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丸刈りから考えるパラドックス

長女が中学に行き始め、学校の話題から親世代の校則の話になった。

当時、20数年前まだ男子の髪型はまるがり指定だったことに子どもたちは驚きを隠せない。いわゆる坊主頭である。

『え、なんでなん?? 見た目同じにしたら見分けがつかんやん。』

と8歳の息子。その通り。正直な感想だ。 

私が中学2年で転校したとき、転校前のH市では髪型に指定はなく、同じ県内だがK市はまるがりがちょうど廃止になったくらい、まわりの友人はウニの子どもみたいな状態の髪型で、ふさふさヘアの転校生は嫉妬された

(髪の量で優位にたったのはこの時が最初で最後になる、、がそれはさておき)

確かに、なぜ丸刈りであったり、オンザ眉毛なのか? せっかくの機会なので子供たちと教育の目的についての話をした。

昔は、皆が同じことをできること、同質化が求められていた。

簡潔に言えば、優秀な工場労働者になることを増やすのが教育機関の目的であり、同じ動きを正確にできる人材が評価された

ベルとともに反射的に同じ行動できる(いまだにチャイムはあるが)規格化された人材が望ましかったという話をした

『だから同じ見た目にして、個性を出さないようにするのか!』

このロジックは小2でもわかるようだ。そしてその恐ろしさも。

型にはまらない、最近で言うところの個性のある?(本来、個性は必ずあるので、この使い方はおかしい)人材は目立たないようにふるまわないといけなかった、出る杭は打たれてしまうので。

今はその反動で、なんでも認めるという極端な流れがある。子ども同士でも互いに否定することは減っている感覚がある。この時流は息苦しくないので集団からもこぼれにくくわるくないと思う。ただし、多様性の容認が長期的時間軸にみてどんな影響がでるかはまた別の問題だ。絶対的に良いものなどはないから。

さて、ここで思うことは

現在、AIやロボによって、”人間の仕事が奪われる”という議論があるが、果たして本当なのか??

その仕事というのは、近代においてすでに規格化(坊主頭化)された人間がやっていた仕事を、今一度ロボに置き換えているだけなのではないだろうか?

実はテクノロジーの進歩で、すでに奪われていた人間らしさを取り戻していくプロセスが始まっているだけなのではないかという気がしている。

自社グループでも取り組んでいるRPAロボによる「作業の自動化」は脱単純労働を提供しているので、これからの時代において人間の自由を増やすことに貢献できるように思う。

実際、オンラインや在宅での仕事で家族や地域で過ごせる時間は増えている。もちろんその時間を有効に使えているかどうかは別。

あらためて

目新しいことではなく当たり前に本来の姿である「ダイバーシティ」を前提に、あえて人が行わなくてもよい工程を「ロボティクス」が代替してくれることも踏まえた、ルネサンス(人間らしさの復興)の時代なのだと思う。

これをレッドオーシャンと捉えるか、広大なブルーオーシャンと捉えるかは”アフリカの靴屋”の例えと似ている。人材コンサルとして人の仕事に関わる立場として考えるとワクワクする。

まだ具体策には落としこめていないが、これからのキーワードは”芸術”だと考えている。ビジネス現場で生きるのはMBAより、PTA活動であったりMFA学位だったりする未来。

今日も頑張っていきましょう!




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