工業デザイナー・秋岡芳夫のすまい論|住み捨てる習慣の国に生きる
学研の教材を手がけたことでも知られる工業デザイナー秋岡芳夫(1920-1997)。彼が監修した「『悪魔の住居』学」が今は亡き雑誌『ダイヤモンド・ボックス』の創刊号(1980.4)に掲載されています。
なんとも物騒なそのタイトル。「『悪魔の住居』学」であって「『悪魔』の住居学」ではない。秋岡は建築家ではないけれども、すまいについてあれこれと語っていて、自らの工房を設計したりもした人物です。それでは、秋岡のすまい論とはどんなものだったのでしょうか。
昨年で没後20年。あと2年後には生誕100年を迎える秋岡芳夫ですが、ここらで彼の語ったすまいについてちょっとばかり耳を傾けてみたいとおもいます。
『悪魔の住居』学
現在、わたしたちが生活を送る住居が、実は人間性を阻害する「悪魔の住居」であることを数々の事例を上げて紹介しつつ、あるべき住宅設計のヴィジョンを指し示したのが、この「『悪魔の住居』学」です。特集ページ冒頭には次のような謳い文句が掲げられています。
イスの高さに脚を合わせる、部屋の広さに動きを合わせる。便利さの追求が、人間性をむしばんできた。「悪魔の住む」住居・・・・・・これは人間サイズの快適空間にするためのアイデア集
(秋岡芳夫監修「『悪魔の住居』学」1980.4)
記事では人体を無視した規格寸法や、生活を無視した家具配置、無駄の多い空間利用、健康を害する内装材やインテリア計画等、具体例を数多く挙げながら、現代住宅に「悪魔」が棲む状況を辛辣に批判した内容になっています。掲げられた項目は全部で24。住居設計上の勘所を反面教師的にまとめた内容です。
(1)規格サイズ(定尺)のベニヤ板が動きにくい部屋をつくっている
(2)一日の四五分のためにLDKでの生活が制約されている
(3)食卓の肘掛け椅子が休息を妨げている
(4)ヘンな税法が家具の置き場所を限定している
(5)狭い“頭”が部屋をますます狭くする
(6)窓を閉ざした子ども部屋は子どもの発育を妨げる
(7)壁に向かった机は発想を広げない
(8)右袖の机は仕事や勉強の能率を低下させる
(9)明るすぎる照明が心の豊かさを損なう
(10)黒っぽい天井は寿命を縮める
(11)赤い色の部屋は血圧を高くする
(12)天井の低い家に育った子どもは夢も想像力も貧困
(13)室内の“生活音”が音楽鑑賞能力を鈍くする
(14)Pタイルの床は子どもの勉強を妨げる
(15)マンションの壁は人間の肌をいためる
(16)冷暖房にも狂わない家具が生活の質感を狂わせている
(17)Pタイルの床は子どもの皮膚感覚をマヒさせている
(18)毛の長いじゅうたんの生活が足の“個性”なくしている
(19)靴でする散歩は足の裏の美意識をすりへらす
(20)夏に涼しく、冬に暖かいもてなしは客を喜ばせない
(21)大型家具は生活に不便さを強いている
(22)JIS規格には“生活感覚”に対して無神経なものがある
(23)トイレの勝手な解釈が生活を不便にする
(24)マンションのドアが日本人の“優しさ”を奪っている
(秋岡芳夫監修「『悪魔の住居』学」1980.4)
一貫しているのが、人間の特性に配慮し、生活感覚に対応した住空間になっているかどうかを重視する姿勢。この記事に限らず、秋岡はいろいろな場面で人間や生活に密着したすまいのあり方を提言しています。その一端をご紹介する前に「そもそも秋岡芳夫とは」を少しばかりご紹介しておきます。
工業デザイナー・秋岡芳夫
戦後日本を代表する工業デザイナー・秋岡芳夫は、「KAKデザイングループ」や「グループモノ・モノ」等の活動を通して積極的なデザイン・プロジェクトを展開した人物。そして、そこにとどまらず、童画家、木工家、プロデューサー、道具の収集家など多彩な顔を持ったことでも知られます。
冒頭にもふれましたが、学研のふろく教材を長年手掛けたことから、秋岡のことを知らなくても、実はとってもお世話になった人はたくさん。
そんな秋岡を知るには、2011年10月29日から12月25日まで目黒区美術館で開催された「DOMA 秋岡芳夫展:モノへの思想と関係のデザイン」展の図録が文章・ビジュアルともに充実した内容です。
秋岡を中心に結成された有志の集まり「グループ モノ・モノ」は、1970年代から80年代にかけて日本各地で独自の工芸デザイン運動を展開。いまもなおその志は受け継がれています。
また、秋岡はたくさんの著書を残しています。内容も多岐にわたり、デザインに関するエッセイのほか、木工・大工技術や道具に関するもの、食器や等の生活用具に関するもの、さらには竹とんぼを主題としたものにまで及んでいます。
生活道具から木工や大工道具に至るテーマを何度となく論じている彼の姿勢に一貫する、「消費の時代」への批判的視点は、今こそ改めて見直されるべき内容じゃ中廊下、と思う次第。
1920年、熊本で生まれた秋岡ですが、1941年に東京高等工芸学校木材工芸科を卒業後の経歴は多岐にわたります。お役所の技手、日本童画会の会員、デザイングループKAKのメンバー、日本産業デザイン振興会事業委員、グループモノ・モノでの活動、そして、東北工業大学意匠学科教授や共立女子大学家政学部教授など教育者としての活動などなど、1997年に亡くなるまで疾走の人生でした。
そんな秋岡のデザイン全般へのバラエティに富んだ経歴のなかで、住宅や建築分野に関連したものは散見されるにとどまります。とはいえ、生活デザイン全般と住まいは密接に関係しますし、敗戦直後のスタートが東京都の建築課勤務というのもまた興味深い。
あと、晩年の活動拠点であった「ドマ工房」は、秋岡のすまい観の実践として見なすこともできます。かねてより「工房住宅」や「工房生活」を提唱してきた秋岡は、実際に自邸の増改築に夢中になりながら、アトリエとギャラリーを併設した「ドマ工房」を建設しています(1階のドマ工房には土足のまま入り込めることから、その名が付いたそう)。
この工房の設計は秋岡自身が手がけています。仕事場でもあり寛ぐ場所でもあり、また談笑する場でもある空間は、木工作業台や版画プレス機、仕事机、暖炉などに囲まれている。ここにみられる、寛ぐ空間とものづくりが隣接した場としての住まいは、秋岡のものづくり思想において、住まいがどのような位置づけにあるかを示唆しているようです。
秋岡芳夫のすまい論
秋岡が数多く残した著書をあれこれ手にとって読んでいると気がつくのは、何度も何度も繰り返される機械的で画一的なデザインに対する批判です。
秋岡は「「家の量産量費」と「画一化」に僕は猛烈に反対だ」と言い切り、「住宅は、住むものの心の容れ物でもある」として、銘々がそれぞれの住まいに生きることを推奨しています。
また、生活に何が大事なのかを考え、生活において大事なことを実現できる住まいの在り方についても言及しています。その提案の一つが「一室多用」。
一室多用と言えば現在のLDKも多目的な一室。一室多用をねらった部屋ですが、まだLDKには「たたむ伝統」が生かされていないように思います。南むきのスペースに応接セットなり、リビング用の家具なりを置き、中程には食器戸棚と食卓そして椅子などのダイニングセット。そして北むきにキッチン。冷蔵庫・ステレオ・テレビなどが加わって現代の一室多用のLDKは、家具だらけ。
(秋岡芳夫『住 すまい』1977)
そんな視点から導かれるのが、借家への懐疑です。「『ウチ』は家族みんなの成長につれて、都度成長してこそ、『ホンモノノウチ』なので、増改築不可の借家などように、いれものが中身を拘束する『ウチ』なんて、僕にはとても考えられない」と言います。
実際に秋岡自身が、自らの手で頻繁に自宅の増改築を行っており、後年、秋岡の子である秋岡欧は次のように証言しています。
日常茶飯事の模様替え(といっても父自作の家具類を移動するだけでも大仕事なのだが)にはじまり、時には一夜で二間あったはずの部屋の壁がぶち抜かれて大きなリビングになっていたり、そしていざ大工さんに依頼するような増改築を思いついたら、とにかく納得するまで自ら図面を引きまくる。
(コロナブックス編集部『作家の住まい』2013)
秋岡のそんなすまい観ゆえ、住宅産業の動向に対しても徹底した批判を行っています。「工業が技術と資本にモノをいわせ住宅を作ろうとしている。車を作ったときと同じ発想、同じ工業材料、同じ技術でこんどは家を量産する計画を立てている」と。そして秋岡は住宅が使い捨てになると警鐘を鳴らすのです。
日本もいずれ住宅を数年で住み捨てる習慣の国になるだろう。住宅の寿命―耐用年数が車並みに必ずなる。ならぬとメーカーは成り立たぬ。そうなるように、技術を開発する。(中略)これからの建築空間の諸装置は、内部から建物の命数を縮めて行くだろう。そしてマイホームはいずれマイカーと同じ短命の商品になるだろう。(中略)では、そんな短命な『商品住宅』で、一体ぼくらはどんな暮らしをすることになるのか。象徴的に言うなら『霊園のない団地住まい』になるだろう。もし入居者が一生その団地に住みつくつもりなら、団地内に霊園があってあたり前だが、仮住まいのつもりでそこに入居し、また、どうせ仮住まい用なんだとたかをくくって計画するからか、団地には霊園がない。どんなちっぽけな村にも、墓所がある。墓所があって、しっかりしたコミュニティがあった。今の団地には、両方、ない。霊園がなくとも、コミュニティがなくとも、人間は死ぬ時が来れば死ぬ。
(秋岡芳夫『住 すまい』1977)
マイホームがマイカーに近づく。トヨタ自動車がミサワホームを、ヤマダ電機がエスバイエルを買収する時代。そして、スマートハウスの隆盛を知る2010年代の私たちからすると、なんともドキッとする指摘です。
「霊園のない団地住まい」からの逃走へ向けて秋岡は「建売率7割制限」なる不思議なネーミングの提案を行っています。
大工が、建具職などの職方と一緒にこれからもぼくらの町に、これまでのように住み続けてくれることを前提に、「建売率7割制限」の住宅という考えはどうだろう。聞きなれぬはず、建売率なる言葉は、ぼくの造語。従来の建坪率、環境保全がねらいの敷地に対する建坪率を真似た造語だが、たとえ建売住宅といえどもめいめいで個別的であるべきだから画一的に作ってはならぬと規制し、未完成品で家を売りなさいという案である。七十パーセントだけは工場生産してよろしい。残りの三十パーセントは住み手と町の大工の勝手にさせなさいと言うわけ。いかがであろう、この案。住宅のイージーオーダー方式と言ってもいい。
(秋岡芳夫『住 すまい』1977)
この提案は、家を単体の物としてみるのではなく、そこでの生活や、地域社会とのつながりまで視野に入れた秋岡のすまい観が如実にあらわれたものでしょう。「住み手と町の大工の勝手」。いまで言うところの「DIYリノベ」にもつながるコンセプト。ここらで秋岡の言葉に耳を傾けてみる時なのだと思います。
ただ、ちょっとばかり違和感を受けるのが、秋岡の住宅産業批判があまりにステレオタイプ過ぎ、手作り重視の理想が高すぎること。先の引用に「大工が、建具職などの職方と一緒にこれからもぼくらの町に、これまでのように住み続けてくれることを前提に」という断りが入っていますが、すでに「ぼくらの町」に大工・職人は住み続けていない。それと同時に、建てて住む家とて、もはや買って住む家とどれほど「画一的」な度合いに差があるのかも疑問です。
「手作り」を軸にした秋岡芳夫の珠玉の言葉たちは、その滋味を十分に味わう価値がありつつも、その目指す理想像が「旦那の普請道楽」的な高級趣味となるならば、むしろ害悪にもなりかねません。デザインの歴史が延々と繰り返してきた「アーツ・アンド・クラフツ運動」の失敗。大衆の生活向上を目指すデザインが、金持ちの中世趣味に留まるあの失敗を繰り返さないようにしたい。
そう思うと、次のような秋岡の甘美なすまい論も、適度な距離をもった上で、これからの住まいづくりへの珠玉の知恵にしたい。秋岡に敬意を込めつつ、そう思います。
住まいもおおかた、建てて住む家から買って住む家に変わってしまいましたので、注文の家に住むことはなかなか困難になってきました。プレハブ住宅など、工場生産する建物、建具、建材が増えたからです。手作りの技術を持った大工さんが少なくなったからです。手作りの良さは誂えの利く良さだということをみんなが忘れかけているからです。家も、着るものも、食器も、その用と美を誂えて、個性的に暮らしたいとは思いませんか。
(秋岡芳夫『木のある生活』1999)
(おわり)
参考文献
1)秋岡芳夫監修「悪魔の住居学」、『月刊ダイヤモンド・ボックス』、創刊号所収、1980.4、pp.110-119
2)新荘泰子『秋岡芳夫とグループモノ・モノの10年:あるデザイン運動の歴史』、玉川大学出版部、1980
3)目黒区美術館『DOMA 秋岡芳夫 モノへの思想と関係のデザイン』、目黒区美術館、2011
4)佐野由香「秋岡芳夫の「目」と「手」と「言葉」」、『住む。』No.39、2011.11、pp.73-88
5)「秋岡芳夫:増改築を繰り返した目黒の実験室」、コロナブックス編集部編『作家の住まい』所収、平凡社、2013、pp.66-77
秋岡芳夫略年譜
1920年 熊本県に誕生
1941年 東京高等工芸学校木材工芸科を卒業
東京都建築局学校営繕課に技手として就職
1942年 熊本において兵役
1945年 敗戦、復員後、東京都技手、建築課に勤務
1946年 進駐軍家族住宅用家具設計
日本童画会入会 初山滋に師事
デザイン(ディペンデント・ハウス)に参画
1951年 内川芳子と結婚
1953年 KAK結成
1954年 長男誕生
1955年 長女誕生
1956年 東京都のプラスチック技術養成に参加
1957年 JIDA理事をつとめる
1958年 KAKの新しい事務所が完成、次男誕生
1959年 KAK第5回毎日産業デザイン賞受賞
1964年 学習研究社の教材に着手
1967年 FD中小企業デザイン機構
1969年 KAKを離れ中野に事務所を構える
1970年 「会議によるデザインの必要」を考える
1971年 FDで木工塾がスタート
1972年 ショールームを兼ねたショップ誕生
1974年 通産省伝統的工芸品産業審議会委員
1975年 国井喜太郎産業工芸賞受賞
1976年 1100人の会が発足
1977年 東北工業大学意匠学科教授に就任
1978年 第三生産技術研究室を創設
1979年 有限会社モノ・モノ設立
1980年 自宅にドマ工房開設
1982年 北海道立近代美術館『箱で考えるー遊びの箱展』
共立女子大学家政学部教授
1987年 目黒区芸術文化振興財団評議員(~91年)
1991年 「モノの図書館」構想を北海道置戸町に提示
1993年 中学校美術科(木材工芸)の実技指導(~96年)
1994年 北海道置戸町に「どま工房」が開設
1996年 妻芳子とイタリア旅行
国際手游協会(HA協会)の設立を提案
1997年 逝去
資料:秋岡芳夫の「住まい」関連言及
『住 すまう』にみられる住まい関連言及の例
【1】機械のように、科学的に作るのは結構ですけれど、機械的に、型で、画一的に作るのは困ります。住宅は、住むものの心の容れ物でもあるからですから。住まいはめいめいでありたいもの。(p.78)
【2】住まいはむかしながらがいいのです。昼間の街の生活が都市化し、工業化し、合理化し能率本位なものになればなるほど、夜の住まいのはむしろ反対に、むかしながらを保つ必要があります。ぼくらの暮らしの心情はいまもむかしもあいかわらずだからです。穴居時代のようにうすぼんやりとみんなの顔を照らすあかり。たき火のようなあたたかい色のあかりの光。むかしむかしの洞窟時代の原体験が離れがたく、ぼくらの心の片隅にいまも潜んでいるせいでしょうか、住まいのあかりはむかしながらがいいのです。囲炉裏のあかりのような、あかあかとした「点のあかり」が一番夜の住まいにふさわしい。(p.81)
【3】一室多用と言えば現在のLDKも多目的な一室。一室多用をねらった部屋ですが、まだLDKには「たたむ伝統」が生かされていないように思います。南むきのスペースに応接セットなり、リビング用の家具なりを置き、中程には食器戸棚と食卓そして椅子などのダイニングセット。そして北むきにキッチン。冷蔵庫・ステレオ・テレビなどが加わって現代の一室多用のLDKは、家具だらけ。(p.86)
【4】たたみの部屋は夜具から食卓まで、たたむことで狭いけれども広く使いました。しかしLDKは、広いけども手狭です。(p.87)
【5】「これからの日本のLDK用のテーブル」は西欧直輸入のダイニングテーブルやティーテーブルではなくてこれからのLDK中心の生活にマッチした「ワンルームのワンテーブル」が是非欲しい。LDKのまんなかに一つ、どっかと据えて、そこで食事、テレビ、アイロンがけ、そしてお客さま出来る。そんな万能のテーブルが欲しいと思いませんか。(p.92)
【6】考えて見たら靴を履いて食事する国の食卓と、脱いで食事をする習慣のぼくらの国の食卓や食堂椅子が、全く同じ高さであっていいはずがありません。でもなぜ高すぎる椅子テーブルが売れているんでしょうか?もしかしたら家具を買う時にハイヒールを履いたまま描け心地をためして買う女性がいるんじゃあないかしら。(p.92)
【7】LDKと油の蒸気。LDKと家電製品の騒音。一部屋で、リビングとダイニングキッチンを兼ねるのは一見妙案のようだけど、建築構造にも、建材の用い方にも、そして住まい方にも、まだまだ工夫の余地が一杯。(p.95)
【8】『静かな住まいの伝統』を、現代のぼくらの暮らしは受継いでいません。気がついていないのかも。静かな住まいの有難さを。(p.96)
【9】お互いに軒を接して住んで見ると、お隣さんのクーラーのお尻が、こちらの居間の真正面に見えたりすることがあります。むし暑い夏の一日、目の前で隣のクーラーの騒音、うるさくて窓が開けられないなんてこともあります。かと思うと、狭い露地でムッとするような排気をクーラーに吹きつけられて不愉快な思いをすることもしばしば。クーラーの使用者が「裏」だと思っている側が、実は通行人やお隣さんにとっては「表」なのです。ですから、裏のデザインや排気音や排気の処理に、もっともっと神経を使ってほしいものです。
クーラーは、コミュニティの道具としてまだまだ不完全ですが、近頃、排気音の大変低いクーラーも出廻り始めました。隣近所や通行人のことも考えて、裏から出る音の静かなクーラーを探し出して買うことがこれからの豊かな暮らしのデザインと言えるでしょう。暮らしのデザイナーは、もちろんあなた。(p.101)
【10】ぼくらは来る日も来る日も猛烈な量の水を消費しつづけています。水を、文字通り湯水のごとく使っているのです。でも、あれは天然の水ではなくて、加工した人工の水なのです。山の水、川の水、雨の水をやっとかき集めて貯めて、浄水した加工水なのです。飲料水なのです。それをトイレに使っている。
いま大都会では地下水が枯渇しはじめています。地盤沈下現象で、それが証明されています。もう開発する水資源も乏しい。それほど遠くない将来、いや近々、オイルショックをうわまわる水ショックがやって来ます。家庭の節水がいま絶対必要。まずはトイレの水洗に飲料水を使うのを止め、出来ることならジェット、新幹線なみの水循環方式のトイレに急ぎ改めるべきです。(p.106)
【11】焼けあとの取片づけに多額の賃金のかかるような造りの家、塗家はご法度(天保年間まで)と、経済のことだけを考えて焼家に規制してあった徳川中期の住まいと、いざと言うとき、タンスもテレビも持ち出さない現代の高層化した住まいと、さて一体どちらの住まいがどうなのでしょうか。家を建てるときの経済だけを優先させている点で両者は共通しています。そして住むものもいざと言うときのことはあきらめて暮らしている点も昔とちっとも変っていません。住まいの構造を、いざという時に生活用具を持ち出せるよう、改められないでしょうか。それとも家も家財も捨て、身一つで難をさけるのが、これからの利口な都市生活なのでしょうか。(p.111)
【12】現代の車ダンス―自家用車でみんなが一斉に逃げようとしても車に引火でもしたら?現代の車ダンスはまだ非常の際の使用を禁止されていないのです。(p.111)
【13】『ウチ』は家族みんなの成長につれて、都度成長してこそ、『ホンモノノウチ』なので、増改築不可の借家などように、いれものが中身を拘束する『ウチ』なんて、僕にはとても考えられない。(p.113-114)
【14】こんどはその工業が技術と資本にモノをいわせ住宅を作ろうとしている。車を作ったときと同じ発想、同じ工業材料、同じ技術でこんどは家を量産する計画を立てている。良い面が表裏一体できっと出てくる。『家が安くなる、住宅不足が解消する』が予測できるいい面で、『住宅が使い捨て、いや住み捨てモノになる。』が悪い面の予測だ。(p.115)
【15】工業技術、工業材料によるモノの量産は使い捨てを前提としてしか成り立たない。
「家の量産量費」と「画一化」に僕は猛烈に反対だ。(p.116)
【16】日本もいずれ住宅を数年で住み捨てる習慣の国になるだろう。住宅の寿命―耐用年数が車並みに必ずなる。ならぬとメーカーは成り立たぬ。そうなるように、技術を開発する。(p.119)
【17】これからの建築空間の諸装置は、内部から建物の命数を縮めて行くだろう。そしてマイホームはいずれマイカーと同じ短命の商品になるだろう。(p.120)
【18】では、そんな短命な『商品住宅』で、一体ぼくらはどんな暮らしをすることになるのか。象徴的に言うなら『霊園のない団地住まい』になるだろう。もし入居者が一生その団地に住みつくつもりなら、団地内に霊園があってあたり前だが、仮住まいのつもりでそこに入居し、また、どうせ仮住まい用なんだとたかをくくって計画するからか、団地には霊園がない。どんなちっぽけな村にも、墓所がある。墓所があって、しっかりしたコミュニティがあった。今の団地には、両方、ない。霊園がなくとも、コミュニティがなくとも、人間は死ぬ時が来れば死ぬ。(p.120-121)
【19】万年道具をオートメーションで量産することは、工業の自己矛盾だ。霊園つきの団地に一生涯住まわれたら住宅産業は成り立たない。アメリカ式の団地ごとの住み捨てこそ住宅産業の願いなのだろうが、だが一体、住宅とはぼくら生活者にとって本質的には何なのか。(p.123)
【20】かつて家は、買うものではなくてめいめいに建てるものだった。個性的に、創作して住むものだった。人間の家は小鳥の巣と違い一生の道具だった。だが、現在の工業は、家をめいめいに作れない。一生の道具にも作れない。技術的には作れても、経済がそれを許さない。(p.124)
【21】大工が、建具職などの職方と一緒にこれからもぼくらの町に、これまでのように住み続けてくれることを前提に、「建売率7割制限」の住宅という考えはどうだろう。聞きなれぬはず、建売率なる言葉は、ぼくの造語。従来の建坪率、環境保全がねらいの敷地に対する建坪率を真似た造語だが、たとえ建売住宅といえどもめいめいで個別的であるべきだから画一的に作ってはならぬと規制し、未完成品で家を売りなさいという案である。七十パーセントだけは工場生産してよろしい。残りの三十パーセントは住み手と町の大工の勝手にさせなさいと言うわけ。いかがであろう、この案。住宅のイージーオーダー方式と言ってもいい。(p.125)
『木のある生活』にみられる住まい関連言及の例
【1】拳に正常な皮膚感覚を育てるのには、赤ん坊の時代にはわせることが必要なのでしょうか。
赤ん坊が喜んではうかはわぬか。実際にはわせてみましたら、畳の部屋ではうれしそうにはった子が、プラスチックスの床の部屋でははいたがりませんでした。
住まいの床はお座敷犬向きのがいいのでしょうか。それとも赤ん坊好みの床のほうがいいのでしょうか。(p20)
【2】今の日本人は住まいの床を三つもっているともいえそうです。
玄関・ベランダのような靴を履いて使う土足の床と、居間のようなスリッパで暮らす準土足の床と、畳の部屋のような素足の部屋の三つの床を。この三つの床のうちで伝統的な「座」の機能をもった床は畳の床だけです。(p27)
【3】今のLDK。リビングとダイニングとキッチンを兼ねる一部屋ですから、さしずめ現代版の茶の間といったところ。一室で居間、食堂、台所を兼ねるねらいは、昔の茶の間そのままですけれど、さて部屋の中に置いてある家具にどれだけのたたむ伝統が活かされているでしょうか。
せいぜい一~二脚の折畳椅子とバタフライ型のダイニングテーブルがたためるくらいで、あとの家具はぜんぶ折畳めません。いつもそんな家具が部屋を占領していて、手狭なのが今のLDKなのです。(p29)
【4】一部屋を茶の間、仕事部屋(裁縫)、食堂と使い分けた昔の一室多用の知恵をテーブルに応用し、一机多用な食事、裁縫、読書、お茶、そして仲間とゆっくり一杯やるのにも便利なテーブルに、その高さを工夫し直したらどうでしょう。うまく工夫した一机多用のテーブル一つだけで暮らせば、LDKは広々とした一室多用の部屋に機能するかもしれません。
一つのテーブルでお茶も楽しみたい、親しい仲間とゆっかり一杯やりたい、そして、食事を家族そろって楽しくやろうと、そう思うなら、テーブルの脚を短くしたらいいんです。(p30)
【5】一個でもいい、部屋から家具を取除く。取除くためにはまずダイニングテーブルを一机多用に工夫し直す。そうすることが日本の住まいの伝統を受け継ぐことになると私は思っているのです。(p32)
【6】よく大は小を兼ねるといいますが、椅子の座の高は低を兼ねません。男寸法の椅子には女は座れませんが低は高を兼ねます。低目の女の椅子に男は十分座れるのです。家庭用の椅子の座高はぜひ女寸法にしたいものです。(p35)
【7】休息、軽作業、食事に兼用できる椅子、リビングダイニングチェアーの具備すべき要件はまず素足やスリッパ向きに低めであること。座が広くていろいろな姿勢で座れること。ハイバックでないこと。肘がないこと、となります。(p36)
【8】現在の桐ダンスの一段は、中身が空の場合ですと女一人で軽々と持てます。中に衣類が入っている場合でも、二人なら持ち運ぶことができます。女一人で持てる重い物の限界は二〇キロだといわれていますが、桐ダンスにはそんなデータも考慮にいれて、女ものにふさわしく「重量デザイン」がしてあります。といわけで、三段重ねの桐ダンスは、「女もの」なのです。(p42)
【9】お盆やお膳に、女のモノサシで測ってほぼ一尺幅のものが多いのは、女たちが持ちやすくて運びやすいようにお盆・お膳を、女のモノサシで測って選んだからだろうと思います。
ちなみに、靴を脱いで使う女の椅子の座の高さも、鯨尺で測ってほぼ一尺です。横座りふうに腰掛けたときに肘をもたれるのにも具合のいい椅子の背の女向きの高さもまた、女のモノサシでほぼ一尺なのです。(p53)
【10】住まいも入歯のように本来なら、大工に誂えて、個別に、個人別々の暮らしに合わせて作るべきですが、最近は既製品の建売住宅が増えています。住まいを自動車のように、画一的に作っていいのでしょうか。住まいは土地土地で風土別に、個人個人個別に、大工の手作りで作るべきだと思います。(p174)
【21】民芸品と呼んで今なお多くの人々に愛され続けている一連のかつての生活道具の「民芸品の用と美」は、使い手の生産参加のつみ重ね、ユーザーデザインの結晶なのです。不特定の、「使い手のデザイナー」の数々のデザインがあの用と美作りにあずかっていたことは見逃せません。(p178)
【22】男と女の箸を性別にデザインしたのは、誰なのでしょうか。作り手の工夫のなのでしょうか?使い手の誂えだったのかもしれません。あるいは使い手が買い物の際に選別した結果なのかもしれません。要するに、使い手の「買い物のデザイン」の結果だろうと思います。(p178)
【23】住まいもおおかた、建てて住む家から買って住む家に変わってしましましたので、注文の家に住むことはなかなか困難になってきました。プレハブ住宅など、工場生産する建物、建具、建材が増えたからです。手作りの技術を持った大工さんが少なくなったからです。手作りの良さは誂えの利く良さだということをみんなが忘れかけているからです。
家も、着るものも、食器も、その用と美を誂えて、個性的に暮らしたいとは思いませんか。(p179)