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人生振り返り ~幼少期・青春編~

前回のブログから始まった、自分の人生を振返り
学びや気づきを書き残していく第二章になります。
前回のブログに、振り返る目的・想いをかいています。

現在約35歳と半年生きてきました。
日数でいうと、約13,000日生きてきたことになります。

沢山の思い出がありますが、それを全て書いたら膨大な量になってしまうので、二つのポイントで書いていきます。

1.自分の人生に大きな影響を与えたこと。その時どんな気持ちだったか。
2.自分の人生に大きな意味があったもの。

このエピソードを書いていきたいと思います。

無題

誕生・幼少期

私は1985年9月に宮城県塩釜市で父・高山宏敏、母高山美紀子の二番目長男として誕生しました。出生体重は4,280グラム巨大児だったそうです。
智壮(ともたけ)と命名していただきました。
父母の「英溢れ大な男になってほしい」想いで名を授けて頂きました。
(この写真は私の祖父であり、㈱高山の創業者の故高山勝自さんです。)

実家は祖父祖母の代から文具屋・事務機屋を経営しており、1階がお店・会社。2・3階が自宅。で、私の6,8才下の妹二名、兄弟4名でにぎやかな家庭だったと思います。

最近、母から聞かされたのは「あなたは神様にお祈りして授かった子供です。受胎するためお父さんと一緒にお祈りしていました。お腹にさずかってからは生長の家の安産祈願の腹巻をしてました」

昔から家には立派な神棚・仏壇があり、何か始める前、終わった時にはいつも手を合わせていました。

幼稚園、小学校の時はとにかく楽しいことが大好きで、いつもふざけている性格でした。特に勉強が出来るわけでもないし、クラスのリーダー的存在でもなく、いつも遊んでばかりのちょっと出来の悪い方の子供だったと思います。

一方で、なぜ人は生まれたのだろうか?
何のために生まれ、何のために生きるのか?

そんな疑問、人生の目的を求める特質幼少期からを持っていました。

幼少期での思い出に強烈に残っているのは、厳しく理不尽な父への怒り・憎しみに近い感情が残ってました。沢山の理不尽なことされた記憶がありますが、一つエピソードあげれば、スキーに連れて行ってもらった時に、ストックをもたされず、後ろで手を結ばれ滑らされました。
(※この後に出てくる写真や画像はイメージです。)

スキー


恐怖で足がすくむと、
「足の確度が違う!」と父が後ろからストックで膝を叩き怒鳴りつけられるのです。

なので父とのスキーで楽しい思い出は残っていませんでした。
それより、いつか大人になったら、やり返してやる。
いまに見てろよ。
逆襲、反骨の心が芽生えていた気がします。

実は今後青年になり、大人になっても、こういった幼少期に芽生えた感情、情念が潜在意識に大きな影響を当ていたことを痛感します。

またカブスカウトや、修学旅行の帰りに我が家だけ迎えに来て貰えなかった記憶があります。あの時の惨めさ。悲しさ。友達みんなご両親が迎えにきてくれているのに、自分だけ迎えにきてもらえず歩いて帰った時に感じた心の痛み。こういったものが記憶に鮮明に残っています。

不思議なもので昔の写真を見ると、その他にもめちゃくちゃ楽しい思い出が沢山あるのに、私の脳の強烈に印象に残っている記憶は「怒り、痛み、悲しみ、惨めさ」のシーンだけが強く残り、たまにフラッシュバックしてました。

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その後の自分の人生振返っても、頑張るエネルギーの源が
「悔しさ、やり返す、反骨心」こういったエネルギーで前進し、
成長・現状突破するものの、こういったエネルギーだからこそ反作用で、なにか試練やトラブルの様なものが降りかかってくることが多かったと思います。

その他にも小学校4年生まで、まともに宿題や勉強した記憶がないのですが、テストで赤点をとった時にクラスの女の子に「ともたけ君って頭悪いね」と言われたことに非常にショックと悔しさを感じ、そこから地元の塾チャンプに通うようになりました。

確か、小学校4年生の三学期前後にいって当初の偏差値が42くらい(笑)
そこから、馬鹿にされたくない。頭良くなって見返してやりたい。そのエネルギーで勉強して、小6の時には偏差値最高68くらいまでいったと記憶しています。

当時の本塩釜駅周辺はガラの悪いヤンキーが多く、高架下でタバコ吸っている恐いお兄さんに絡まれたのを覚えています。こんな人達と絶対一緒にいたくない。と思い、仙台に行きたいと思い東北学院中学校を受験しました。

中学校・高校 思春期

馬鹿にしたやつを見返すんだ!と思って入った東北学院中学校(男子校)。
当時はボンボンと言われる、経営者や裕福な家庭の息子が多かったと思います。みんな頭が良く素養の良い方ばかりだと思いきや、まぁ先生泣かせの悪ガキ生徒が多かったと思います。

自分はチャンプからの友達の石田君が野球部に入ったので、自分もそうしました。
それまで小学校で野球なんてしたことなかったですが、一度やると決めたら、負けたくない。うまくなりたいの一心で練習しました。
モット―は「全力疾走」でした。

正直運動神経も野球センスも良くなかったですが、自分の一生懸命さを監督さんが買ってくれ2年生の秋にレギュラーで選んでもらえた時に非常に嬉しかったです。

秋の新人戦で地区で優勝して自信を得ましたが、チーム内に慢心が生まれ、三年生の中総体では一回戦で敗北でした。悔しくて悔しくて泣き崩れました。私は「もっと勝ちたい。強くなりたい」と思いました。

東北学院中学生はほとんどがエスカレート式で高校に入ります。
ほとんどのメンバーが、高校でも一緒に野球しような!と言っていました。
先輩も同級生も大好きでしたが、私は「勝ちたい」という思いが強かったです。やるからには勝ちたい。勝てる見込みの少ない野球でなく、本当に自分がやることはなんだろうかと思いました。

そんな中三の夏から秋にかけて、初めて恋をします
男子校なので学校は別の女子高の同級生の方ですが、水泳で全国でもトップクラスの方でした。当時プリクラが流行っていましたが、初めて見た時にドキドキが止まらなくなりました。

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友達の紹介で初めて遊んだ時に、緊張しすぎて何を話したかもわからずガチガチでした。ただ本当に好きで、毎晩深夜に電話するのが楽しみでした。

結構お互いに話せる様になり、これはイケるんじゃないかと思い、人生初めての告白をしました。言われた言葉が「私、私以上にスポーツ凄い人じゃないと付き合えない。全国に出れない人とは付き合えない」と言われました。

後日知りましたがその彼女は2つ上の、当時高校水泳界大注目のエース選手と付き合っていたそうです。

めちゃくちゃショックでした。悔しくて悔しくて胸がはちきれる想いでした。その時に私は「絶対俺は全国で優勝するスポーツ選手になる
全国制覇して、俺と付き合えばよかった」と言わせてやる!(笑)
と強烈な炎が芽生えました。

今客観的に思うと、人の思考回路は同じような感情⇒反応⇒新たな願望・欲望というスイッチとして強く形成され、その人の人格を形成するのだと思います。

私の場合は、ショック⇒怒り・悔しさ⇒強くなって見返してやりたい⇒絶対強くなる・勝つ!

超単純ながらに強力なスイッチで突き動かされていました。

怒り

ちょうどその時、同級生の延山と出会い、レスリングに強引にさそわれます。レスリングの印象はプロレスか吊りパンの最悪の印象でした。

初めて道場にいくと、身長180センチ以上で超マッチョの先輩がいました。私の人生に大きな影響を与えて頂いた小山先輩です。

2コ上とはいえ、その肉体と身体能力の高さに度肝抜かれました。
ましてやルックスもカッコよく、頭もめちゃくちゃ良い。

好きな女の子に振られた私は、この小山先輩の様なカッコ良くて強い男になって、全国制覇したい。という想いを持ちます。
私の中学校の卒業アルバムの1ページに、宮城県優勝、東北大会優勝、三年生で全国優勝、大学でオリンピック出場とまで夢を書きました。本気でした。

幼少期の反骨心気質と、野球で負けた悔しさと、失恋の悔しさ、憧れの先輩の様になりたいという願望が重なり、狂気レベルの情熱へと昇華していきます。

毎日朝7時から学校の回りを走り、午前中の授業で寝て回復。
お昼に道場で懸垂100~200回。
夕方からの練習で腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット100回×3セット
その後、週に2,3階は練習後にジムか大学に通いトレーニング。

減量の時は鶏のささみと、豆腐のみ。
中学3年生冬にベンチプレス40キロも上がらなかった少年が
高校3年生冬には範馬刃牙の様な体でベンチ120キロ×3回を上げる
肉体になっていました(笑)

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範馬刃牙がロールモデルでした笑
この経験が自分の「猪突猛進」的な素養を作ったと、振り返ると思います。
戦績は、高校二年生で新人生を制し、国体に出場。
三年生で東北大会二位で、インターハイベスト16、国体ベスト8でした。

高校最後の静岡国体で、まさかのベスト8で終わった時に燃え尽きた様に、泣き狂った記憶があります。

東北学院レスリング部には偉大な先輩方が多く、中央大学レスリング部にいっていました。尊敬している小山先輩も中央大学に進学されている事もあり、私は中央大学にレスリング推薦で入学を決めました。

いざ東京へ。大学生活

東京六大学に行けることにワクワクと希望に溢れていました。
ただ実際に行ってみると、中央大学は多摩にあり、仙台よりもかなり田舎。
体育会の生徒は皆寮生活ですが、南平といところにあり、とてもボロくて八畳位のスペースで男四人部屋(上下ベット×2)。1年生が奴隷として先輩のパシリをしなければならない。世界でした。

理想の東京生活と現実の寮生活・上下関係のギャップに苦しみました。
また中央大学のイメージはスマートな方が多い印象でしたが、実際は全国のお山の大将があつまっているボス猿キャラ揃い(笑)

いやぁ、とんでもないところに来てしまったと思いました。

一年生は、朝早く起きて、掃除と食器洗いして、先輩を起こし、朝練習前に外で一列に並んで待つ。朝礼後は先輩3人分の練習着を洗濯し、その後大学に行く。大学で授業が終わり他の友達はサークルや遊びに行くのを羨ましい想いで見送り、自分達は練習。一年生は四年生の先輩ペアとなりボコボコに回される。本当に死ぬと思ったことが何度もある。

練習後はお風呂当番になれば裸で、先輩達にタオルを渡す。使い終わったタオルは先輩方は床にポイっと捨てて先に変える。厳しい練習で体中痛い中で、そのタオルや練習着を回収し、夜遅くに寮に到着。
その後、先輩方に呼ばれ、宴で鏡月などの酒を一気飲み強要される。
試合で負ければ坊主(五厘) 二試合一回戦負けならまゆげも剃られる。

3月に上京するときに希望に溢れていた私は、8月に仙台に帰ってくる時には五厘で、心も体もボロボロの状態でした。

高校時代の友達と遊ぶと、もう東京に戻りたくない。レスリングやりたくない。そんな想いになっていました。

そんな時に、私の人生の中で本当に悲しい出来事が連続しておきます。
大学一年生の秋に、高校時代に、よく休憩時間にプロレスしていた柔道部の友人が自殺をしたとの連絡がありました。
仙台に駆け付けた時には、ゆうじ君は棺桶の中で真っ白でした。

ゆうじ君のお母さんから「あなたが高山君ですか?是非このノート見てください。」と言われて読んだゆうじ君のノートに「高山とプロレスをやった。俺がムーンサルトでやっつけてやった!マジで楽しい」そんな言葉が書いてありました。

それを読んだ時に号泣しました。
友人を救ってあげれなかった。
死因は専門学校でのいじめだったそうだ。
許せなかったし、無念でした。
自分は抜け殻の様な気持ちで東京行きの新幹線に乗りました。

同僚は、こんな自分を励ましてくれるだろうと思ってました。
しかし、帰ると、信じられない問題が起きていたのです。

私は友人が亡くなったお通夜・葬式の為に、地元に帰ります。と監督、キャプテン、主務、各先輩、同級生に相談と報告して、洗濯などの仕事は同級生にお願いしていきました。

しかし、先輩の練習着を同期がやってくれなかった。
それに激怒した先輩が、消沈している私に怒鳴りかかりました。
私は、この状況で激怒される理由が分からず、理由を説明し、自分の気持ちを伝えると「うるさい、先輩にはむかうのか?!」と言われました。

あまり詳しく書くと問題になるかもしれないですが、ボコボコにされて、全身の毛を剃れと訳の分からない、いじめを受けました。

先輩に近い同級生の一部からも酷い仕打ちや言葉を浴びさせられました。

私の心境より、練習を休んだこと・先輩の練習着を洗わなかった事、先輩に口答えする事の方が、彼らの中で私を責める材料になっていたと思います。

私は人間の汚さ・醜さを感じました。
こんな人達と一緒にいたくない。
もうこんな環境いたくない。

母に夜中電話して「辛い。やめたい」と相談しました。
母は優しい方だったので、「もう無理することない。帰っておいで」と言ってくれるものだと思っていました。

しかし母から「帰ってくるな。ここは諦めちゃダメ」と言われました。

自分は、こんな状況でもうやっていけない。もう無理だ。と思ってました。
そういう状況で頼みの母にまさかの言葉に驚きました。見捨てられた想いだった。

今思い起こすと、自分の人生で「もう無理だ」と思う瞬間が、その後も何度も訪れた。ただ不思議なことに、何度もボロボロの状態から新しいご縁が生まれ、その後全然違う方向に導かれていく。

あの時は苦しくて辛くて、しんどくて逃げ出したい想いでいっぱいだった。
今想うと、そういう苦しみへの対処法、また逃げずに立ち向かっていく精神を神様が授けてくれた試練だったのだと思う。

今振り返れば、あの当時は周りの先輩や同級生を憎んでいたが、そういった自分自身の物の見方・在り方・考え方・態度・行動が原因を作りだしていたと思う。

自分の心の救いになったのはレスリング部同級生の樅山君と、ソフトテニス部の大塚雅志、日本大学にいった長瀬など、心置きなく話せる友人だった。
二人の明るく楽しく、悩みを抱えないポジティブな存在に本当に救われた。

人格否定のような仕打ちをされているときに、自分の人格を認めてくれ、楽しく明るい気分にさせてくれる存在に心から感謝している。

また、少し時間がたち落ち着き、自分が二年生になる時に、ある女性との出会いがあった。
第一印象は、本当に心がキレイな方、人に優しい素敵な方だと思った。

それが今の妻の梨奈さんだった。
彼女といると、とても落ち着き心が休まった。
日曜日の練習が終わるとすぐに、彼女の家にいき、火曜の始発で変える生活となった。

激動の1年生が過ぎ、少しずつレスリング・学業・恋愛・遊びとバランス良くなってきて、もう一度本気でレスリングで勝ちたい。強くなりたいと思った。このままでは終われない。そんな想いで大津先輩、樅山、後輩の健太達とよく居残り練習やウエイトトレーニングに励んだ。

三年生の秋のインカレに照準を当て、結構良いカンジで仕上がり自分としてはベスト16いや、ベスト8のレベル狙えるんじゃないかと思うくらい絶好調になってきた減量追い込みの時期に、左膝から足首にかけての靭帯損傷のケガをしてしまった。

部員全員が遠征の中、自分一人寮でギブスをはめ動けない状況だった。
再起を目指していた中での大怪我で、自暴自棄になっていた。

人生を変えた2冊 パラダイムシフトの体験

その時に姉から2冊の本が届いた。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」と
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」だった。

この2冊が自分の人生を変えてくれた
どん底状態から、竜馬が行くを読んでいると、のめり込むように竜馬の生き方や幕末を生きる志士達の生き様に胸が熱くなった

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それまでまともに、本を読めたことがなかった自分が、竜馬が行くを、
渇き切ったスポンジの如く「志に生きる、生き方」が血を熱くした。血潮が体中に駆け巡った。

また、やっぱし俺は頑張ってもどうせダメなんだ。と自暴自棄だった考え方から「思考は現実化する」を読み。燃え上がる成長意欲がわいてきた。

今は絶望の淵にいるが、俺は絶対ここから這い上がってやる!
俺なら絶対に出来る‼と
蘇ったパラダイムシフトの転換機
だった。

私の人生の中で、何度も落ち込みや絶望を感じる瞬間があるが、不思議とそこを突破するご縁・情報との出会いがあり、そのたびにパラダイムシフトや強烈な願望、気づき・覚醒が起きてきた。
これは何かの「導き」
と今は思っている。

ケガでレスリングが出来ないなら、どんな山を目指すのか。
私は就職活動を頑張ろうと思った。
否、現代の志士としていきたい。
世の中で大きな事をやり遂げる仕事をしたいと思った。

大学三年生の秋だった。そこから就職活動の軸は「成長」「ワクワク」「志」となった。

ビジネス書を読み、新聞を読み、業界を調べた。
どこが最も成長し、ダイナミックな仕事が出来る業界・会社だろうか。

私が注目したのがリクルート社と、金融系特に銀行だった。
あの時の就職活動で出会った方々、学びはとても新鮮だった。
それまでレスリング一直線だった人間が、銀座、汐留周辺。
丸の内や御茶ノ水周辺で東京のダイナミックさを感じ、ワクワクしながら
就職活動した。

あの当時一番魅了されたのがリクルートだった。
自ら機会を見つけ、機会によって自らを変えよ
リクルート社には何度通っただろうか。本当に惚れ込んでいた。

就職活動では三井住友銀行からも内定をもらい、リクルートからは三年契約での内定をもらった。

正直めちゃくちゃ悩んだ。
結果として自分は三井住友銀行を選んだ。
決めては、自分が就職活動の軸から想いとなった、「中小企業経営者と共に成長し、就職企業の成長に貢献する」のに
銀行が中長期の視点で必ず役にたつ。また、父に相談したところ「それは絶対銀行選ぶべきだ!銀行いくんだったら卒業旅行代を俺が払ってやる」このトークに導かれた(笑)

就職活動が終わったら、友人がいるハワイにどうしても行きたかった。
また、経験豊富な父が「銀行にいけばステータス・格が上がる」というクロージングも結構影響した。

今父の立場に立った時に、事業承継・経営者になるときに銀行の経験が必ず活きると思って、背中を押してくれたのだと思う。

人間の選択とは分からないものだ。
恐らくあの時にリクルートに行っていれば全く違う人生になっていたと思う。

そして私は三井住友銀行に内定をいただけた。
挫折続きの大学生活での達成感を感じた瞬間だった。
驚いたのが、中学・高校が一緒でよくケンカしていた長瀬も三井住友銀行の総合職で内定をもらったことだった。長瀬とは大学一年生の試合に延山が誘ってくれ、そこから復縁し、めちゃくちゃ仲良くなった。
自分の人生でかけがえのない存在の一人の友人だ。

最後の大学四年生引退試合のインカレでは当時の日本学生チャンピオン・後の2012年ロンドンオリンピック金メダリストの米満選手と対戦した。あの試合で全くタックルが見えず、手も足も出なくベスト16で終わった。

レスリングとしての夢は全然届かなかったが、最後はとても清々しかった
正直、やっとレスリングを卒業できる。悔いは一切なし、の心境だった。

その後は、ハワイに2回いった。高校の戦友でもある延山としょーちゃんと、柔道部の角田の四人でのハワイでの2週間は最高の日々だった。

今でもハワイの陽気でリラックスできるエネルギーが、体中に心地よい感覚として残っている。
特に最高の体験は、ワイキキビーチでサーフィンしてテイクオフした感覚だ。ワイキキの透き通った波が優しくも力強く推し進めてくれる感覚。
自分の人生の中で最も快感・悦びを感じる瞬間
だった。

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またハワイで感じた自然からのエネルギー、陽気なエネルギーが本当に好きだった。社会人として成功したらハワイ永住したいと思えた。

レスリング引退後、遊びまくり、無事に大学を卒業した。
父とはもう一つの約束をしていた。
それは社会人になる前に「生長の家の練成会に参加すること」だった。

小さいころに生長の家の会に何度か参加したことはあった。
その当時の印象は、ずっと「ありがとうございます」を言っていて、内心 気持ち悪いと持っていた。

生長の家 飛田給にある練成会に確か5日間くらい泊りがけで参加した。
その時であった方々とは沢山、色々な話をした。
一番記憶に残っているのは人生で最も大切な事が「感謝」ということだ。
この体験を通じ、自分が大切にすることの中心が「感謝」かな?と思えるようになった。

社会人 挫折と出会いの連続の果てに

三井住友銀行2008年4月に入社した。
総合職同期800名? 一般職・CS職含めると2,000名超の同期だった。
私は石橋講師クラスに配属になった。
確かモットーは「清く、正しく、美しく」だった。

最初は集合研修型で本当に楽しい日々だった。
その後少しずつ業務を覚える研修がスタートする。
その時に、東大、京大、阪大、そのた国立大学、慶応、早稲田などめちゃくちゃ頭の良い同期のクラスになった。

それまで体育会系でノリと勢いで突破してきている自分にとって、頭から湯気が出る気分だった。みんな頭が良く、遊び上手。
自分は周りの人に比べ、頭がよくなく、トークもキレがない。
それなりに普通に会話はできていたけど、勝手に自己嫌悪感に陥っていた。

そんな中で一人の同期に惹かれていき、仲良くなった。
それが小正瑞季君だった。
慶応SFC出身ながら、常にフラットに物事を見てくれ、自分に対して「興味を持って関わってくれた」と思う。

色々な話をした中で印象的だったのが「なぜ、銀行にはいったのか?」という質問に対し、小正君は「僕は宇宙が好きで、宇宙ビジネスをしたいんだ。ただ、今は宇宙ビジネスがマネタイズが見えずに民間ではファイナンスがつかにんだ。一方でアメリカにはイーロンマスクという凄い起業家がいて、スペースXといわれる民間のロケット打ち上げるベンチャー企業がいるんだ。僕はファイナンスのプロとして、宇宙ビジネスに投資し、成功に導けるバンカーになりたいんだ。そして人類がまだ見ぬ新たな価値を創造して貢献したいんだ」と言ったのだった。

私の中に衝撃が走った。
これほどまでに、自分んが好きな事。自分の仕事にビジョンがあること。
宇宙ビジネス、アメリカの起業家について(2008年にイーロンマスク知っている人はほとんどいないと思う)そして志が人類に貢献⁉

話を聞いていてワクワクした。
自分は勝手に劣等感を感じ縮こまっている中で、小正君のビジョナリーで聡明な感じに何かシンパシーを感じ仲良くなった。

その後、長瀬と小正が同じ新宿エリア配属となり、繋がり、三人でよく遊ぶようになった。三井住友銀行に入っての宝はこの三人とのご縁や経験は大きなものだった。

自分は葛西法人営業部に配属となり、最初に与信を覚え、融資、インターネットバンキング関係の為替、大手企業の預金、金融商品販売、マッチング等の仕事を教えて頂いた。

数多くの諸上司の皆様、先輩の皆様にお世話になった。
特に小林部長、望月次長にはたくさんの指導をして頂いた。
全然仕事が出来なく、要領が悪い自分にも熱血指導をしてくれ、自分もその想いに応えたい一心で仕事で成果を上げたかった。

時代はリーマンショック後経済で非常に厳しい環境だった。
初めての融資案件は海外輸入車を販売する中小企業様への2,000万ほどの融資だった。大雑把な自分は書類やルール、チェック項目の多さにいつも頭から湯気が出っぱなしだった。

自分は入行した時の想い「中小企業経営者と共に成長し、銀行の成長に貢献する」を思い出し、不器用ながらに一生懸命勉強してコツコツと頑張ろうと思った。その時に稲盛和夫さんの「生き方」の本と出会い、こんな生き方・働き方がしたいと思った。

一方である大先輩から、「高山はピュアで真っすぐすぎる。黒くならなければやっていけないぞ」という言葉を聞いて、心は純粋でいたい反面、資本主義・銀行の暗黙のルールで生きなければならないことに葛藤を抱え続けることになった。

力も余裕もない中で、求められる基準や成果があがっていき、どんどんと精神的に余裕がなくなっていった。タバコの本数が増えて行った。
土日の休日も勉強漬けとなる事が多くなり、当時付き合っていた梨奈さんは1個下で学生で、考え方が合わずケンカやすれ違いが多くなった。

銀行1年目の初めての誕生日前夜、たしか9月19日だったが、かなり大雨が降っていた。明日の誕生日の予定も決まっていなく、電話で話していてもなんだか、嚙み合わない。こんな状態で誕生日祝ってほしくないな。と内心思っていら、電話で別れを告げられた。

まさか、誕生日の前日ひフラれるとは。。
ただ、今の自分では関係を修復するだけの余裕がなかった。
だから、3年後に俺が成長して余裕が生まれたらもう一回、会おう。
とカッコつけて分かれた気がする。

その次の日に、傷心誕生日祝いとして長瀬と渋谷で飲み遊んだ。

仕事のストレスを解消するために、土日に飲み会やクラブに行くようになった。あの当時クラブミュージックとテキーラが好きになり、部屋にミラーボールを置いていた週末パリピと化していた。

そんな自分は大きな事件を起こしてしまう。
一つが業務用の携帯をなくしてしまったことだ。
パスワードはかかっているものの、紛失は大問題だ。

また、営業中にヤクザの様な方に絡まれる事件があった。
その後、パニック症候群の様な状態となり、仕事中に手の震えが止まらなくなった。ずっと何かに怯える、怖い、不安の状況が続くようになった。

仕事・営業成果のプレッシャーや、会議での成果発表のプレッシャー。
その強烈なストレスを解決するために、酒や週末クラブに行き解消するが、
どんどん肉体もメンタルも崩れて行った。

ある日、朝起きられなくなった。
何もする気力がでないのと、恐怖に押し潰されていた。
病院にいくと「うつ病」と診断された。

レスリングで鍛え上げてきた自分が、まさかうつ病になるなんて。
失意のどん底に陥った。
銀行の医師にも診てもらい、1ヵ月の休養をするように言われた。

今だから言えるが、正直救われた。
毎日プレッシャーに押し潰されそうで心身ボロボロだった状態から
数日何もせずに、寝続けた。
精神的に病んでいる時は、休養と睡眠が、大切だということを痛感した。

ただ、このまま何もせずに寮の一室に一人いても、おかしくなると思った。

一度実家に帰った。神棚と仏壇の前でずっと手を合わせていた。
神様、仏様、おじいちゃん、どうかこんな私を救ってください。
そう祈っていたと思う。
その時に神棚にあった、生長の家の 生命の実相第7巻が目に入った。

その本を読んで、何かここに答えがあるとおもった。
宇治 別格本山にいく事をすすめられた。
何か救われるんじゃないか。
少しでも良くなるんであればと思い、一人京都・宇治に向かった。

確か1週間くらいの練成会だった。早朝から起きて、日中講義を聞く形式だった。一番印象に残っているのが、「懺悔と感謝」をする体験だった。
松明を燃やしている大講堂で、今まで自分が犯してきた罪多き汚れの行為を、心から反省し懺悔をした。
その後「お父さん、お母さん ありがとうございます」と
何度も、何度も大きな声で唱えた。

この時に、自分の記憶になかった生まれた時の映像が蘇ってきた。
あの厳しい父が私の為に、一生懸命ミルクを運び飲ませてくれている映像だった。ずっと自分は父が嫌いで憎んでいたが、心から感謝出来る瞬間だった。

また、もう一つ特徴だったのが、私達は「神の子」である。という教えだった。神の子は無限の可能性があり、今どんなに苦しい状況にあっても必ずよくなれる。神の子だから欠けていること、足りない事なんてないんだ。ということを覚醒させてくれる体験をした。

この1週間で私の中に「感謝」と「神の子 無限の可能性」という安心感を得れることができた。合宿途中からうつ病の薬を飲まなくても平常心にいられるようになった。

とはいえ、また現場復帰するのにはかなりの勇気が必要だった。
だから生命の実相を全巻買い、それをお守り変わりとした。
何かを信じることで、どん底から這い上がる、一歩踏み出す勇気を得れることを学んだ。

今想うと、私は未熟で沢山の失敗とご迷惑をかけてきた。
ただどんな状況になっても、次の一歩を踏み出せば、状況は変わる。
恐くて、不安で、その一歩が踏み出せない時もあるが、
勇気を振り絞って一歩踏み出すことの積み重ねが、人生だと思える。

現場復帰後、数か月した2010年4月に異動の辞令を頂いた。
次は練馬にある法人プロモーションオフィスだった。
これは当時の小林部長、望月次長の私の状態への配慮でもあり、
左遷でもあったと思う。

寮も西船橋から茗荷谷に異動した。
不思議なことに、人間は環境が変化すると、
心身の状態もかなり、改善した。

以前の様な震え、恐怖、怯えや、無気力になる事もなく、
新しい職場の先輩方にも可愛がってもらい、仕事もどんどん楽しく、出来る様になった。

そんな自分に当初の想いが蘇ってきた。
幕末の志士の様な生き方がしたい。
劣等感、失敗と挫折の社会人生のままでいたくない。

そこから仕事後に色々と成功した人の本を読んだり、情報を集めた。
その当時私が注目したのが、グロービス経営大学院か、松下政経塾だった。

どちらも社会に創造と変革を起こす志士を輩出する場所だった。
私は心から、こんな自分をもっともっと成長させて志に行きたいと思った。

自分は政治家ではなく、バンカー・投資家・ビジネスマンとして社会にインパクトを与えられる人物になりたいと思い、グロービスを選んだ。

初めて受けた 単科でのクリティカルシンキングの衝撃は今でも忘れられない。

問 クレームは宝の山か?
この問いに対し、賛成・反対でこうまでディベート出来ることや、
イシュー(本質的な問い。本質的な課題は何か)からはじめること。
コミュニケーション、問題解決の思考プロセスに、脳内がスパークする程、楽しかった。こんなに学ぶのが楽しい、ワクワクすることを知った私は、本科に通い、MBAを取得したいと思った。

確か2年間で300万弱のお金と、平日夜間、土日をほぼ学びに捧げる決断だったが、「変わりたい。成長したい」 「創造と変革の志士になりたい」その想いで、チャレンジすることに決断した。

正直、その当時の部長からは大反対された。
お前みたいのが、MBA取得して何になる?
まず基本の銀行業務を覚えろ。と言われた。
けど、その時に自分の気持ちは既に、「創造と変革の志士になりたい」という想いでいっぱいだった。

以前の自分なら、諦めていたが、今回は諦めきかない。
父に紹介状を書いてもらい、その当時の部長の許可を得ずに挑戦をした。

また、この時期に分かれていた梨奈さんとも再会をした。
再会した際に、結婚するならこの人だと思った。
お互いに結婚前提で、復縁をした。
なんとその日は私の26歳の誕生日だった。
あの社会人一年目の誕生日から別れて、ちょうど2年後だった。

当時担当させて頂いていた、オリエンタルランド・ミリアルリゾートホテルに2010年12月24日に予約をして、プロポーズをした。
花束とシャンパンとケーキと婚約指輪を、ちょうど0時になる瞬間にウエイターの方にもってきてもらい「結婚してください」と伝え、泣いて喜んでもらえたことを覚えている。

さぁ、ここからグロービスでの本格的な学び・キャリアップと、
結婚して幸せな家庭を築くという目標が定まった2011年。

まさか、あんな事が起きるなんて予想だにしていなかった。。

2011年3月11日 14時46分。
私は練馬の2階オフィスで資料作成をしていた。
とんでもない揺れに、飲んでいたコーヒーがこぼれた。
東京でも、これはビルが崩れるんではないかと恐怖だった。

何が起きたのか、テレビをつけ情報収集していると、
どうやら東北沿岸が震源地ということだ。

実家のある宮城県、塩釜市は大丈夫だろうか。
何度も何度も電話したが、一切繋がらなかった。
背筋が凍った。 最悪の状況を頭をかすめた。

15時半くらいだったろうか。
津波警報がでた。当初は10メートル。
テレビ中継でヘリコプターから名取・閖上地域の映像で
巨大津波が何発も岸に押し寄せる。


その後一気に岸から内陸に津波が押し寄せ、車道を家を田んぼを飲み込んでいく。その勢いと飲み込む景色を見て体全身から力が抜けてしまった。

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実家も地元もみんな飲み込まれてしまったと思った。
途中で立っていられなくなり、トイレで吐いてしまった。

テレビから伝わる、東北の悲痛な光景。
それに何もできない自分に、ただ呆然と自分は無力であることを
つきつけられた。


幼少期から社会人までの私の人生振り返りは、ここまでです。
こうしてブログを書くうちに忘れていた記憶が蘇ってきました。

また、そこから数多くの学びや気づきを得れました。
それは最後のブログにまとめて書きたいと思います。

このブログには書ききれない
お世話になった方、友達、先生、恩人の方、ご縁頂いた方がいました。
感じるのは、人生は出会う人・環境に大きく影響を受けると言う事。
また、その時は有難みを感じていなかったが、今振り返り、有難い機会であったことを感じます。

では、震災後の人生、事業承継の道のりは
次のブログで書いていきたいと思います!






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株式会社高山四代目 某大手銀行にて法人営業⇒プラスJTX 東日本大震災にて宮城県塩釜市の家業が被害を受け、事業承継を決意。 グロービス経営大学院にてMBA取得。 創業75年目の株式会社高山の4代目 Work To Happiness~働くを幸せに~をテーマに100年企業を目指す。