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今の死生観


この前学校の帰り道、携帯をみていると、また芸能人の自殺の記事が号外で目に入りました。本人にしかわからない、とてつもなく厳しい状況があったんだと思いますが、やはり若い命を自ら断ってしまうのは悲しいですよね。


自分は27歳という年の割に、たまたまなのか、同年代よりは多くのお通夜や葬式にいったり、近しい人の死と向き合ってきていると思います。


自殺をすることの倫理的問題点、社会的要因、いろいろある中で、今までの人生を通して、”今”自分なりに”死”に対しておもうことと、そこから転じて普段妄想してる理想の葬式について、つづりたいと思います。


現代の日本人は、宗教の信仰がすごく希薄になっており、それに伴って死生観について考えることも少なくなってる気がします。


生きることとは?生きていない状態とは?死ってなんやろう?

死んだら精神はどうなるんやろ?


日常でこんな疑問がわいても、ゆっるーいシャボン玉みたいにすぐに消えて違う思考に移りますよね。


そもそも生とか死の概念自体が生きている人のためのものです。先祖を供養して、感謝の念を持ったりするのも、結局は自己対話だと思います。

お墓参りの時に話しかける相手は自分の中の故人ですよね?返答もなくこちら側からの一方的なアプローチです。

ただ、それをすることで、自分の精神が落ち着いたりするものなんです。自分の中で薄れていく故人の声、姿をちょっとでも思い出させてくれます。


何が言いたいかというと、死後の世界、故人の存在は ”自分の想い方次第” だということです。


死んだ人の魂や精神を、科学的アプローチで発見することはできません。仮にタイムマシーンがあったとしても、亡くなる前の人と話すことはできても、亡くなった後の人と話すことはできません。


 ”想う” ことでしか存在を感じることができないんだと思います。


そこで自分が思うのはどうせなら死後の世界、故人の存在はポジティブに、自分に都合よく考えようということです。


ちなみに、中川家は、父方でもともと仏教だったのを母方の神道に改宗しました。それに伴って、直系の自分から見て、曾祖父母、祖父母も仏様から神様になりました。昔は神も仏も一緒だったんですが、今では分けないといけないみたいです。


そこで、自分は

 ”死んだ人は神様になって、天国的な神様だらけのところにいる。日本全国の神社はその世界への窓口で、どこからでもアプローチできる” 

と自分勝手に解釈しています(笑)

すると、すごく便利で、毎日一番家から近い神社にいってお参りすることで、感謝の念伝えたり、日々の報告をしたりするのがお手軽にできてます。旅行に行ったときなんかは、その宿から一番近い神社にいったり、観光ついでに神社をまわったりもします。

4,5分手を合わせて拝んでいるんですけど、それがある意味、禅的な自己対話になっていたりして、すごく短いけどぎゅっと凝縮されたような、充実した時間を過ごせています。


大事な人が死ぬと言葉に表せないような気持ちになります。ただ、ほとんどの人は、時間が解決してくれるかと思います。むしろ、忘れたくなくても、日常を生きることで、その日常に埋もれて行ってしまうんです。


自分は忘れないようにと、神社に毎日なるべく通っている次第です。


もともとはダイエットのための朝のウォーキングのついでだったんですけどね(笑)

人生最高のセレンディピティです。


理想の葬式について書こうと思ったんですけど、長くなったんでまた今度、書きたいと思います。


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