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「想いのスプリッツ」─バーテンダーの視(め)

 2年間の海外留学へ行っていた1つ下の幼馴染から連絡を受け、帰国後の日本での引っ越しを手伝った事があった。一通り任された力仕事を終えてヘトヘトになっているところで、今回のお礼にご飯をご馳走してくれると言うので一緒に新居周辺の散策へと出掛けた。

「それで、イタリアはどうだったのよ?」

「うーん……あまり金銭的には自由じゃなかったから、観光地を巡ったりはあまり出来なかったんですよ。ただ、キャンパス内に在学生が運営する安いBARがあったからそこへは毎日のように通ってました!」

 彼女が最寄りの駅前で見つけた小洒落た居酒屋へ入りさっそく注文をしながら、お互いの近況報告会が始まった。

「向こうの若い人達は集まると、立ち飲み屋みたいな所で1杯飲んでからトラットリアやピッツァリアに行くんですよ。アペリティーボって言うらしいです。」

 へぇ、食前の乾杯ってワケねぇ。そういえば仕事先のシェフに欧風料理の基礎を習った時にも、フランスに"アペロ"と云う文化があるのだと教えられた。どちらも食前酒を指す言葉ではあるけれど、お酒を絡めたディナー前のティーパーティーなども意味合いとして含まれるらしい。

 2010年頃にスペインバルが大流行りした事も、ピンチョスをつまみながらカヴァを楽しむというようないわゆる"ちょい呑みスタイル"が日本の若者には新鮮だったのだろう。その後は皆さんもご存知の通りハイボールブームが来て、食事食事せずに軽く飲んで帰るというスタイルが定着する事になる。

「アペリティーボといえばスプリッツじゃない?」

「そうそう!良く知っていますねー。オレンジたっぷりなやつ、好きでした。」

「あぁ、今は2年前にやっていた仕事は辞めてバーテンダーやってるからね。」と言うと、一瞬目を丸くしたが彼女はあまり驚かなかった。そんなに意外ではなかったらしい。

 『スプリッツ』はドイツからその元となる飲み物が渡ってきた。それでなのか、はたまたイタリア人の寛容的な国民性の表れなのかレシピがしっかりと定まっておらず、アペリティーボするお店によって味が違うのだそうだ。そこもまた楽しむポイントの1つで、現地の酒販メーカーの発表するレシピを読んでみても

「氷をたっぷり詰めたグラスへ"プロセッコ"か"辛口の白ワインと炭酸水"を入れ、その後に国を代表する赤い薬草リキュール"アペロール"か"カンパリ"を注ぐ。オレンジの果肉で飾り、ストローを付ける場合もある。」と云う見事なフレキシブルっぷりである。白ワインのソーダ割り『スプリッツァー』はこれが元になっているのだけれど、薬草リキュールとオレンジなどが入っていない。世界に広まる過程でグッと簡略化されたようだ。

「それなら案内するから、来月は都内のBARにでも一緒に行こうか。」

「あー……来月は"彼"が帰国する予定だから、国内旅行に行く予定なんです。」

「えっ?あぁ……そういう事なら仕方がないね。お土産でも楽しみにしているよ……」

 特に気にしないようにしていた話題ではあったのだが、そこから向こうで出来た初めての彼氏の話やもろもろの初体験を終えた話などを嬉々と聞かされて解散する頃には引っ越し作業の時よりもヘトヘトになっていた。彼女も薄々は感じていたの思うのだけれど、僕の長く淡い片思いはそこで終わりを迎えてしまったのだった。

 スプリッツの甘くて苦い優しい味わいを口にするとその時の事をふと思い出すことがある。幼馴染と結ばれるなんていうのは、映画か漫画か、とりあえず現実にはほとんど起こらない事なのでしょうかね。


『スプリッツ』

・プロセッコまたは白ワイン+炭酸水 適量
・アペロールまたはカンパリ 適量

氷をたっぷり詰めたグラスへ材料を注ぎ、オレンジスライスとストローを添える。

『バーテンダーの視(め)』はお酒や料理を題材にバーテンダーとして生きる自分の価値観を記したく連載を開始しました。 書籍化を目標にエッセイを書き続けていきますのでよろしくお願いします。