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Smoking Walking

 質の悪いスピーカーによって僕の業務時間は終わりを告げられた。

 なんとかノルマは達成したのだから良いとしよう。残業はするなというのが上からのお達しだ。危ない危ない。

 作業場から事務所に戻るのにはなかなか慣れが必要だ。どこの廊下も同じに見える。配属された当時は右に曲がっても左に曲がっても同じ風景で騙し絵の中に閉じ込められた気分だった。作業場裏の倉庫を突っ切ってしまえば話は早いのだが、そのためには掃除道具一式を揃える必要があるため断念した。

 そうこう考えているうちに目的地に到着した。まあ、慣れてしまえばこちらのものだ。「ガシャン!!!」誰もいない事務所にタイムカードの音が響き渡った。残業するな、と言われてはいるものの、上の人間がこちらに来たことなどないのだから気にする必要もないのだと思うのだが。そもそも自分以外がタイムカードを押しているのを見たことがない。自分以外の人間は働いているのか。はあ、とマスクから漏れる息が白い。もうそんな季節か。確かに肌寒い気がしてきた。そろそろ冬用の上着を着ないと厳しいかな。このあたりは急に冷え込むから早めに準備しないと。上着は主任に申請すれば支給してもらえる、はずなのだがその主任がどうにも見つからない。また自分で用意する羽目になりそうだ。出張だったかな、主任がいない理由は。いや、休暇だったか?まあそんなことはどうだっていい。決められた仕事をやって決められた方法で家に帰る。ただそれだけ。


 帰路に就く。風は強く、足元は暗い。

 外に出てみると切り裂くような寒さが僕を襲う。こんなに寒かったのか。あの古びた工場も意外に高気密高断熱のようだ。高気密高断熱。字列を見ただけで息苦しくなってくるな。

 そんな我らが高気密高断熱オンボロ工場には、未だに古めかしい風習が残っている。

 全面禁煙。

 工場内で煙草を吸おうものなら厳しく罰せられる。ましてや喫煙所なんて存在しない。忌々しいものだ。受動喫煙防止法。平成だか令和だか、それくらいに制定されたものらしい。これによってすべての企業が禁煙化に取り組んだ。非喫煙者の受動喫煙を防止する。聞こえはいいが僕から言わせれば今更何の意味もない。喫煙者の方が多くなったこの世の中では、いくら禁煙を謳っても煙草そのものを撲滅しなければ完全には無くせない。

 まあ、元からあるものを無くそうとするなんて愚かなことだけど。レーシック手術が主流になった今でも度付きのメガネが無くならない様に。全ての本が電子書籍で売られるようになっても紙媒体が消えない様に。

 しかし、その考えにのっとると受動喫煙防止法の存在を受け入れざるを得なくなってくる。と、いうことで、僕は帰り道に煙草をたしなむことにしている。もちろん、人が近くにいればそんなことはしないが、こんな時間、こんな場所に人がいるわけがない。ポケットから煙草を取り出し火をつける。  

 ポッ、と夜道に明かりが灯る。何故煙草を吸うのか、体に悪いことが目に見えて分かっているのに。そう言われたらその通りだと言わざるを得ないが、吸いたいから吸っている。ただそれだけだ。

 僕は毎日煙を浴びている。自分の意思とは関係なく。煙草は、そんな僕の生活の中で唯一自分の意思に基づいて体に入れている煙だ。文字通り煙に巻かれている日常で、自ら煙を入れることで存在を確認しているのかもしれないな。帰りながらそんな風に考えた。


 風が唸り声をあげて僕の横を通り過ぎていく。動きやすさ以外の一切の機能を排除した蛍光緑の作業服では防ぎきれない。なぜメッシュ素材にしたのか。蛍光緑のメッシュ素材なんぞサッカー部以外使わないと思っていたが。

 しかし、鮮やかな緑色も過去の産物となってしまった。というのも、毎日浴びている煙のせいで蛍光緑は灰に塗りつぶされ、今となっては見る面影もないのだ。

 「煙草を吸うと肺がこんなに汚れてしまうんですよ。」小学校時代の教師の声を思い出した。顔は覚えていないが。煙草を吸うと自分の肺もこんな風になっているのか・・・。幼心にそんな風に思ったことを覚えているが、そもそも煙だらけのところで生活しているのだから煙草も何も関係ないような気がする。

 そういえば、もうじき健康診断の季節だ。あれだけ煙を吸わせる工場を作っておきながら、健康診断は無料で受けさせてもらえる。煙草をやめろ、と前の診断で医者に言われたな。余計なお世話である。診断を受けた時のあの匂いは未だに忘れられない。病院とは思えない息苦しさ、近くで話されたときの口臭は忘れることがないだろう。その上、あの医者の白衣は汚く黄色と黒色に染まっていた。もはや笑うしかない。


 とはいえ、健康診断に行かない。なんていう考えは僕の中には存在していない。数少ない人と話せる機会だからだ。工場に勤め始めて十二年。ほぼ毎日同じ作業を繰り返してきた。誰とも話さず変化のない日常を過ごすのと、不快感を味わいながら人と話すのであれば、僕は間違えなく後者を選ぶ。人間は『考えないこと』が最大の敵かもしれないね。今週末に健康診断を受けることにしよう。いい質問を思いついた。そこらの煙による汚れと煙草の煙による汚れは区別はつくのだろうか。あの医者のお手並み拝見といこう。自宅から左に千五百六十二歩、右に曲がって四百二十三歩、次も右に曲がって四百歩、左に曲がって二千三十三歩。



これが病院へ行く方法だ。





いただけたら牛丼に半熟卵とかを躊躇なくつけます。感謝の気持ちと共に。