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[note43]授業見学の旅その①続く?

授業を学びに茨城へ

会議がなかった先週の火曜日、藤牧朗先生の授業を見学させていただくために茨城へ出張しました。もともと、藤牧先生の授業については、その概要は知っていたものの、実際にLIVEで見たのは初!きっかけは自分も寄稿させていただいた「学びとビーイング」(りょうゆう出版)を読んで、改めてLIVEで参観したいと思い立ったためです。学ぶことが多かったこともあり、今回の[note43]は少し長めになりました。宜しければお付き合いください。

LIVEで参観することの意義

今回は中学2年生の授業(地理)を2コマ参観させていただきました。LIVEで見ることの意義は、その教室の空気や生徒の様子をダイレクトに感じることができること。今は色々な手段で全国のエキスパートの先生方の授業を見ることができ、とても便利になったけれど、映像として見る教室と自分の目で見る教室はやはりどこか違います。多忙な日々の中で、そうした機会を作ることは難しいかも知れないけど、可能ならLIVEで参観させていただくことをお勧めします。藤牧先生は「同じ内容だからつまらないかも!」と事前におっしゃっていましたが、基本の流れは似ていても、生徒の反応やそれに対する教員の働きかけなど別ものでした。それがLIVEの醍醐味です。

参観メモ

既に藤牧先生がnoteで私の感想を紹介して下さっていますが改めて自分なりのまとめ(学んだこと、自分なりにアレンジしてみようと思ったこと)を記しておこうと思います。

ICT×アナログ(ここは最近の自分の拘りでもあります)

今年に入り、PadletやCanva、Googleのツール、テキストマイニングなどを使って生徒の意見共有を意識的に行ってきましたが、アナログに偏っていることに若干の懸念を感じていました。今回の授業ではロイロノートを使って教科書を自分なりにまとめ、それを相互に説明する場面がありました。拝見していて、「教科書の丸写しのようにならないのかな?」「教科書を読み変えるだけにならないのかな?」というのが最初の疑問…。
まとめ方は生徒に委ねられているから、箇条書きにしたり、文章でまとめたり、チャートのような図解にしたり、色々な個別学習が期待できそうです。
しかし、今回のポイントは「自分の言葉で伝える」ことにありました。画面を相手に見せながら(ここもポイント)、声に発するということ自体が個別学習につながるということです。「相手に伝える」ためには、少なからず工夫をしなければなりませんし、人は自然とそのような意識を持つものです。ここではまとめること以上に「人に伝えること」に力点が置かれていると感じました。
★自分なりに★
特に重要だと感じたことを何らかの形で強調して、まとめるというオーダーを出しても面白いかなと思いました。それこそ、赤字にしたり、太字にしたり、フォントを変えたり、色々な工夫をしながら相手に伝える努力をするかもしれません。いずれやってみよう!

授業と社会を繋げる

今回の授業では1つひとつの活動の時間は1~5分くらいで推移し、その中で生徒には確認テストや課題をロイロノートを通じて提出することがありました。活動に目が行きがちですが、そこにこそ社会を生きる上で意識して欲しいことを伝えるチャンスがあります
「締め切りを過ぎたら0点」と明確に生徒に伝えます。遅れても良いから提出するというのが私たちの一般的な行動であるように思いますが、社会に出るとそうはいきません。時間厳守を授業を通して意識させる。またギリギリに提出することで予期せぬトラブル(今回の場合はネット不具合など)が起こることも想定しなければなりません。「ネットがつながらなくて…」という言い訳は通らない訳ですから。送るという行為の先には相手がいるという想像力を持たせることは重要だと思いました。中高別なら3年間、中高一貫なら6年すれば卒業です。その時に、どんな意識を持っていて欲しいか、伝えるチャンスは日々の授業の中に多々、存在するのだと改めて感じました。

学びを深める

これは「公共空間」を生きる上で、またSDGsが目指す「一人も見捨てない」というコンセプトにもつながると思いますが特定の生徒ばかりが発言する、何となく教室の笑いを誘う発言をする、テーマとは関わらないことを書いてくる…こうしたことはよくあります。それらはすべて否定されるものではありません。そうした発言が「場」を和ませ、教師を救うこともあるからです。しかし、最終目的は、「その時間(今回は55分間)が皆にとって学んで楽しい時間にすること」です。そこは生徒に折に触れて伝えていかなければならないんだなと思いました。決して声を荒げるわけではないけど、「学びを深めるために何が必要か」という先生の生徒に対するメッセージには強いものを感じました。
★自分なりに★
授業のグランドルールのようなものを、もう少し意識させることが大切かなと感じました。コントロールすることが目的ではなく、空間を見守って、それが崩れそうな時こそ、生徒に思い起こさせるチャンスだと思って働きかけてみよう!!

教材に対する考え方

以前にも伺いましたが、藤牧先生の授業は教科書とそれらをまとめたKP法をベースに展開されます(今回はKP法の場面はありませんでしたが)

地歴公民科はプリント授業が主流ではないかと思います。大量の知識を効率よく伝えるためにはプリント(特に穴埋め)は有効に機能すると思われるからです。その一方で、以前にも書いた通り(穴埋め)プリント授業の在り方について私達は少し考えなければならないかも知れません。プリントでは教師が重要な部分をあらかじめ空欄という形で示してくれています。構成も分かりやすくまとめていて、見た感じも整理されています。だからこそ、生徒はプリントを求め、教師は求められるプリントを作成するために多くの時間を費やすという流れなのだと思われます。考えてみると至れり尽くせり。
プリント自体を否定するものではないし、これを有効に活用することは重要だと思います。ただし、プリントは教師の頭の中で形成されるものであり、生徒にとっては自分の思考の入る余地が少ないのも事実です。「これだけ覚えれば大丈夫ですか?」という生徒の問い掛けには少なからず違和感があります。教師によって高い質をもって作り上げられたものは、生徒個々の学び方、考え方、問う力に、どのように作用するのだろう?皮肉にも、私たちがプリントを丁寧に作成すればするほど、それらを奪う可能性もあるのかもしれない…そんな危機感を覚えました(あくまでも個人の感想です)。

問いに対する考え方

「問う力」は私が今、最も関心を持っているテーマの一つです。「教科書やプリントから問いを作ることを求めても、出てこなくないですか?」帰りの車中で先生に尋ねてみました。「問う力」「問いの作法」「問いのスキル」といった書籍は多く存在し、私もそれらを読みながら試行錯誤してみますが、早々上手くはいきません。帰ってきた言葉は、「友達同士で教え合っている時に自然に分からなければ聞くでしょ?それ自体がすでに問いだよね」「確かに!」自分は「問いを生み出すスキル」に意識が行き過ぎていたのかな。一人で問いを生み出すのが難しくても、グループならば出てくるし、それは自然な会話の中で生成される。その中で少しずつ「問いを生み出すスキル」を織り込んでいけばいいのかな。私は「問うためのスキルを教える」という意識が強く作用し過ぎているのかも知れません。もちろん、今後も「問い」については学んでいきたいと思うし、それを授業に上手く取り入れたいと考えますが、彼らの自然な営みに意識を向けることを忘れてはいけないと思いました

課題に対する評価軸とオーダー

授業において何らかの成果物の作成を求めるケースは地歴公民科に限らず、あると思います。そこで陥りがちになるのが、「成果物を作ること」が目的となってしまうこと。「何のために、この活動があるのか?」そこには、当然、評価軸と最低限のオーダー(これは状況によりますが)。今回は九州8県どこかの知事になって政策を立案するという課題がでましたが、そこにも「自然環境を生かした」というオーダーが入ります。自由度は損ないたくありませんが、何でもありになると、「何となく作った感」で終わってしまう可能性があります。それに対して、評価軸と最低条件が入ってくれば、生徒は軸の中で自由に発想することができるのではないでしょうか。アクティブラーニング(今は聞かなくなりました)的な手法を使う際に常に意識しなければならないことだと思います「何かワイワイ話せて楽しかった」で終わらないように!

まとめ

長々と書きましたが、藤牧先生のこだわりは授業という「場」をいかに構築するか。それは「今、何を何のために学んでいるのか」を生徒も教師も意識することにより、全ての人が授業に関与し、楽しい学びを得ることなのだろうと私自身は捉えています。繰り返しになりますが、この場合の「楽しい」は「何となくワイワイ」でなく、目標が明確に存在しているからこそ、生まれるものです。改めて世間にあふれる授業法は大いに参考にしつつ、自分は授業という「場」をどのようなものにしたいのか、考える契機となった1日でした。藤牧先生、突然の授業参観のお願いを聞いていただき、ありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。



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