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初代 #マトリックス を令和に見たら、チョウ格好良かった!

初代『マトリックス』を見た!

先月、すなわち2021年11月に、初代『マトリックス』(99年)を見ました。


面白いじゃん……。


どうしてこのタイミングで、とは言わせません。
なぜなら、間近に迫った2021年12月17日に、18年ぶりの新作にしてシリーズ4作目である『マトリックス レザレクションズ』が公開されるからです。

まあそもそも、きっかけなんてなくても、見たい映画を見たい時に見ればいいんですけどね。

実は初見リックスではなく、前に一度見たことがあったんですが、内容はうろ覚えでした。
初見時は、公開されて数年経ってから「やたら話題になってたな~。流行に乗るのがシャクで見なかったけど、そろそろ一応見てみるか~」くらいのノリで見たのでうろ覚えもやむなし。
そんで、今回改めて見ての素直な気持ちがコレ。

マトリックス、面白いじゃん……。
明らかに、昔見たときより面白く感じられるじゃん……。

面白かったので感想記事を書きます。
全体への感想が2項目、細かかったりテーマに踏み込んだ感想が5項目という作りです。

ではやっていきましょう。



全体への感想2つ

A:ビジュアルが、思ってたのをさらに超えてかっこいい

何といっても、素直に面白いしかっこいいんだわ~。
CG処理やバレットタイムに代表される特撮技術はあくまで手法であって、衣装、小道具、立ち姿のような視覚的センスこそがキモだから、今見てもダサくなってないんだと思います。
立ってるだけ、歩いてるだけでかっこいいキャラや背景や構図が作れてるなら、二十年三十年たってもかっこいいのも納得
もちろん、CG自体も、今見てもまだ違和感が生じないクオリティをこの時代に達成していて凄いのですが。

これで、CGバリバリSF映画にしてはそこまで予算かけてないのってマジ?(一作目は6300万ドル。二作目三作目はそれぞれ1億5000万ドル)
それにしても、思春期に見た時よりもカッコイー!ってなれるのが不思議です。
色んなアクション作品や優れたCG、ケレンミたっぷりのアニメも沢山見たから刺激に鈍感になってそうなものなのにね。


B:記憶と違って話は分かりやすい

『マトリックス』っていまいち話がよく分かんねーんだよなぁ……というおぼろげな記憶がありましたが、見返してみると1はわかりやすかったです。
むしろかなりシンプルな話。
宗教的な要素は「トリニティ」「救世主」「ザイオン」「預言」などいくつかのネーミング程度がほとんどなので、宗教知らなくっても解釈に迷うこともありません。
SF・電脳的に難しいことも言ってません。

ストーリーの骨子は、「全てが仮想現実だった」って設定の派手さ、ネオが救世主かを巡るミステリー、自分には力があるのかの迷い、などの王道に近いわかりやすいもの。
そこにカッコイイ衣装とアクションと映像が乗ってるから、どんどん食え!
それを楽しんだ上で、テーマとかは考えたい人だけ考えればええ!
助かる~。


ってなわけで、見てて楽しかったというのがでっかい感想です。
その上で、改めて気づいたことが細々5つくらいあるので、それらを書いていこうと思います。

ここから内容に踏み込んでいきます。



踏み込んだ感想5つ

1:ネオが延々二択を迫られてる

ネオがめっちゃ選択を迫られる映画ですね。
赤い薬と青い薬が代表ですが、それ以前もそれ以降も、ずーっと択を迫られてる。
格ゲーで一生画面端で起き攻めされてんのか? ってくらい択地獄をされるネオ。
レッドピルを飲んでマトリックスに気づく前の、いわば前振り部分ですら、

・白うさぎの刺青をした女についていくかどうか。
・エージェント達から追われている時に、謎の電話に従って会社の外壁を歩くかどうか。
・トリニティ達の車に乗って銀髪女(スウィッチ)に銃を突き付けられ、服を脱げという言葉に従うか、車から出ていくか。

エトセトラエトセトラ……と、こんな調子です。
当然その後の本筋に入ってからも択、択、択。
二択の繰り返しがここまで続くと美しく感じます。

前に見たときは気づかなかったんですが、明確にテーマ性を持たせた択映画っぽいですね。
ただ、選択と言うモチーフを使いつつも、「重要な場面で、よく考えて正しい選択をすることが大事だ」みたいなメッセージではなさそうだな、と思いました。
私なりのテーマ理解については、5つめの項目で詳しく書きます。


2:かっこいい動きは意外と強くない

かっこよくてアクロバティックな動きが沢山あるんですが、その直後に微妙に失敗するシーンが多いと思いました。
最も有名なのが、のけぞりマトリックス避けでしょう。
エージェントから発射された銃弾に対して、スローモーションになり後ろにのけぞって銃弾をかわす、『マトリックス』の代表的なアクションです。
でもこれって、実は結局弾に当たります。

知らずに見ると「当たるのかよ!」とツッコミたくなるマトリックス避け。
そもそも「トリニティ! ヘルプ!」って叫びが、言い方はかっこいいのに内容は若干情けねえよ。

ここが一番ですが、他にも色々ありました。

・前半のネオとモーフィアスの道場トレモで、画面端に追い詰められたネオが柱を駆け上がってアクロバティックに三角飛びで回避するけど着地狩りされて蹴りを食らう。
・終盤の地下鉄のネオ vs スミスで、互いに空中で突進しながら銃を撃ちあってスローモーションになるかっこいい場面、からの二人して地面にベシャッと墜落する。
・線路で戦っていて、地下鉄がやってくるのをかっこよくバク転ジャンプで回避するけれど、ビシッと着地できずに、「おっとっと」って感じで線路に落ちるか落ちないかハラハラさせる。
・アクロバットではないですが、最序盤でアンダーソン君がビルの外壁を歩いてエージェントから逃げるようモーフィアスに指示されるけど、高さにビビって諦め、普通にエージェントに捕まる。

これらの演出は、意図的なものなんでしょうか?
救世主になり切れてないという意味や、見た目の派手さは本質的には意味がないとかの意味もあるとは思うんですが、それにしても多い気がします。
美学でやってるのか、ギャグでやってるのか、天然でやってるのか、どうなんでしょう。
いずれにせよ、絶妙なキメきらなさが、『マトリックス』らしさの一因になっている気がします。
現在、二作目の『マトリックス リローデッド』まで見返してるんですが、リローデッドも、大群すぎて通路に詰まりそうなスミスみたいなシリアス戦闘シーンなのにギャグに見える瞬間がちょこちょこありましたから。
次の項目で語る、スミスの人間臭さにも通じますね。


3:エージェント・スミスは超いいキャラ

スミス、よすぎる~!
おそらく世間ではクールな無表情キャラみたいな印象が強いですが、ちょっと予定外なことがあるとかなり表情を変えます。
歯をむき出したり青筋立てたり睨んだり、怒りがち。
あと馬鹿にした笑みも浮かべるし、挑発としてジョークも言う。
戦う時も、無表情じゃなくて、がっつり力んだ顔をしつつパンチしています。
感情あるな、スミス……。

ビジュアルも、改めてスゲーいい。
シークレットサービスをモデルにしたスーツ姿で戦う映画って、メンインブラックなど幾つかあるんですが、マトリックスに登場するとスーツが際立ちますね。
ネオやのロングコートやトリニティのSMっぽいテカテカスーツの非日常的格好良さと、エージェントの現実的な格好良さ。
更に、そいつらが非日常的な格闘を繰り広げることで、対比の魅力が発揮されるし、むしろエージェントの方が「非日常の中の日常」として異様に感じられるわけですね。
スミスは大物っぽさや怖さがあるのに、感情を出したり苦しんだりもするし、2以降ではワラワラ出ることや孤独になってることなどで愛嬌も感じられる。
ひじょーーーーに魅力的なキャラですね、スミス。


4:Red Pillが先鋭的政治活動のシンボルに使われてるけど、映画自体はあまりそっち向けじゃなかった感

欧米ではRed Pill(赤い薬)が「不都合な真実を直視する」を意味する俗語として広まり、特に最近は、男性権利擁護~アンチフェミニズム周辺でよく使われる言葉になってるそうです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56526
https://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2018/08/24/230418
https://readyfor.jp/projects/14548

ちなみに、左派系思想だと、woke(世の中の差別問題があることに目覚めた)という似たような意味の合言葉があるので、ちょっとタイミングが違えばお互いの合言葉が逆になってそうなのが面白いですね。
https://front-row.jp/_ct/17170318

それぞれの主張の是非はさておいて、『マトリックス』由来の用語が政治・思想運動のシンボルになってるわけです。
しかし、『マトリックス』はディストピア作品ですが、この世の欺瞞から目覚めよ!みたいな、反逆的メッセージ性は強くないと感じました。
だから、意外と思想闘争の看板には向いていない気がします。

思想闘争の盛り上がりって、論敵への軽蔑と、真実に気づいた自分たちについての選民意識、啓蒙・説得活動で正義感を満たせる、などが大事だと思います。
右派左派問わないし、スピリチュアルや陰謀論もそういうとこあるし、推しアイドルとか推し作品とかの対立も、そのへんの心理をくすぐられると盛り上がっちゃうよなってのが、我が身を省みても感じるところです。
でも『マトリックス』は、この社会は仮想現実という真実を知ることがキーではあるけれど、「管理され続ける愚かな大衆と、レッドピルを飲んで気づいた我々」みたいなトーンが薄かったと思います。
もちろん、「気づいた我々」系の作品が悪いってわけじゃないです。
ディストピアにおけるレジスタンスを主役にするとしばしばそういう描写があるし、その中には傑作も沢山ある。
『マトリックス』もいかにもそういう方向にできそうな設定だったけれど、そういうトーンの映画ではなかったな、という気づきです。

『マトリックス』において大衆が敵に感じられないのは、演出とかのおかげでもあるし、設定として大衆はネオたちが救う対象であるし、大衆はスミスに乗っ取られた時にだけ襲ってくる点も大きいと思います。
また、レッドピルとブルーピルをあくまで本人の意思で選ばせる点も大事で、もしモーフィアス達はレッドピルを大勢に飲ませたいのに皆なかなか飲もうとしない、みたいな話だったらかなり雰囲気が違っていたんじゃないでしょうか。
裏切り者のサイファーだって、本人の意志で動いていました。
彼は悪役ですが、眠り続ける愚者なわけではなく、むしろ強烈な意思と欲望によって再度の安眠を選んだのですから。(それは幻の安寧に引きずられているので本当の自由意志ではない、とまで考えると自由意志とは何かの問題になってきそう)

そんなわけで、『マトリックス』は現実の思想闘争のシンボルに使われてるけど、実際に映画を見ると良くも悪くも闘争欲があまり「そそられない」な~、と思いました。
『マトリックス』に影響を与えた、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』とかはそっちの感じに士気を高めるのにかなり使いやすそうなんすけどね。
『ゼイリブ』は、地球は宇宙人に密かに侵略されていて、政治家もタレントも金持ちもみんな宇宙人で、広告にはサブリミナルメッセージで「OBEY(従え)」「消費せよ」「繁殖せよ」のメッセージが仕込まれて人々は洗脳されていて、主人公はそれを見抜くサングラスを手に入れたことから宇宙人と戦い始める、みたいな映画です。

実際『ゼイリブ』をパロった絵は、悪ふざけからガチ政治主張までよく使われています。 they live obeyとかで検索すれば出てきます。


5:「自分が信じることが真実」というメッセージは力強いが、善悪の区別はなくなる

『マトリックス』のメッセージの一つは、「自分が信じることが真実で、大事なのはそれだけだ」ってことだったと思います。
この記事ではこれまで、「ネオは選択を迫られるけれど、何を選ぶかが大事というテーマではなさそう」とか、「世界の真実に目覚める話ではあるけれど、みんな目を覚まして支配と戦えというテーマでもなさそう」となどと書いてきましたが、それがこのパートに繋がってきます。

本作には、「選択」や「真実」の他にも繰り返し出てくるワードがあります。
それが「知る」と「心を解き放つ」です。
たとえば、物語前半の修行中に、モーフィアスがネオを指導する際のセリフ。

(トレモ道場でカンフー組手中)
「どうした。もっと早いはずだぞ。頭で考えるな、『知る』んだ。私を『打とうとする』な、『打つ』んだ」

(ビル飛び越しチャレンジ中)
「全ての雑念を捨てろ。恐怖も、疑いも、不信も。『心を解き放つ』んだ」

預言者パートにも出てきます。

(預言者のキッチンの壁飾り)
「己を知れ」

「救世主であることは恋をしていることと同じよ。他人にはわからない。でも自分には痛いほどわかる」

この「知る」と「心を解き放つ」は、『マトリックス』作中では、ほぼ同じ意味で使われていると思います。

私達の日常会話では、何かを知ることと、心を解き放つことは、ほぼ違う意味の言葉です。
「知る」は外部世界に確実にある何かを学ぶみたいな意味だし、「心を解き放つ」は想像力や思考や欲求といった己の内部活動を活性化させる意味だからです。
しかし、『マトリックス』の作中ではこの二つがイコールで結ばれます。
『マトリックス』での「知る」という言葉は、日常的な言葉だと「信じる」という意味に近いでしょう。
実際、終盤に地下鉄の駅でエージェント・スミスに追いつかれるが逃げようとしないネオについての

トリニティ「ネオ、早く逃げて。何をしているの?」
モーフィアス「信じ始めてる」

という会話もあります。
前半のモーフィアスの指導も、分かりやすさを最優先するなら「もっと早く殴れると信じろ」の方が通じるでしょう。
けれど「信じる」には、確実でない事柄について使われるニュアンスがあります。だから、「信じる」よりも強い確信、確信よりもさらに強い表現として「知る」の方を多く使っているのでしょう。
なにより、「知る」の方がかっこいい。

自分を信じろ、自分を知れ、心を解き放て、これは全部同じことを言っている。
だから『マトリックス』は、「世界の全ては自分の気持ち次第」っつーのがテーマの物語になります。
繰り返される二択も、どちらを選ぶかが重要なのではなく、選択する際に自信を持てるかが重要で、それさえできればどっちだろうと正解なのでしょう。

ここまでは、なるほどいいテーマだなぁって雰囲気ですが、ちょっと考えると一つのパラドックスが生まれます。
それは、心による主観的真実の大切さを強調することで、何が客観的真実か証明することを諦めざるを得なくなる、ということです。
作中では、人類は電池にされてマトリックスの仮想現実を見せられていて、レッドピルは真実を見せてくれる薬で、ネオは彼自身がそのつもりになったので救世主になって、電脳世界では銃弾も止めて空も飛べて、格好いいというのが、真実として描かれます。
しかし、それは、ネオや、モーフィアスや、トリニティがそう信じているから真実になったわけであり――つまり、彼らだけにとっての真実と言えます。

これって力強いメッセージな反面、かなり危なっかしいものではないでしょうか。
「いやいや、電脳世界は精神力でコードを書き換えて物理現象も起こせるからネオたちの確信が超能力になり真実になったのであって、現実世界のネブカドネザル号ではそうはいかないし、現実世界では客観的真実がちゃんとあるし、物理法則にも従うしかない」というのが一応の枠組みではあります。
ですが、それは物語上のつじつま合わせであって、映画のメッセージとしてはあくまで「全ては自分の気持ち次第」だと思います。
それに物語中でも、トリニティがネブカドネザル号にいながらキスの精神力で蘇生を起こしたし、続編の『マトリックス リローデッド』でも色々やってます。
だから、『マトリックス』は自分の心が見る主観的真実の大切さを語る映画なのですが……そのぶん何が客観的真実か証明することを諦めざるを得なくなってるのです。
なんならモーフィアスやトリニティすらいなくて、ネオだかアンダーソンだかコブだかキャサリンだかアキラだか知らんけど孤独な狂人がどっかのボロアパートで妄想の世界で冒険をしている、彼ひとりにとっての真実を延々見せる映画が『マトリックス』だった、という可能性だって否定できません。

しかし、『マトリックス』は、それでいい、としている映画のようです。
「全てが妄想という可能性が残る作品でいい」という意味でもあるし、更に「狂人の生き方もそれでいい」という意味でも、肯定してくる。
何が正しいか、何が狂ってるかなんていうのは、外部の社会や他人が支配した基準でしかないから気にする必要はない、とする。
監督のウォシャウスキー兄弟は、今では二人とも性転換して姉妹になっているわけですが、それが百年くらい前は狂人的行為とされただろうことを踏まえれば、「世の中から狂気とされる生き方は、流石にそれが君の真実とは言えんよ~」なんて解釈はしづらいです。

映画を素直に見れば、現代社会はマトリックス電脳世界で、陰鬱なネブカドネザル号がリアルだ、ということになっている。でも、自分の認識が全てというテーマも考えると、どっちが本当の現実かはわからない。
――という解釈をここまで書いてきました。
この手の作品の感想では「胡蝶の夢」を引用するのが定番ですが、『マトリックス』は特に胡蝶の夢の教訓と近い気がします。
荘子は胡蝶の夢の説話から、「自分がヒトなのかチョウなのか確かめる方法はないのだから、自分が何かなんて無駄に頭を悩ませず、チョウと感じる時はチョウとしての生を楽しみ、ヒトと感じる時はヒトの生を楽しめばよい」みたいな教えを語り、そのフワフワとした自由の境地を逍遥遊と呼んだそうです。
これって、『マトリックス』のテーマであろう、「何が夢で何が現実か、何が真実で何が正義かなんてのを絶対的に確かめることはできないのだから、心を解き放って見たいように見てやりたいようにやれ、それをその時のあなたにとっての『真実』で『現実』とすればよい」とかなり近いですよね。
違いは、『マトリックス』の方では「チョウになりたい時はご機嫌なチョウになれる」ということまで言っていることでしょうか。
アドラー心理学ってやつにも近いのかもしれません。私はネットでつまみ読んだ知識しかないので、全然違うかもだけど。

『マトリックス』のテーマに従えば、自分の心を第一にするわけなので、客観的判断やルールの意味は薄くなる。
そこから更に危ういメッセージが導けます。
即ち、カルト宗教や犯罪だって、それがその人が心を解き放ち求めた真実と言わざるを得ない。
『マトリックス』の哲学は唯心論とか個人主義とか不可知論にも近いと思うんですが、その手の考え方って一理あると同時に、無責任と言えば無責任なスタンスになりがちです。
「他人に迷惑を掛けない範囲でなら自由でいいという意味だろう」と反論したくなるかもしれません。
ですが、迷惑とはどこからが迷惑なのか、その基準はだれが何の権利で決めるのか、その基準は時代や場所によって変わりうる、そもそも迷惑をかけるのは良くないという良識が正しい保証はどこにあるのか。
カルト宗教は心を解き放たず洗脳してるから別だとも思うかもしれませんが、ネオがモーフィアスに洗脳されていないと言い切れるでしょうか。エージェントスミスの依り代になった一般人を殺すことに問題はなかったでしょうか。

突き詰めていくと、「個人の認識で全て変えられる」というメッセージと、勧善懲悪は整合性が取れなくなります
まあ、もしも監督の二人に「最近大量殺人犯が出たけど、その人についても『君の真実を生きててイイネ!』と言うんですか?」と聞いたらNOって言うんでしょうけど、そこは作品の理想的メッセージと、現実における現実的な言動が常に合致するわけではないですからね。
モーフィアスたちも、真実を見せるだけだとか、心を解き放つ扉の前まで連れていくけれど開くかどうか決めるのは君だとか言うけど、「そんじゃ、なんもせず帰りま~す。乙^^」って帰ることはしづらいシチュエーションを作っています。ネオなんか、実際に一回車から降りようとしてトリニティに引き留められていますし。
ことわざにも「馬を水場に連れていくことはできるが、水を飲むかは馬次第」ってありますが、馬からしたら水場に連れてかれるだけで結構ダルい強制かもしれないじゃんね。
教訓やメッセージの純粋性と、その教訓が現実にどれだけ適用できるかが別なのは仕方ない。

余談を挟みますが、ヤバい行為も肯定する部分から、やっぱ過激な社会運動と相性がいいように見えるかもしれません。でも『マトリックス』のメッセージは突き詰めた個人主義なので、集団でやる運動のシンボルにはあんまり向いてないんじゃないかなあと私は思います。
俺には俺が知っている真実と正義があり、敵には敵の真実と正義があり、友には友の真実と正義があり、それらは必ずしも一致していないし、別にそれでいい。レッドピルとブルーピルのどっちが幸せでどっちが真実かも人によって違うし、どっちが赤に見えてどっちが青に見えるかさえ同じとは限らない。
そんな態度は集団社会運動には向いてなさそうです。
といっても、合言葉やミームとしては元ネタの知名度があることの方が大事だから些末事でしょうね。
余談おしまい。

さて、そんなこんなを考えていくと、裏切り者のサイファーの評価も悩ましいです。
裏切りを明かした後のサイファーの言動はゲス野郎ではありますが、それはそれとして、ブルーピルを飲む方が幸せだとか、裏切る方が正しいとか信じていたなら、彼にとってはそれが真実だったと言えるはずです。
選択する時に大事なのはどちらを選ぶかではなく選ぶときの己の気持ちだ、とするなら、サイファーの選択も間違いではない。
一度レッドピルを飲んだからといって、後からその選択を後悔したりやり直したりしちゃダメなんてことはないですし。
だから、サイファーとネオたちの戦いは、真実 vs 真実、現実 vs 現実、正解 vs 正解だったはずです。
だけど裏切り者サイファーが負けたのはなぜかと考えると――彼が弱かったから、ということになってしまうのではないでしょうか。
ここに、個人を尊重するとどうしても行きつきがちである、残酷な弱肉強食も垣間見えます。

『マトリックス』のテーマから、無法肯定や弱肉強食を導くのは、エンタメとして入れてくれた要素をシリアスに捉えすぎでちょっとアンフェアかもしれません。
しかし、映画最後のネオのモノローグからすると、100パーセント私の深読みだとも思いません。

I don't know the future. I didn't come here to tell you how this is going to end. I came here to tell you how it's going to begin
(未来は分からない。僕はこの戦いの終わり方をを語るために来たんじゃない。始まり方を語るために来たんだ)

I'm going to show them a world without you, a world without rules and controls, without borders or boundaries.
(お前たちのいない世界を皆に見せてやる。ルールも、支配も、境界もない世界を)

A world where anything is possible. Where we go from there is a choice I leave to you.
(全てが可能な世界だ。そこからどこに向かうかは、君たちの選択に任せる)

ネオが示唆する世界には、自由や解放がある反面で混沌の色も濃い。そしてネオは幸福も不幸も約束していません。
ルールも法も境界もなく全てが可能な世界では、客観的な正義や悪もない。

だから、全ての人がネオでありトリニティでありサイファーであり、そして自分が生き残る側になれるか、幸福な側になれるかは、自分の強さと運にかかってくるのでしょう。



おわりに

あらかた書きたいことを書いて、そういえば新作『マトリックス レザレクションズ』の予告編をまだチェックしてなかったと思い出したので見てみました。

やっぱり、全部アンダーソン君の妄想だった可能性が描かれてるっぽい~?
また、予告編そのものではないですが、『レザレクションズ』の宣伝では赤い薬と青い薬に並んで……もしくはそれ以上に緑色がシンボルとしてプッシュされてますね。
東京タワーとか福岡タワーとかを緑色にライトアップしたそうです。
確かに『マトリックス』の緑文字は有名ですけど、赤か青かだけじゃなく第三第四の選択肢の象徴として使ったりするのかな、と思いました。
選択を迫られるネオを、格ゲーで起き攻めされてるみたいだとたとえましたが、厳しい選択をしなきゃない時点で実は一つ前の段階で負けて誰かの思うツボにハマってる(格ゲーならダウンを取られてる)ってことはよくありますからね。

三部作とは違って姉ちゃん一人で監督をした新作、果たしてどうなるのか!
『マトリックス レザレクションズ』公開は2021年12月17日!
あと二週間と少し!
見たいやつは見ろ! 見たくないやつは見るな!
古いも新しいもない!
マトリックス初代を見たいやつは見ろ! 私は今週レボリューションズを見るつもりです!
最初に書いた通り、映画も、他のものも、見たいものを見たいタイミングで見ればいいのです。初代『マトリックス』にならうならば。


あとは君たち次第だ。



おまけ

『マトリックス』が『攻殻機動隊』の影響も受けてるのは有名ですが、士郎正宗が原案で六道神士&春夏秋冬鈴がシナリオ・作画で描いている、『紅殻のパンドラ』という漫画が佳境です。
攻殻の十数年前を舞台に萌えと百合とパロディでくるみつつ、電脳戦やソワッとするハードSF価値観もぶち込んでくる良作で広まってほしいので、『マトリックス』感想記事を読みに来るような人はチェックしてくれたら嬉しいです。



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