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1942年の「新しい生活様式」|大政翼賛会文化部編『新生活と住まひ方』を読む

【注意】戦時中に関係する内容を含む記事です。
戦時中の出来事について言及していますが、新型コロナウイルスの脅威を「戦争」になぞらえて、国家緊急権や国民統合について扇動あるいは批判することを目的としたものではありません。また、当時の文化人や専門家の戦争責任について安易にあげつらう意図も持ちません。

5月4日、厚生労働省は、新型コロナウイルス感染症専門家会議からの提言を受けて、感染症対策に基づく「新しい生活様式」の実践例を示しました(図1)。

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図1 「新しい生活様式」の実践例

(1)一人ひとりの基本的感染対策、(2)日常生活を営む上での基本的生活様式、(3)日用生活の各場面別の生活様式、(4)働き方の新しいスタイル、という4つの側面にわけて説明される実践例。新型コロナウイルスの収束はともかく、終息とまでなると長期戦となり、そのためにも生活の仕方自体を改めていく必要がある。だからこその「新しい生活様式」でした。

ただ、「ライフスタイル」ならともかく「生活様式」という普段あまり口にしない古風な用語が、しかも「アベノミクス」とか「プレミアムフライデー」とかの表現でなく登場し、建築畑だと、「え!大正期生活改善運動ですか!」みたいになったりも。実際、生活様式を新しくしようという試みは、まさに生活改善運動。そして、そんなムーブメントは戦前のみならず、戦時、戦後、さらにはいま現在と、それぞれの時代で意味合いを変えつつ、ある面では連続(または類似)し、一方では不連続もありつつ展開されてきた歴史を持ちます。

手元にその名も『新生活と住まひ方』という古本があります(図2)。

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図2 新生活と住まひ方(1942年)

出版されたのは1942年。当時、日本は戦争の真っただ中にありました。タイトルからして「新しい生活様式」を連想せずにはいられないこの本、いったいどういうことが書いてあるのでしょうか。

「新しい生活様式」とか「ウィズ・コロナ」とか「アフター・コロナ」とかいろいろ言われるなか、「まだるっこい」ままにモヤモヤと考えるための種を拾いに行く作業に赴きたいと思います。

『新生活と住まひ方』出版の経緯

1941年、住宅営団が誕生します。同潤会の事業を引き継ぎつつ、軍需産業に従事する人々の住宅を大量建設すべく設立された国策機関です。「国民住居」あるいは「国民住宅」と名付けられた住宅をいかにすべきかがテーマとして浮上しました。

大政翼賛会文化部編『新生活と住まひ方』(翼賛図書刊行会、1942年)は、この営団設立を受けて開催された研究会の議事録になります。

同書巻頭に収められた「序にかへて」では、弓道や茶道を例に挙げつつ、日本人の高い精神性を称えつつ、「然るに現代の日本人の日常生活は、混乱と無秩序に支配され、ひどくだらしがないように見受けられる」とつづけます。

だから書物で日本人の偉大さ、日本文化の優れた所以を知った外国人が、たまたま日本人と接して、本に書いてあること、現実との懸隔の甚だしいのに驚き、日本は不可解な国だとうそぶくのも無理からぬことである。★1

よくない現状を改めようとするとき、たびたび登場する「外国人」がここにも登場します。かつてはよかった日本。「祖先が持っていたあの立派な精神を失ってしまったのだろうか?」と問います。「立派な精神が、銃後の日常生活に現れないで、麻痺したように見える」のはなぜか。

それはこの精神的な高さを、現実生活に生かしてくるのに必要な技術が、欠けているからだと思われる。(中略)われわれの祖先の生活を振返ってみると、そこには立派な生活の技術があった。(中略)しかしそういう立派な生活の技術も、時勢が移り、生活様式が変わるとともに、ぴったりとわれわれの要求を充たさなくなるのは、自然の理法である。

たとえば和服は、古い生活技術の粋だったという。でも、時代の変化で和服が着られなくなっても、新しい服装に適した新しい生活技術が登場していない。これが問題だと指摘します。

だからこの混沌に統一をもたらし、われわれの生活に希望を点じるためには、まずもって正しい生活観を培い、昭和の現代に適合した新しい生活の技術を編みだしてくる必要がある。(中略)われわれは、大政翼賛会が公定の生活技術、生活方式とでもいったものを制定して、それを国民に圧しつけたら、それで国民の生活がよくなるというような安易な考えを少しも持っていない。そういう技術や方式は国民みずからが生みだしてくるべきものであり、翼賛会の任務は、そのお手伝いをし、少しでもそれを促進することにあると信じている。

こうした意図のもと、開催された「住まひ方研究会」の速記録が本書なのでした。先述したように、研究会開催の直接的な動機は住宅営団の誕生です。

この研究会を開く直接の動機となったのは、住宅営団が設立され、都市の労務者を対象として、向こう五カ年間に三十万戸の小住宅が建築されることになり、その設計が一新聞社の手によって「国民住居」の設計として公募されたという事実であった。(中略)この与えられたものを如何にすれば最もよく活用して、勤労階級の生活を少しでも健全で、明朗な方向に持っていくことができるかという積極的な面に、より多くの関心をもった。

こうした問題意識のもと、研究会には「生活技術」に関連した広範な分野から、第一線で活躍する人物が集められました。そのメンバーは、研究会進行役を担った、今和次郎(1888-1973年)はじめ次のとおり。

今和次郎(早稲田大学教授)
内藤濯(東京商科大学教授)
石川知福(厚生科学研究所教授・環境衛生部長)
小池新二(商工省工芸指導所技師)
大泉博一郎(新日本文化技術研究会)
網戸武夫(新日本文化技術研究会)
大河内一男(東京帝国大学経済学部助教授)
千葉貞子(自由学園教授)
高山英華(東京帝国大学工学部助教授)
井下清(東京市公園課長)
氏家寿子(日本女子大学教授)
小林彰(育嬰会病院長)
大村己代治(厚生省住宅課技師)
市古釣一(内閣印刷局病院長)
市浦健(住宅営団研究部)
関重広(マツダ照明学校長)
西川友武(商工省工芸指導所)
杉山豊桔(東京高等工芸学校教授)

これらメンバーに、大政翼賛会文化部長・岸田國士(1890-1954年)、そして文化部員の小場瀬卓三、小田倉一、山室善子、嘱託・香川綾が同席したのでした。

研究会で議論された「新しい生活技術」

「新しい生活技術」をさぐる研究会で、豪華メンバーが入れ代わり立ち代わり発言した内容の速記録ゆえ、『新生活と住まひ方』というタイトル、しかも大政翼賛会による出版という設定から予想する「あーしなさい、こーしなさい」なお説教はみられません。本書「序にかへて」でもこう言い訳がされています。

何でもいいから、結論だけを手取早く聞かせて貰いたい、そうすればわれわれはそれを実行するんだ、という風に考えている人たちにとっては、本書はまだるっこいものに違いない。しかしわれわれはそういう性急な要望に応えるよりも、本書のようなものを頼りとして国民みずからが自分達の生活について真剣に考えるように仕向け、そういう習慣を養うことの方が、もっと必要で、大切なことだと考えた。

実際、起居様式も坐式か椅子式かが議論されながらも結論には至っていません。それも「日本が現在過渡期にある以上已むを得ぬ」と言います。そんな戦略的・積極的宙ぶらりんのなか、どんな内容が議論されたのでしょうか。目次を以下に拾ってみます。

序にかへて(大政翼賛会文化部)
生活について(岸田國士)

国民文化の新建設と勤労者の住生活

 一、文化問題としての生活の問題-「住まひ方」研究の前提
 二、日本的生活文化の創造へ-勤労者家庭生活合理化の方向
 三、家族精神の発展-生活協同化の意義
 四、地域集団の配置、構成、計画について
 五、住宅営団の計画と労務者生計費中の住居費
 六、建築学会による「住宅指導要綱」について
 七、敬神崇祖、家庭行事

住まひ方の実際問題
 一、「部屋の使ひ方」をどうするか-客間と病室の問題
 二、よき休息のための寝室の検討
 三、子供のためにまた母親の向上のために
 四、椅子式か、坐式か-その採用についての注意など
 五、寝台の利用と窓の開放って寝むこと
 六、寝具について-その数、日光消毒等
 七、家具、生活用具を見直すこと
 八、家庭に大工道具を

家庭における「よき住まひ方」参考として

 一、健康を築く住宅の衛生施設-洗面所、便所、風呂場等
 二、正しい住宅照明とその用具について
 三、寝室装備装飾のこと
 四、冬の住まひ方-暖房と換気のこと
 五、夏の住まひ方-空地の樹木の選び方など
 六、常時清潔を保つ掃除の工夫
 七、着物の扱ひ方-押入の使ひ方
 八、食物、食事の問題
 九、働き易い台所の設計
 十、防空、防火、防犯問題
 十一、庭と屋外の協同的利用について-老人への設備など

「家庭に大工道具を」という節では、たとえば、こんな話題が登場します。

近頃の私どもの家具に対する感覚が鈍いというのも、一つは多く自分で物を作るということに全く携わっていないという、生活の欠陥からきているのではないかと思われます。せめて小さい修繕だけでも、家庭で手がけることができたら、住まい方の工夫もしやすく、家庭も楽しみ深くなるだろうと思うのです。

文化部員・小場瀬氏の説明を受け、戦後、石原裕次郎や長島茂雄の自邸を手掛けた網戸武夫氏は、ドイツのクリスマス・プレゼントは大工道具であること、氏家氏は「子供が自分で作っていく玩具の材料を与える」べきと発言しています。

巻末には、同潤会の住宅課長として活躍した細木盛枝氏から提供があったという「住まひ方注意」が掲載されています。細木氏の資料もいわゆる「住宅管理」が中心となっていて、本書全体が掲げる「住まひ方」が「建て方」とは異なることがミソになるようです。「序にかへて」にある「住まひ方」についての説明は次のとおり。

家の「建て方」という観念は今までもあったし、素人にもわかる住宅建築法というような本も沢山でている。しかし与えられた家をどう住みこなすかということはいままで余り考えられなかった。否考えられはしたが、断片的にであった。例えば掃除の仕方とか、部屋の飾り方とかいった風に、個々別々に取りあげられていた。これを綜合して「住まひ方」といったようなもっと広い見地を開拓することは、新しい試みだといってよい。

新体制運動、大政翼賛会、住宅営団、国民住居・・・こうした動きのなかで、国民の生活がフォーカスされ、それまで各分野で蓄積されてきた研究成果が「綜合」されようとしたのでした。そういえば、この研究会が開催された1941年には、文学、法学、経済学、理学、工学、農学、医学などなどの学会を横断して結集して、「戦時生活の科学化」を目的とした日本生活科学会も発足しています。

大政翼賛会文化部長・岸田國士

『新生活と住まひ方』の冒頭には、大政翼賛会文化部長・岸田國士による文章「生活について」が収録されています。岸田は言わずと知れた劇作家・演出家(図3)です。

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図3 岸田國士(Wikipedia)

余談ですが、ふたりの娘はそれぞれ童話作家と女優の道を歩みます。岸田矜子と岸田今日子です。

この「生活について」の初出は特に記されていませんが、同年に同じく大政翼賛会文化部により編まれた岸田の文集『生活の黎明』(目黒書店、1941)には、おなじ文章が収録されています。それによると、初出は大日本生活協会の機関誌『生活』(1941年8月号)に寄稿されたものだそう ★2。

手元にある岸田國士の小冊子。たとえば『文化の新体制:大政翼賛叢書・第六輯』(大政翼賛会、1940年)や『生活の黎明』(大黒書店、1941年)、『日本人の矜りと嗜み:国民講座』(社会教育協会、1943年)など(図4)。岸田が新しい文化、生活、心構えを積極的に発信していたことがうかがえます。

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図4 岸田國士の小冊子

岸田は没後半世紀を経て、著作権が消失していますので、ちょっと長いですがそのまま原文を転記してみます。「生活」というキーワードを、どういう文脈や語り口で使っているかを感じとることができるかと思います。

なお、収録にあたっては新字新かなに改めています。太字はわたしが勝手に強調したものです。ではどうぞ。

 今日ほど「生活」という問題が世間一般の注意をひいている時代はない。なるほど生活改善、或は生活合理化ということは随分久しい以前から一部の人々の口から叫ばれていたけれども、ほんとうに国民自体の欲求として、また国家の総力を発揮するという立前から、生活の前面にわたって、新しい体制を整えようという気運は、正に大政翼賛の精神からほとばしりでたものであって私は新日本の気高い力強いすがたが、国民みずからの決意精進によって築かれる日がきたことを天に感謝したいと思うものである。
 「生活」とはいうまでもなく「生きること」であって、決して、「食うこと」のみではないのである。「生きる」とはまず日本人として生まれたことの誇りであり、祖国のために役立ち、命を捧げるところの光栄であり、そして、最も清く、正しく生涯を過ごすことのよろこびでなければならぬ。
 東亜の盟主あるわが日本の国風は現在われわれ同胞が如何なる心構えをもて「生活し」如何なる方法をもって、その日、その日を送っているかによって、世界の批判に応えなければならないのである。即ち、国の値打はその国の民衆の「生活振り」によって定まるといってもよく、一国の文化の基礎がまたそこにおかれていることは勿論である。
 国民の生活が高い道徳と必要な知識と、健かな趣味とによって貫かれていたならば、もうそれで、理屈なしに、一流の文化国であり、しかも、同時にそれが国家目的に副うように組織され、訓練されていさえすれば、所謂、高度国防の機能を完全に果し得るのだと思う。
 即ち、かかる「生活」は、勤労を最も能率化し、風俗を醇化し、精神肉体共に溌刺たる国民を作りあげるのである。
 「生活」にはいろいろの面があって、衣食住だけを取りあげてみても、問題は極めて多端である。私は、これから問題の解決と共に、更に「人と人との関係」を生活の重要部分として考えてみなければならぬと思う。
 われわれ日本人は、数十年この方家庭にあっても、社会にでても、この「人と人との関係」を甚だ、おろそかにしてきた。無駄に神経を使い、不必要に相手の感情を損ね、そして、お互いに疲れつつあるのである。
 ここにも、研究すべき「生活の技術」があるということを私は特に強調したい。
 われわれの祖先は、生活に立派な秩序を保っていた。この秩序を、今の時代に適応するように活かしてみたらどうであろう。「たしなみ」という言葉が新鮮な内容をもって、われわれの生活の中に蘇ってくればいいのである。
 生活の科学化という近頃の流行語は、どうかすると、生活改善の一面だけを特に主張するようにとれて、私は少し気になる。生活の科学化と同時に、その倫理化と芸術化が並行して考えられなければ、決して、われわれが理想とする目標に到達することはできないのである。つまり、この三点から生活の新しい体制をうちたてることが、偉大な歴史を通じての日本の「たしなみ」なのである。

国から発信された生活の合理化や科学化といった動きを受けて、その方向性を修正しつつ、第一線で活躍する文化人として、この機会に自身の理想を実現していこうという熱意と苦労がうかがえます★3。

ちなみに、岸田はこの文章を書いてから1年たつかたたない1942年7月、大政翼賛会文化部長を辞任します。なぜ、岸田は大政翼賛会文化部長の職を辞したのか。「翼賛会は赤だ!」という簑田胸喜のキャンペーンで退陣に追い込まれたとか、内閣情報局にいた軍人たちや翼賛会上層部との対立が原因になったとか言われています。また岸田自身、のちにこう後悔を口にしたといいます ★4。

新しい文化を生みだすために、日本の改良が必要だと思った。それは国民のなかから成長するが、上から指導することも一つの方法であり、手段と思った。これが根本的にまちがっていると自覚しましてね。(中略)私たちは文化の再建と国民運動を考えて参加したのですが、結果は官僚勢力の拡張だった。官僚に文化や芸術は判らない、というより、彼らは文化という名で批判を抑制しようとした。

大政翼賛会文化部編『新生活と住まひ方』の初版は、1942年8月5日印刷、8月20日発行。この本が世に出たとき、岸田國士はすでに大政翼賛会文化部長を辞めていたのでした。

実は辞任する前年に、岸田は母を亡くしています。さらに辞任翌月の1942年8月24日には最愛の妻・秋子をも亡くすことに。全国各地へ出張講演して超多忙な岸田を支える過労が寿命を縮めたといわれます。

組織への失望と家族を亡くした失意は、それまでの岸田の「生活」観に変化をもたらしたようです。小さな娘ふたりを守りながらの「新しい生活技術」は、そうそう威勢の良いものではありえなくなったのです。

1943年、戦時生活用品規正展覧会

さて、岸田國士が文化部長を辞してのちの1943年、「住まひ方研究会」による研究成果の一端が展覧会として開催されました。題して「戦時生活用品規正展覧会」(図5)。

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図5 展覧会冊子「戦時下の住まひ方」

心斎橋そごうにて開催されたその展覧会。主催は大阪府、大阪市、大政翼賛会大阪支部、代用品協会大阪支部。後援は商工省。ひょっとしたら、その他の大都市へも巡回したものかもしれません。

この展覧会の出品目録も兼ねる冊子は、そのタイトルを「戦時下の住まひ方」としています。展示企画の担当には、住宅営団、商工省工芸指導所、厚生省生活局住宅課などが参画していて、戦時下にふさわしい住宅=戦時日本標準規格二号型(住宅営団)(図6)とそれにかかわる住生活用品全般を展示した企画だったことがわかります。

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図6 戦時日本標準規格二号型住宅

展覧会主旨は下記のとおり。

大東亜戦争の現段階において対処し戦争の完遂を確固不抜ならしむるためには国民生活の消費を極力規正し皇国の総合戦力増強に必要なる部門に転活用することは刻下緊急の要請である。
従って国民生活の具たる生活用品もまた規正合理化し、実用簡素にして最小の資材をもって最大の機能を果たし、しかも洗練されたる美を保有し物質的にも精神的にも間然なき用具を生産供給することは戦時経済体制の上よりも国民生活の確保の見地よりも極めて重要なことである。

1941年の研究会、そして翌1942年刊行の『新生活と住まひ方』にただよう雰囲気と比べると、やはり状況が緊迫してきた感があります。あるいは、「生活の科学化と同時に、その倫理化と芸術化が並行して考えられなければ、決して、われわれが理想とする目標に到達することはできない」と言う岸田がいなくなった後の大政翼賛会だからでしょうか。

冊子中に掲げられた「戦時『住い方』心得」は次の8項目です。

 一、神棚、仏壇を正しく祀る事
 二、部屋の使いみちを明確にする事
 三、整理、整頓、清掃に努める事
 四、家具は配置を適正に、使いよい物を数少なく持つ事
 五、遊んでいる空間を充分利用する事
 六、防空、待避の備えを怠らぬ事
 七、家庭工作を心懸けて、なるべく自製、修繕に努める事
 八、簡素美と床しい嗜みを忘れぬ事 

「住まひ方研究会」で議論された内容は、カバーする領域や用いられる語句は継承しつつも、「われわれは、大政翼賛会が公定の生活技術、生活方式とでもいったものを制定して、それを国民に圧しつけたら、それで国民の生活がよくなるというような安易な考えを少しも持っていない」という姿勢はすっかり薄らいでしまっています。刻々と悪化する状況ゆえ、そんな悠長なことを言ってはいられなくなったのです★5。

結果、頓挫してしまうことになる「新しい生活技術」、「新しい住まひ方」ですが、敗戦後また息を吹き返し、戦後日本の生活を下支えしていきました。それこそ、研究会での議論は、戦後の新生活運動や、過日書いた「全国友の会」の運動とも確実に呼応しています。

そしていま、「新しい生活様式」と銘打ったムーブメントが、諸分野での蓄積を新しい状況によって加速されながら形づくられていこうとしています。そうした動きへの疑念もまた聞かれます。とはいえ、「新しい生活様式」=大政翼賛会の再来といった構図に飛びつくことは避けたい。「生活」はいつの時代も「政治」と無縁ではなかったし、似ていることでもって「戦時の復活」と騒ぎ立てることは、かえって物事を見えなくさせます。

『新生活と住まひ方』は、議論が散漫で着地点がみえないからこそ、おうち時間の合間に頁を開き、自分の「生活」について考えを巡らせるキッカケになります★6。「結論だけ手取り早く」ではない「まだるっこいもの」を大切にしながら。



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★1|大政翼賛会文化部「序にかへて」、大政翼賛会文化部編『新生活と住まひ方』、翼賛図書刊行会、1942年
★2|財団法人・大日本生活協会は1935年に設立された団体で、衣食住の生活改善を実践・研究した。この協会の拠点となったのが「佐藤新興生活館」で、いまの「山の上ホテル本館」になる。
★3|後に内閣情報局の軍人たちと険悪な関係となり、大政翼賛会を退かざるを得なくなった岸田が、そもそもなぜ文化部長を引き受けたのか。そして、戦争を遂行する帝国日本に対し現状肯定的な発言を率先して行ったのか。大笹吉雄は『最後の岸田國士論』(中央公論新社、2013年)のなかで、岸田の軍人経験に着目する。岸田は元紀州藩士の家系に生まれ、父は軍人。本人も陸軍士官学校を経て少尉に任官。久留米の第48歩兵連隊に配属された経歴も持つ。「国策の基本は否定しない。その心情を裏で支えていたのが、かつて軍人仲間が戦場にあり、戦争を進め、支えているのを実際に見た経験だった」と。
★4|渡邊一民『岸田國士論』岩波書店、1982年。なお、岸田の後悔の弁は、林克也「敗戦期の岸田國士」文学、1953年5月号からの引用。ただし、この岸田の述懐は、あくまで岸田の側からの、しかも戦後のそれであることを加味する必要がある。また、「官僚勢力の拡張」自体が否定されるべきものなのかどうかも、また議論が分かれるところ。いずれにせよ、ここでもまた「結論だけ手取り早く」から距離をとる必要がある。
★5|むしろ「公定の生活技術、生活方式とでもいったものを制定して、それを国民に圧しつけ」るべきだという立場もまた完全否定されるものでもない。待てど暮らせど下からは不明不満か、的を得ない提案ばかりあがってくる状況は、もはや「圧しつけ」るしかない、という決断を促すことになる。緊急事態宣言発令前、新型コロナウイルスへの政府対応が甘すぎるという主張がたびたび見られたことも思い出される。
★6|『新生活と住まひ方』にも登場する、岸田國士の盟友・内藤濯は、岸田に勧められてアンドレ・モーロア『私の生活技術』を翻訳。1941年に白水社から出ており「住まひ方研究会」開催の頃に重なる。「住まひ方研究会」でも「生活の味を無視した類ひの合理化は御免です」と発言している。内藤はモーロアの翻訳に際しUn art de vivreという書名を『私の生活技術』にした理由を序に記している。この本は「結論としての生活技術をわれわれにぶつけているものではない」。「『私の生活技術』『彼の生活技術』『彼女の生活技術』こそ、私たちの持つべきものであつて、万人相手の『生活技術なるもの』を持つべきではない」。だからこそ『私の生活技術』なのだと。じわりと「日本的なるもの」批判が。このあたりのお話はまた機会を改めてnoteに書きたい。

参考文献
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・岸田國士『文化の新体制:大政翼賛叢書・第六輯』大政翼賛会、1940年
・岸田國士『生活の黎明』大黒書店、1941年
・岸田國士『生活と文化』青山出版社、1941年
・岸田國士『日本人の矜りと嗜み:国民講座』社会教育協会、1943年
・岸田國士『力としての文化:若き人々へ』河出書房、1943年
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
・古山高麗雄『岸田國士と私』新潮社、1976年
・渡邊一民『岸田國士論』岩波書店、1982年
・伊藤隆『近衛新体制:大政翼賛会への道』中央公論社、1983年
・杉森久英『大政翼賛会前後』文藝春秋、1988年
・酒井三郎『昭和研究会:ある知識人集団の軌跡』中央公論社、1992年
・竹中作子、福田清人『岸田国士:人と作品 26』清水書院、1995年
・西山夘三記念すまいまちづくり文庫住宅営団研究会『幻の住宅営団―戦時・戦後復興期住宅政策資料目録・解題集』日本経済評論社、2001年
・有馬学『帝国の昭和:日本の歴史23』講談社、2002年
・山森芳郎『生活科学論の20世紀』家政教育社、2005年
・大笹吉雄『最後の岸田國士論』中央公論新社、2013年

(おわり)

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