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未来を育む格納庫|清家清「うさぎ幼稚園」と軍事技術の民生転用

ネスカフェ「違いのわかる男のゴールドブレンド」は「建築家」という職能と「清家清」という人物を一気に有名にしたCM。第8代目を担った清家バージョンの放送は1976年らしく、記憶にあるはずないのに、なぜかCMを見た「記憶」があるのに驚きました(図1)。

図1 違いがわかる清家清

でも、もっと驚いたのは、清家清自身が実は酒・タバコだけでなく、コーヒーも飲まない人だったということ。なんじゃそりゃ。というか、酒を飲まない清家が、東京工業大学教授だった建築家・谷口吉郎のもとで助手がよく務まったなぁ、とかは余計なお世話か。

谷口先生にもらった初仕事

戦争からの復員した清家は、1946年、東京工業大学助手、翌年には講師、さらに次の年には助教授となりました。谷口吉郎のもとで助手を務めていた清家は、谷口の娘が通う幼稚園の設計を任されます。これが建築家・清家にとっての初仕事「うさぎ幼稚園」(1949)(図2)となります。

図2 うさぎ幼稚園

ちなみに彼を一躍有名にした「森博士の家」(1951)も元々は谷口吉郎に設計依頼が来たものを、清家に回してくれたことから関わったものでした。

清家は洗足に建つ「うさぎ幼稚園」をキッカケに、大井の「第二うさぎ幼稚園」(現・大井うさぎ幼稚園)の増改築や園長の自邸である「島沢先生の家」(1962)も設計したほか、清家の4人の子どもすべてが「うさぎ幼稚園」に通ったといいます。

建築作品としての「うさぎ幼稚園」

この「うさぎ幼稚園」が園舎新築へと至った背景には、太平洋戦争に伴う強制疎開や園舎の焼失といった太平洋戦争の爪痕があります。幼稚園が一時移転先としていた洗足の借間が立ち退きを迫られたため、近所に土地を購入し、そこへの移転・再開が決定したのでした。

そして、大谷石のエントランス、かまぼこ型のボールト屋根、といったユニークな新園舎が清家の設計によって完成します(図3)。

図3 うさぎ幼稚園

清家自身、この園舎について次のように説明しています。

決していい建物ではないがいくらかは変わった建物という程度。資金の都合でまだ遊戯室と便所、手洗所だけしか建っていない。約10ヶ月現場の空地でスパン方向には実物大、桁行は6尺の実験的な屋根を作り砂約10糎を載せてみたりして安全さを確かめてから着工した。大切な幼児をあずかっているのだからあまり新奇な設計はしたくないのだが、幼稚園の商業的な宣伝目的には合致しているので、園長先生のお気には召している。
(清家清「設計者のことば」、新建築、1950.4)

なお、竣工直後の1949年8月末から9月初日にかけて関東を直撃したキティ台風にも被害ナシだったとのこと。清家にとって建築設計の第一作目となる「うさぎ幼稚園」の設計にあたって、清家は前職での経験を活かすことになります。その前職とは海軍の技術将校です。

海軍技術将校・清家清のW工法

戦時中、海軍の技術将校となった清家は、格納庫の設計に従事します。

ともあれ訓練を終えて、神町航空隊/現在の山形空港の格納庫の設計が、私の処女作となる。地形を利用したカムフラージュもあって、各棟少しは異なっているが同じ設計で二九棟も建てた。のち、建築士法施行に際し、建築士の資格は建築面積で決まったから、この格納庫のおかげで私は無試験で一級建築士にして頂けた。
(清家清「ケ・セ・ラ・セ・ラ」1988)

実は建築設計第一作目は「うさぎ幼稚園」ではなく「格納庫」だといいます。この「格納庫」の設計で培った「W工法」なる技術が、この第二作目たる「うさぎ幼稚園」でも活用されているのです。

海軍で使っていたW工法というのがあったが、その施工法に準じ、仮設の母屋を定規にして殻を形成してある。殻を張り終ってから母屋はとりはずされる。
(清家清「設計者のことば」、新建築、1950.4)

そうしてできたのが、この遊戯室の空間です(図4)。

図4 W工法でつくられた遊戯室

後に野沢正光と対談した「建具と格納庫」(建築知識、1989.1)では、清家の建築設計において「建具」が重要な役割を持つことを披瀝しながら、次のように語っています。

さらにもっと、清家清のオリジナルコンセプトについてのパフォーマンスをお話しすると、私は帝国海軍のときに、格納庫を29棟建てたんですよ(笑)。そのおかげで、戦争が終わってから、一級建築士の試験を受けないで―面積何平方メートル以上かを設計すると、無試験で一級建築士がもらえたんで―一級建築士になっちゃったの。それが原因だという説もあるんですよ、オープンプランの(笑)。間仕切りがないんですね。建具だけなんですよ。格納庫というのは間仕切りがなくて、建具だけだから。
(清家清「建具と格納庫」1989)

1950年代に日本の住宅設計を牽引した清家の基本コンセプト「ワンルーム」のルーツに、海軍で携わった格納庫の設計経験があるというのです。いってみれば「格納庫」という軍事技術が「幼稚園」へと民生転用されたのが「うさぎ幼稚園」なのです。

まだ戦争の記憶がしっかりと残っていた1950年前後。考えてみれば当たり前ですが、共有されていたのは、戦争の悲惨さだけでなくって軍事技術もまた共有されていたのだと気づきます。

未来を育む格納庫

野沢正光との対談はさらに次のように続きます。

それで、何の格納庫かというと、住宅は生活の格納庫なんですよ。家族の格納庫なんです、住宅というのは。家族のメンテナンスだとか安全、気候・風土からどのように保護するかというのは、格納庫の中であるわけです。だから、格納庫のコンセプト、要するに家族のコンセプト、家族のパフォーマンスについて、性能をどのように維持するかということについての格納庫だと、今でもそう思っています。
(清家清「建具と格納庫」1989)

いってみれば、幼稚園というこれからの未来を背負って立つ園児たちの格納庫が「うさぎ幼稚園」だったということ。それは、未来を育む格納庫。

ただ、清家清という人は、ネスカフェのCMで「違いがわかる男」と称しながらも、実はコーヒーを飲まない人でした。清家の弟子・林昌二がそれを証言しています。

先生はコーヒーは飲まれませんでしたし、コーヒーばかりでなく、酒も煙草も一切嗜まれなかったことを考えると、厳しい戒律を自らに課しておられたのです。ゴルフ、マージャンなど、俗人の好む趣味には縁のない方でもありました。
(林昌二「清家清先生を思う」2005)

そういう清家だからこそ、自分のワンルーム志向は海軍にルーツがある、というよくできたお話しは、話半分で聞いておく必要があるのでは中廊下、と思ってしまいます。実際、別の場所では次のように書いています。

その後、私の住宅作品がワンルーム型と言われるのは、要するにデザインコンセプトが格納庫と同じ発想であるからだ。冗談はさておき、戦局は進展、内地の空襲の必至、格納庫だけでなく、兵舎、病舎などの掩体や遮蔽を進めたりして、私と出会っているハズの「建築」はそのジャンルから逸脱してくる。
(清家清「ケ・セ・ラ・セ・ラ」1988)

ん???、「冗談はさておき」とおっしゃいました?もっと混乱することに、建築家・中村好文は、清家のワンルーム型について、別のルーツを清家が語っていたと証言しているのです。

この家は室内から庭まで石貼りの床が繋がっているので靴のまま出入りができて便利だったけれども、枯れ葉や、砂ボコリや、虫なんかも遠慮なく入って来ちゃうので困った。どうかすると犬なんかもどんどん入ってきちゃうんだ・・・・・・で、これがホントのワンルーム!
(中村好文『住宅読本』2004)

さて、ワンルームのルーツ、どちらが本当なのか、あるいはどちらも冗談なのか・・・。

(おわり)


図版出典
図版1 ネスカフェ・ゴールドブレント広告
図版2~4、トップ『新建築』1950年4月号、新建築社

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