「アンチャンティー」9

 太極拳とは不思議なもので、こんなにもゆっくりとした動きなのに、汗をかくほど身体が温かくなってくる。両腕を地面と平行に伸ばして、右の指先は空に、左の指先は地面へと向け、後ろ重心のまま、前足は猫足立ち、そのまま深く腰を落とす。

 太極拳には動禅の要素も含まれているから、集中すればするほど穏やかな気持ちになれる。当然、私の隣で永遠くっちゃべっている打謳の言葉など耳に入ってきやしない。

「――それであの女ときたら」

「女?」

 しまった。反応してしまった。打謳がぐっと距離を詰めて来る。

「そう。女だとも、女が裏で糸を引いているのだ」

「バカ。見つかる。離れろ」

 打謳をもとの位置に押し返す。ちゃんと決まった列の中で動いている分には目立たないが、一度列を逸脱すると悪目立ちしてしまうのが団体行動の主な難点だ。

 町の北よりにある健康広場では、毎日決まった時間に太極拳、ラジオ体操、大声で笑おう会が活動している。そのどれもが二十人を超える大所帯だ。いまはその中に紛れ込んで、追手の目を逃れている状態にある。

「その女のセミヌードを描いた絵画が今回の騒動の原因なのだが、私の記憶では、その絵はもうずいぶん前にきみへ返却したはずなのだ」

「おい、その女って、まさか」

 打謳が十字手の構えを取って大きく呼吸を整える。私が描いた女のセミヌードなんて、あとにも先にもあの一点だけだ。

「そう。きみの元恋人。富坂美織を描いたものだ」

 太極拳が終わる。参加者がてんでバラバラな方向に動き出して、水筒やらタオルやらを取り上げて去っていく。お疲れさまでした、の拍手くらいおこってもよさそうなものなのに、こういうところがドライなのだ、この町の人は。

「ふたつ、訂正しておく」

 人混みにまぎれて移動する。じつは先ほどから、広場の端の方を棒状のスタンガンを携えた大男が周回しているのだ。一度も目が合わなかったのでこちらに気づいてはいないようだが、あまり大手を振って動ける感じではない。

「聞こうか」

「まず、第一に、富坂さんとは別れていない。イコールいまでも恋人だ。元じゃない」

「なるほど?」

「そして、第二に、その絵は返却されていない」

 もし富坂女史の絵画が私のもとにあったなら、アトリエで一番目立つ場所に飾っているだろう。辛いことがあるたびに、きっと舐めるように鑑賞して自分を慰めていたはずだ。しかしその機会がこれまでなかったということは、私のアトリエのギャラリーに彼女を描いた絵はないということになる。

「いいや、たしかにきみに返却した。証文もあるぞ」

「ほう、見せてみろ」

 打謳が懐から割り箸を入れるような細長い紙を引っ張り出した。しわくちゃになったそれには、たしかに私の名前と一緒に印が押されてある。

 七月一六日 「愛しき人」返却 受領:小滝蓮太郎。

「解せぬ」

「なにゆえ」

「ここには確かに私の名前がある。だが私の部屋に彼女の絵は間違ってもないぞ」

 人の流れから逸脱しないように歩いていたら、この太極拳の集団はあろうことか飲み屋街の方へ足を向けているようだった。健康的に汗を流し、代謝を上げ、血流を良くしたその体の行きつく先がアルコールとは、まったく救いようのない連中である。きっと太極拳は、酒が良く回って安上がりだから続けているに違いない。

「確かに、きみの部屋を物色したときもそれらしい絵画はなかった。いったいどこへやったのだ」

 そんなこと私に聞かれても……。 

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