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[note40]大学は選ぶ場所

大学全入時代と大学の変化

ハロウィンの10月31日の朝日新聞に以下のような記事が掲載された。
18歳人口の減少が大学全入時代の到来は数年前から想定されていた。
昨今の経済情勢、社会情勢は理解した上で率直な感想をまとめてみた。

記事の後半に出てくる「倍率が下がり、大学に受かりやすくなった。選ばなければ大学に入れる時代。今後も浪人生は減少を続けるだろう」という一文が何となく気になった。大学は偏差値(もちろんその他にも様々な評価基準は存在する)をベースに序列化されている。それが生徒たちにとって最も分かりやすい指標であることは、実は今も昔も変わっていない。

選ばなければ…!?

現在、自分が向き合っている生徒や状況を含め、様々な条件を一旦、排除して考えた時、「あれ、大学って選んでいく場所だよね?」という疑問に突き当たる。選ばないで大学に行くというのは、その時点で自ら主体的に学ぶスタートラインを放棄しているともいえる。もちろん、全ての生徒が希望する大学に進学できるわけではない。悔しい思いをして入学する生徒、入学して再チャレンジする生徒、もう1年受験生活に挑む生徒など様々なである。そうした生徒を毎年のように見ている。しかし、そこには常に「自分の主体的な意思決定」が存在するはずだ(存在して欲しい)。こうしたことからも「選ばなければ大学は入れる」という風潮にはある種の危機感を感じる。

序列化された大学

受験生ならば一度は聞いたことがある旧帝大、早慶上理、GMARCH、関関同立…これらはいわゆる最難関、難関大の頭文字をとって総称したカテゴリーである。調べたところMARCHという言葉は1960年代からあるとされ、生徒にとって1つの分かりやすい目標となってきた。これ以外にも大学をカテゴライズする言葉は多々存在する。これに対して、生徒が志望校から外してくる大学も存在する。最難関、難関と呼ばれる大学には、それなりの理由、歴史、経営努力、教育内容が存在することは事実だ。より高いレベルを求めて努力した生徒達が集まる環境という付加価値もあるだろう。そこを否定するつもりは全くない。しかし、1960年代に始まった、この序列が現在でも当然のように用いられていることには多少なりとも違和感を感じる(そういう自分も進路指導担当として日常的に使ってしまっているが…)。「最低でもGMARCH」といった言葉を聞くこともあるが、「それはなぜ?」と問う時に出てくるのは大学の社会的評価であることが多い。それが、就職等に繋がる現実を考えると生徒を責めることはできない。また、学校も進学実績というを求め、それが学校の評価につながるという循環に抗うことが難しい面があることも事実だ。

面白い大学の存在

進路指導部に属していると、「この大学、面白い教育をやっているな」、「徹底した少人数で育てたい学生のビジョンが明確だな」、「この大学、なぜもっと評価(という言葉は適切ではないかもしれない)が上がらないのかな」と思う大学に多々出会う。大学の担当者と交流することの多い自分は余計に感じるのかもしれない。先日もある大学が主催する研究会に参加した際に、その方向性には大きな関心を抱いた。勤務校から受験する生徒はいないかもしれない。けれど大学の紹介資料をぜひ、いただきたいとお願いした。
偏差値やカテゴリーで序列化された大学群には存在しないが、更にステップアップする生活を送ることができるのではないか?と感じる大学は確かに存在する。大学の担当者には「もっと、広報して魅力を広めて下さいよ」と冗談交じりで話すこともある。

何を大学に求めるのか?

高大接続が叫ばれて久しい。高校でも探究学習、主体的な学びという観点が入り、より大学に近い教育のあり方が模索されている。生徒達には大学には大学をゴールと捉えて欲しくはないし、今の時代はリカレント教育の時代だ。今後は大学で学び、社会に出て、必要を感じて再び大学や大学院で学び直すといったことが、かつてよりも一般的になってくるだろう。だからこそ「大学は選ぶべきだ」と思っている。カテゴリーや序列ではなく、その大学で自分はどう成長できるのか、どんな自分になることを期待できるのか、そうした観点から大学を選択することも重要になる。
全入時代だからこそ、生徒達には「自分の思い」を大切にして欲しい。そんな思いを抱えながら、今年も大学入試シーズンが本格的にスタートする!!


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