筑波大学を退職します(a.k.a acadexit)
はじめに
伝えたい内容はタイトル通りで、2023/3/31をもって2年1ヶ月の間勤めた、現職の筑波大学 テニュアトラック助教を退職することになりました。人生で退職願なるものを書いたのは初めてだったので、謎の感慨がありました。まぁ言ってしまえばそれだけなのですが、最近流行り?のacadexitをする当事者になったことと、アカデミアにいると退職エントリを書ける機会というのもそうないので、せっかくなのでいろいろ書いてみようと思います。アカデミアであったり企業であったりで研究者を志している人の参考になればうれしいです。
どんな人?
主に拡張現実感(AR)やヒューマン-コンピュータインタラクション(HCI)、触覚インタフェースの研究をしている研究者です。
また、学歴・職歴は、東大で博士取得(2019年3月)→阪大で学振PD(2019年4月 - 2021年2月)→筑波大でテニュアトラック助教(2021年3月 - 2023年3月)→クラスター メタバース研究所 シニアリサーチサイエンティスト(2023年4月-、予定)という感じです。
くわしくは↓を参照してください。
大学教員について
ベールに包まれていることが多いであろう、大学教員の仕事内容について書いていこうと思います。ちなみに僕は助教だったので、教授 - 准教授 - 講師 - 助教のピラミッドの中で一番下の役職になります。(よく助教授と間違えられますが、助教授という職階はとうの昔に廃止されており、現在は准教授と呼ばれています。助教は昔の助手に相当するポジションですが、助手とは職務内容が変わっています。)
また、ここでいう大学教員はいわゆる特任教員ではない教員を指しています。プロジェクト雇用のポスドクとかだと全然話が変わってくるので、以下は人事ポイントを使って大学予算で雇用される教員の話だと思って読んでください。
大学教員というと、好きな研究をしてお金をもらっている人種、というイメージがあるかと思いますが、そんなことはありません。大学教員の仕事は研究業務、教育業務、運営業務の3種類あり、むしろ後者2つをやっているからこそ給与をもらえている、と感じていました。これは持論ですが、“好きな研究だけやっている人"にお金を払ってくれる組織なんてありません(歴史的にも中世の大富豪くらいかと思います)。
僕の場合、教育業務では、PI(Principal Investigator)として研究室を運営して、学部生の卒論や大学院生の修論の指導をしていました。加えて、講義も普通に座学(学部を3講義、大学院を1講義)を分担で担当し、加えて演習も担当していました。この形態は少なくとも僕が所属してきた東大や阪大とは異なる感じで、職位は助教でしたが、職務内容は他大での講師に近かったのではないかなぁと思います。(ちなみに筑波大だからといって全組織でこうだ、という訳ではありません。このあたりは学部ごとの差がかなり大きい部分なのかなと思います。)
運営業務については守秘義務もあったりするのであんまり大っぴらにはできないのですが、委員会に入ってその業務を行ったり、共通テストの監督や大学入試関連の業務をしたり、といった感じでした。また、運営業務を担当する関係で、当然ながら教員会議(いわゆる教授会)にも出席していました。
ちなみに、テニュアトラックというのは、任期付で雇用されつつ、何年か後(基本的には5年後)に審査があり、その審査に通過すればテニュア(任期なし)に転換される雇用形態です。助教の場合は任期付助教から任期のない助教になることができます(単に任期についての条件であり、昇進についてはまた別の話)。
筑波大学について
筑波大学では図書館情報メディア系という組織に所属し、助教をしていました。ちなみに筑波大は教員組織と学部/大学院組織が分離されているので、学部の担当は情報学群 情報メディア創成学類、大学院の担当は人間総合科学学術院 情報学学位プログラムでした。
また、筑波大学はいわゆる新構想大学という大学で、新しい制度や取り組みに対して前向きに取り入れる姿勢をことあるごとに感じました(もちろん、それが常にいい方向に働くわけではないとは思いますが)。
僕がいた図書館情報メディア系は、もともと図書館情報大学という大学が筑波大学と合併した際にできた組織が源流であり、そのため研究室や講義棟もメインエリアと異なる春日エリアという場所に集まっています。この経緯のため、所属している教員も文理を横断して非常に幅が広く、またその割には教員同士の距離が近い環境でした。
僕はそもそも研究でハードウェアを扱うので広い場所が必要だったり、実験で化学薬品やレーザーを使ったりで設備関連でわがままを言うことが多く、正直教員としてとても面倒だったと思いますが、それでも研究を進めやすくするため様々なサポートをいただいたので、その点はとても感謝しています。
また、個人的な感想ですが、筑波大の学生さんは優秀な人が多く、また、単に勉強だけをするのではなく、自分でいろんなことにチャレンジして経験を積むことをよしとするカルチャーがあるように感じました。加えて、大学側がそれを支援する様々なカリキュラムやプログラム(AREなど)もあったので、教員としては学生指導をしていて楽しかったです。
研究室の様子については日本バーチャルリアリティ学会誌に研究室紹介を執筆したので興味ある方は読んでみてください(宣伝)。
そして、これまでいた東大や阪大と比べて、筑波大は若手教員への研究費支援制度が豊富に用意されており、僕も100万円/年 x 3年の助成を受けられる研究基盤支援プログラム(Sタイプ)や、系の予算などの支援をもらって研究を進めることができました。
余談ですが、このようにめぐまれた環境で、かつテニュアトラック助教という比較的安定した職位だったので、周囲からは「なんでやめるの?もったいない!」といった話をけっこうされたのですが、まぁそのあたりは次のセクションで触れていきたいと思います。
なぜ退職するのか
と、このようにめぐまれた環境にいてなぜ退職しようと思ったかというと、主に以下の2つの理由です。
ちなみに、これらの要因は主に日本のアカデミアに共通する組織・構造的な問題のように感じています。
研究者としての成長を実感できなくなった
博士時代や阪大でのポスドク時代は、まがりなりにも毎年研究者としての能力が高まっていて成長しているな、という実感を感じながら日々を過ごせていたのですが、筑波大の助教になってから、この成長を実感する機会がほとんどなくなってしまいました。
これにはいろいろな理由があると思うのですが、以下の3つの影響が大きいと個人的には分析しています。
研究に専念する時間が確保できない
身近に研究議論ができる人がいない
研究室運営に起因するプレッシャー
以下ではこれらについて順に触れていきたいと思います。
1. 研究に専念する時間が確保できない
これはアカデミアあるあるなのですが、いわゆる「雑用が多い」という状況のために、研究活動に専念できるまとまった時間がとれない、という状況です。これはかなりキツかったです。特に研究室への学生配属と講義の立ち上げが被った今年度はかなり絶望的な状況でした。
とはいえ、アカデミアの先輩方からすると「助教ごときが何を言っているのか」と思われてしまうかもしれません。ただ、30代前半の年齢でマネージャー的な役割に専念する、という割り切りはしたくないですし、とはいえPIでもあるので、必然的にプレイングマネージャーとしての動きが求められ、その中でプレイヤーとしての動きが全然できていないことにフラストレーションを溜める日々でした。
特に、若手PIならではの状況として、研究予算が限定的であり、かつ研究室立ち上げに多大なお金がかかるので、秘書さんを雇用する余裕がありませんでした。そのため、秘書さんにお願いすべき事務処理も基本的に自分が担当して処理することになりました。加えて、大学の事務処理においてはいまだに紙ベースの申請や直筆署名、押印といったフローが蔓延しており、これに相当の時間が溶けていきました(加えて、筑波大の職員の方々に多大なご迷惑をおかけしたと思います)。
もちろん、何年か経てば研究室の運営が安定し、講義も蓄積ができ、という状況になってくれば多少の余裕ができてくるという希望的観測もあるのですが、そうなった頃にプレイヤーとしての能力が維持できている保証もなく、そもそも研究がしたくて研究者になったのに、研究ができないとは…という感じで、厳しい気持ちでした。よく言われる「プログラマー35歳定年説」は実はプレイヤーとしての大学教員にも当てはまるのかもしれません(僕は現在32歳なので、このまま行くと35歳になる頃には順調に技術貯金を使い切って専業マネージャーが爆誕している気がします)。
もちろん、1日は24時間あり、1週間は7日あるので、全力を振り絞ってワーカホリックになり研究時間を確保する、ということはできるとは思います(実際そのような先生方は日本だと少なくない気がします)。ただ、ライフワークバランスの崩壊待ったなしですし、今後家庭を築いていき、また体力も衰えていくことなどを考えると、僕には持続可能な働き方とは到底思えませんでした。なので、事務処理能力もワーカホリックへの覚悟も足りない僕としては自身の研究時間が確保できない現状を甘受することしかできない状況で、鬱窟とした思いを抱いていました。
また、補足として、ここでの成長、というのは研究活動におけるプレイヤーとしての成長を指しており、PIを務めていた関係上、マネージャーとしての成長はたくさんあったように思います。しかし、やはり研究者である以上、プレイヤーとしての能力が頭打ちになってしまったら終わりだと思うので、この状況はなんとかしたいと強く感じていました。
2. 身近に研究議論ができる人がいない
これは組織の学際性と、若手教員としてPIになったことのデメリットが出た形ですが、身近に自分と同程度のキャリアと専門性を持っていて、研究議論ができる人がいなかったというのが厳しかったです。
前職の阪大では小講座制だったので、周囲に教授、准教授、助教の先生がおられ、毎日のように研究議論をする機会がありました。また近隣の研究室にも専門分野が近い助教の先生が多数いらっしゃったので、そこでも研究議論が捗り、これをきっかけに共同研究が始まることもしばしばあるという環境でした。
一方で、筑波大に異動してからは周囲には修士と学部の学生さんしかいないという状況でした。そのため、指導一辺倒になり、研究議論をする機会というのがほとんどなくなってしまいました。もちろん系の若手教員で交流はあり、関係性はとてもよかったのですが、やはり学際的な組織なので専門分野に幅があり、研究議論というよりは運営業務についての話題が多かったように感じます。このあたりは、博士に進学する学生さんが出てくるまでの辛抱、という話を耳にしていたのですが、なかなかそこまで待てるほどの忍耐力は僕にはありませんでした…。
3. 研究室運営に起因するプレッシャー
これは、研究室に学生さんが配属されると、指導教員としてその学生さんたちが研究して論文を書き、学位を取るまでの責任をとって研究室を運営しないといけないのですが、その負荷に伴うプレッシャーが大きかったように思います。学生さんの興味・関心と研究期間のバランスを考えた研究テーマの準備というのももちろん大変だったのですが、これは僕は楽しんで取り組めていました。ただ、そのテーマの遂行に必要な設備の準備、またその原資となる研究費の獲得は大きなプレッシャーで、特に大学から配分される基盤研究費をほとんど当てにできない以上、科研費やJST、民間財団の競争的資金を絶やすことなく当て続けないと研究室が立ち行かなくなってしまう、という現実は非常に厳しいものがありました。
また、現在僕が海外の大学の研究者と共同研究している関係で、訪問滞在を伴う研究を何回か行ったのですが、PIが1人だと、この時に学生さんをケアできる人が誰もいなくなってしまい、運営面での不安を抱えてしまうというのも厳しい状況でした。
給与が安い
2番目の理由として、アカデミアの職種は給与面での評価が低いというのありました(とはいえ、これは副次的なものだったように思います)。
ただ、誤解がないように書いておきたいのですが、筑波大のテニュアトラック助教は一般的な国立大の助教と比較しても高めの給与水準(JREC-INなどで調べれば出てくるかと思います)であり、また某国立大学と異なり、教育や研究面での業務評価が良好であればノーベル賞など取らなくても、きちんと評価されてボーナスも支給されていたので、国立大学教員としてはとてもめぐまれた給与水準だったと思います。
それでもIT系企業(Big Techやユニコーンベンチャーなど)で働いている大学・大学院同期と比較すると年収で半分以下の金額でした。これは僕の専門分野がComputer Scienceであり、周囲の給与水準が高いという影響も大きいとは思いますが、とはいえ同じように努力して身につけた能力に見合った給与をもらえていない、という状況自体はことあるごとにむなしさを覚えていました。
一方で、僕はあまり副業はしていなかったのですが、研究成果を元にベンチャーを立ち上げたり、研究顧問をしたりして副業収入を得る、といった働き方をしていればこの給与面での問題はある程度解消できるのかもしれません(さらにライフワークバランスの崩壊が加速する気がしますが…)。
大学教員になりたい人へ
いちおう大学教員になれた人間として、公募戦士をしていた時にどういうことを考えていたか書いておこうと思います。
研究業績を積む
身も蓋もないですが、候補者を比べる際の客観的な指標としては、やはりPublicationの数と質が問われると思います。背景にはさまざまな事情があるかと思いますが、やはり研究業績を積まないことにはスタートラインには立てないように思えます。ちなみに、僕が筑波大の助教にapplyした時のPublicationはジャーナル(主著・共著含む)10本でした。
競争的資金を獲得する
先述したように、昨今の大学研究室においては(相当節約しない限り)競争的資金をコンスタントに獲得しないと研究室運営が立ち行かなくなっています。また、科研費やJSTの競争的資金を獲得すると、研究費の30%に相当する金額が間接経費として大学に配分されるため、その分大学の財政が潤います。そのため、競争的資金を獲得できている、というのは研究室での学生指導を担う教員として重視される資質になってきていると感じています。
僕も、公募に出していた頃は科研費の若手やJST ACT-Xといった若手研究者向けの研究資金に積極的にapplyしていました。これはなかなか大変でしたが、自分で獲得した資金で研究テーマを遂行し、その成果を説明するというのは研究者として必要なステップだったと今振り返ると感じています。
対話でき、柔軟な考え方を持っている姿勢を示す
なんか普通の就活みたいな話ですが、大学というのは学部ごとによってもカラーが異なることが多く、大学教員はそこに馴染んで周囲とコミュニケーションをとりながら仕事をうまく進めることが求められる仕事だと思います。なので、自分のスタイルがあり、それを強固に守るといった職人気質な働き方はあまり向かず、そのあたりの適正を面接の時に見られているのかなぁと感じる瞬間が時々ありました。
といってもわからないと思うのですが、例を挙げると質問者の専門であり、自分の専門ではない分野からの切り口で質問をされた際にどのような反応をするかであったり、突拍子もない未来の話や逆に身近すぎるような話題を出されたときに、その質問者の背景を汲んでわかるように伝えたいことを伝えられているか、といった能力が問われていたように思います。
おわりに
結果的に辞めてしまうことにはなったのですが、筑波大学自体は日本のアカデミアの中では非常にめぐまれた環境ですし、よい組織だと思います。アカデミア志望の方がいたら選択肢に入れてみてほしいとおすすめする大学だと思っています。(助教の公募を出す時に、テニュアトラックでの採用を強力に推し進めている点についてもとても好感を持っています。)
その証拠に、上に書いたような閉塞感や限界を感じつつも、特に転職活動などはしておらず、このまま踏ん張って定年まで筑波大学でがんばっていこうと本気で思っていました。
ところが人生とはわからないもので、研究所の見学に行ったことがきっかけでいいオファーをいただいたので、年齢的にも新しいことにチャレンジできる期間もそう長くはないということで、思い切ってacadexitして新天地でがんばるか、となって決断をしたという次第です。
ちなみに、2023/4/1からはクラスター メタバース研究所にjoinすることになります。ちょうどこの退職エントリを公開する日(2023/3/30)に研究所の公式webができたというくらいの新しい組織ですが、VR分野で世界と戦える民間研究所を日本に作る、という個人的な目標の下でチャレンジできることにとてもワクワクしています。転職先ではライフワークバランスを保って心穏やかに研究活動をしていきたいなぁと思っています。また、転職先のメタバース研究所について話す記事も書いてみたいとは思うのですが、まだ中の環境には多少触れた程度ですので、これについてはまた後日書いていければと思います。
本文は以上で、以下は投げ銭用のあとがきです。
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