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「居酒屋ディスタンス」─バーテンダーの視(め)

 慣れない新しい職場の、慣れない事務仕事を終えて、特にバタバタと動き回ったワケでも無いのに、ヘトヘトになりながら最寄り駅の通勤路にしている繁華街を歩いていた。

 世間は今まさに感染症の脅威が落ち着き出してきているが、まだまだ元の賑やかさを取り戻すには至らない。

 いつもいる強面でとても客引きの出来なそうな立ちんぼお兄さんや、マスクを付けながらもタイトな身体のラインがしっかりと出るような制服を着た猫背のお姉さんも、さすがにそういうお店が休みになっているのか見かけない。

「へぇ……、この街にもこんな閑散とした顔があったかぁ」

 マスク越しに独り言を呟いて、ふと自分で可笑しくなってしまった。自身が自粛中の客商売がゆえ、今までは週に6日間をずっと接客で過ごしていたと思えば圧倒的に言葉を"発音"する機会が減っている。今日もお昼ご飯を買った際に、「袋は要りません」と発しただけである。会話ですらない。不思議な事に話さないもいうのもストレスになっているのだろう。こういう時は独身である事にも、ふと思いを馳せてしまう。

「どっかやっていて、そこにお客さんが全然居なかったら、久しぶりに飲んで帰るかぁ」

 本日3個目の発音をポツリ。あぁ、嫌になっちゃうわと思っても、脳の静止を待たずして言葉が口から漏れ出している。ここまでくるとコンビニの缶ビールではスッキリ寝る事は出来なそうだ。 

 最も店が密集している大通りを過ぎて自宅へ近づくにつれ、何処からか祭囃子が聴こえてきた。こんな公園ない繁華街で何故? っと思ったが答えはすぐにそこへあった。換気のためか入り口を全開にしているため、居酒屋でかかっている音楽が外へ流れていたのだ。

「あー、ここ行ってみたかったんだよな。観えるカウンターに座ってないし入ってみるか」

 本日4個目の発音を済ませ、光へ誘われる虫が如く、スィっと店内へ足を踏み入れた。

「ぃらっさっせーぃ」

「あのぅ、1人なんですが……」

「はぃ、おひとりさまぁ。空いてるカウンターどうぞぉ!」

 もう朝から15時間ほど活動しているが、初めての会話(?)である。こんな初対面のオジさんから受ける接客会話ですら僕にとって貴重なストレス軽減材料だ。

「ハイボールと、おまかせでおでんを5品ください」

「かしこまりっしたぁー」

「あ、それとマグロぶつ。とろろ付きで」

「かしこまりっしたぁー」

 オーダーをして返事がきて、料理が出てきて……、こんな当たり前ですら嬉しくなるとは、1か月以上も外飲みをしていないとヒトは簡単に価値観が変わる。

 そうして調子に乗ってきて、ホッピーセットを頼むついでに、何時まで営業してるんですかぁー? などと無駄にコミュニケーションを取ってみたりする。

 BARで飲む時は話したい気分なのだが、居酒屋では別。慣れた店でもあまり話したくならず、店長さんあたりが親しげに絡んでくるようになったら足が遠のく天の邪鬼なのだ。

「うちぁ、23時までですねぇ」

 あらまぁ剛毅なコト。自粛期間でも小さなお店なら、意思を貫くのはそれはそれで必要なのかもしれない。こちらも疲労困憊の身だ。ここが開いていなかったら翌日へ向かう気力がなかったかもしれない。ただ、「お店をやっていてくれてありがとうございます」はこの時敢えて発音しなかった。親しくなってしまうとそれはそれでまた来づらくなる。

 家でお酒は浴びるほど飲んでいたとはいえ、環境が違うとまわりやすくなるのかホッピーの"中"を頼む頃には酔いも良い感じ。後半はコミュニケーションでの感動も薄れたので鞄から本を取り出し、それに没頭していた。

 1時間以上も日常に触れれば、ヒトは簡単に価値観が戻る。


 

『バーテンダーの視(め)』はお酒や料理を題材にバーテンダーとして生きる自分の価値観を記したく連載を開始しました。 書籍化を目標にエッセイを書き続けていきますのでよろしくお願いします。