幡野広志展から見た「=」と「≒」(表裏一体の世界)
僕は以前から幡野広志さんにとても興味があった。「好きなnoteユーザーは?」とnote公式オフ会で聞かれた時も「幡野広志さん」と答えた。
1983年産まれの同い年。そして小さな子どももいる。さらに、僕はものづくりだけど共に表現活動もしている。
勝手に身近に感じていたから、今回の展覧会で幡野さんの写真を見たら、人目もはばからず感情移入して涙を流すのではないかと思っていた。遠山怜さんにもそう伝えていた。
でも泣くどころか、感情移入すらしなかった。
ちなみに展覧会は本当に素晴らしかった。何度でも行きたいと思えるほど...。
でもなぜ感情移入しなかったのか...。
それは会場に入ってすぐ、この写真が僕の脳をガツン!と殴ったからだった。
僕は昔から「遺体」や「死体」という存在を人よりも多く見てきた方だと思う。なぜか飼っていたペット(犬、猫、鳥、金魚など)全ての死体と対面し、父方の祖母や親友、そして九州に住んでいた(僕は東京在住)母方の祖父の最後を病室で看取ることができた、という奇跡もあった。
そんな経験をしてきた人間として、この写真は衝撃的だった。なぜなら僕が見てきた死体や遺体はもっと人形的というのか、こんなに生き生きとはしていなかったからだ。
死んだ途端に「物」に感じることすらあった。だから「魂」という言葉が生まれたのもよく理解できる。
でも幡野広志さんのこの写真作品には、死体らしさがなく、生気すら感じたのだ。
そして2階に上がるとこの写真が目に入った。
赤ちゃんの写真。おそらく幡野さんのお子様の写真だと思う。当たり前なのかもしれないが、この写真からも生気を感じ取れた。
この写真と同じようにだ。
僕の中で生と死が表裏一体となった瞬間だった。
さらに僕を驚かせたのは、会場の外に広がる「墓地」だった。幡野さんのお子様の元気な姿を写した写真作品の前には墓地が広がっているのだ。
ここにも表裏一体が存在していると感じながら先に進むと...
まさかの写真。お子様が墓地で遊んでいる。それはまるで現在と未来を見ているようだった。
ここで僕は、幡野さんが生きることと死ぬことは表裏一体であり、この写真展は人間や生きとし生けるもの全てに存在する生と死の関係性を表現しているのではないとか確信し始めていた。
もう感情移入とか、そういったレベルでは見れなくなっていた。
会場にいる人たちみんなが生と死の表裏一体を生きている。僕も、そして僕の家族も...。
さらに別会場に足を運ぶとその感覚はさらに増した。
幡野さんが25歳の時に撮影したという写真。
透き通るほどの青とすっきりとした空気感。
分かりやすく「美しさ」を感じるその写真の被写体は、全てが廃墟や朽ちゆく物たちだった。ここにも表裏一体が存在するのだ。
僕たちは死から逃げることはできない。
常に生と死は共に存在する。
そして生も死も、美しく恐ろしいものだ。
僕はこの当たり前の事実を、幡野さんの写真を通して改めて知ることとなった。
...僕と幡野さんは同い年だ。
これはおそらく幡野さんの手だ。僕と同い年の手。
これは幡野さんの文章だ。僕と同い年の文章。
幡野さんは生と死を共に生きている。
僕もそんなはずのない世界から目を背けず生きていこうと思う。
幡野さん、素敵な時間をありがとうございます。
竹鼻良文
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