かべていた。


自分に問う。仕事を振り返った時、果たして彼女のような微笑みを浮かべられるだろうか。

別に仕事の選択を間違えたわけではない。待遇にも満足している。ただ、普段の仕事を振り返った時、しみじみとその幸せを嚙みしめるような瞬間が来るとは到底思えなかった。


明日の仕事の予定を確認しようとスマホを開いた。


しかし気がついたら天気予報を目で追っている。



明日は晴れて欲しいと、初めて他人の為に祈っていた。


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