見出し画像

【孔子】現代の日本人にも多大な影響を与え続けているグッドマナーおじさんの人生とは?【儒教】

どーも、たかしーのです。

今回は『孔子』について、書いていきたいと思います!
学校の古典・漢文の授業で出てきた人物という印象が強いかもしれませんが、実は現代の日本人にも根付く残る文化や思想に影響を与えた人物なのです!


孔子はどんな人?

中国古代の思想集団・儒家の始祖

儒教を重んじる思想集団・儒家の始祖となった中国の人物です。(儒教については、後述)古来からあった思想や道徳を整理・解釈し、聖人君子(立派な人)として生き、他の人々を導くにはどうすればよいか?を説いて、のちの「儒教」のベースを作った人とされています。※よく孔子は、儒教の始祖とされがちですが、儒教は孔子が生まれる前からすでにあり、孔子が思いついたわけではないことから、儒教の開祖とされています。

身長2メートル超えの大男

孔子の本名は孔 丘(こう きゅう)。「」というのは「先生」という意味なので、そのまま訳すと「孔先生」ということになります。※他にも同じ時代に「~子」という思想家がたくさんいます。

なんと身長は216cmあったとされています。メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手の身長が193cmなので、当時じゃなくても、超大男であったことがわかります。

孔子(wikipediaより抜粋)

教えた弟子の数 約3,000人

孔子の弟子となった人の数は、約3,000人いたとされています。孔子が生きた時代、当然ながらインターネットも図書館もなく、人々が知識にアクセスするには、生き字引のような人の弟子となり、教えを乞う必要がありました。孔子の場合は、こうした人々が約3,000人もいたことになります。

孔子は自分の教えを本として残すことはしませんでしたが、その後の弟子たちが孔子が残した言葉をまとめ、死後約400年かけて編纂したのが『論語』という書物になります。

そもそも儒教とは?

中国古代の宗教をベースとした思想体系のこと

儒教の源流となったのは、中国古代から伝わる「死んだ祖先が生きている人の人生に影響を与える」という思想であり、この思想から死者を葬るための一連の儀礼や、祖先を降霊する儀式などが重んじられるようになりました。これら儀礼や儀式のプロ集団のことを「」と呼び、この「儒」の思想や作法を、のちに孔子が整理し、1つの思想体系としてまとめたのが「儒教」となります。

思想体系は「仁・義・礼・智・信」の五常から成る

儒教は基本となる5つの道徳「仁・義・礼・智・信」で構成されています。※「信」は孔子ではなく、あとから加えられた要素ですが、あえて記載。

  • (Love)・・・人を思いやること

  • (Justice)・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること

  • (Manner)・・・「仁」を具体的な行動として表すこと

  • (Wisdom)・・・道理をよく知り得ていること

  • (Sincerity)・・・誠実であること

この中で、孔子は「仁」が1番大事、次が「礼」であると説いています。つまり、国を治める人が「仁」を持つ人であれば、よく国が治まると説いたのです。

日本には5世紀ごろ伝来したとされる

儒教は、のちに王朝の時代に国教となったこともあり、東アジア一帯に統治思想や道徳として、広まることとなります。日本にも、応神天皇の代(5世紀ごろ)に百済(くだら/現在の朝鮮半島南西部)から来日した王仁(わに)が『論語』を日本に伝えたとされています。※ちなみに、王仁は日本に漢字を伝えた人としても知られています。

王仁(wikipediaより抜粋)

現代の日本においても強く影響を与えている「儒教」

その後の時代において、日本でも儒教が重用されたことから、現代においても「儒教」の影響は、強く残っています。

例えば、年賀状。年始に書状を交わすといった文化は「儒教」におけるの影響を受けているとされています。

親孝行。この考え方も「儒教」におけるの影響を受けているとされています。正直なところ、当たり前の考え方に思われるかもしれませんが、孔子が生きた時代は春秋戦国時代と呼ばれ、子が親を殺すことのほうが当たり前であった戦乱の世でした。なので、そういった中で、古来からあった「親を大切にする考え方」を再評価し「儒教」としてまとめた孔子は偉大だなと思います。

また、ネットやテレビでもよく見かける話ですが、企業や政治のリーダーが不倫などプライベートで問題を起こすとモーレツに非難されるというのも、「儒教」のの影響を受けているとされています。これも当たり前のように思われるかもしれませんが、儒教における「立派な人が上に立つべき」と言う考え方にはマッチしないことが所以とされています。リーダーでなくとも、芸能人やスポーツ選手でも同じようなことがありますが、これも「儒教」が影響しているのかもしれません。

孔子の生涯

孔子が生まれた時代背景

今から約2,500年前の中国。当時「」と呼ばれる王朝が支配をしていましたが、有力諸侯(貴族)の反乱や異民族の侵攻、度重なる自然災害などが原因で、徐々に王朝の権威が衰退していました。

その結果、地方の有力諸侯が独立をし、それぞれが王と称して争う分裂期に突入。これが、かの有名な春秋戦国時代の幕開けであり、漫画「キングダム」と同じ時代背景へと移っていくことになります。

母の影響で礼儀作法を極める孔子

そんな時代の中、小国であるの国(現在の山東省)で生まれた孔子。父は70代の軍人母は16歳の巫女で、その年齢差から不正規な関係から生まれたとも言われています。

孔子が3歳のときに、父が亡くなり、シングルマザーとなった母に育てられます。母が巫女だったこともあり、幼少期に孔子は葬式ごっこをして遊んでいたようです。

しかしながら、17歳のときに、その母も亡くなってしまい、孔子は孤児となってしまいます。ですが、孤児となっても、勉学に励み、また母の影響もあって、礼儀作法にめちゃめちゃ詳しい人へと成長していきます。

順風満帆な人生だったのに亡命の道を選ぶ孔子

19歳になり、宋の国の幵官(けんかん)という人と結婚し、翌年、息子の孔鯉(こうり)を授かります。

28歳になり、ようやく魯の国の役人となって、働き始めます。倉庫や牧場を管理するお仕事に就き、記録では、この時期に孔子が初めて弟子をとったとされています。

ですが、人生とんとん拍子にはいかず、36歳のときに隣国であるの国(同じく現在の山東省あたり)に亡命をすることになります。これは当時、魯の国が王政ではなく、貴族らによる独裁政治が行われていたのですが、これに王である魯の国の王・昭公がクーデターを起こすも失敗。昭公が斉の国へと追放されたため、そのあとを追って、孔子も斉に亡命したとされています。

このあとの儒教にも、そのエッセンスが入っていますが、自らの考え(君主は敬うべき)に反して、王をないがしろにした貴族が許せなかったので、一緒に亡命したのでは?と考えられています。

結局、魯に出戻る孔子

その後、孔子は優秀だったこともあり、斉の国の王・景公が孔子を雇おうとしますが、宰相(内閣総理大臣的なポジション)の晏嬰(あんえい)がこれを阻み、結局、魯の国に帰還することとなります。

魯に戻った孔子ですが、以前のように官職にはつかず、弟子をとり、その弟子たちの教育に励みます。この頃に、孔子の弟子として有名な顔回(がんかい)や仲弓(ちゅうきゅう)、子貢(しこう)らが入門をしています。

顔回(wikipediaより抜粋)

いきなり大司寇に出世する孔子

その後もなんやかんやあり、52歳となった孔子は、ある事件がきっかけで、魯の国の王・定公に取り立てられ、大司寇(最高裁判官的なポジション)に就任します。

そのある事件とは、当時、対立していた斉と和議を行うため、定公と斉の景公が会見を行っていたときのこと。斉から申し出た踊り子たちが演武している最中に、孔子は小道具が演武用ではなく、実際の矛や太刀であることを見抜き、その場で踊り子たちの手足を切らせてしまいます。(ヒエッ…)

実はこれは、斉の宰相・晏嬰による計略。なんとその場で定公を殺そうと計画していたのです…。(さすがは、春秋戦国時代や…)

この功績が認められ、孔子は出世!ですが、その栄光も長くは続きませんでした...。

孔子「せや、クーデターしたろ!」

その後、外交官を兼務することになった孔子は、魯の貴族らのバックボーンになっていた晋の国との同盟を破棄し、貴族らの権力をそぎ落とすことに成功します。

この勢いで、かつて昭公が成しえなかったクーデターを起こしますが、これには失敗…。結果、また魯の国を出ることとなり、職を辞して、弟子と家族ともに諸国巡遊の旅に出ることになります。このとき、孔子は56歳

孔子の最期

そこから、クーデターを起こした張本人のため、命を狙われつつも、13年間の亡命生活を生き抜き、再び、魯に帰還。戻ってきたときと同じく、官職にはつかず、弟子をとり、私立学校のような塾を作って、教育に励みます。また、この頃、孔子より先に息子の孔鯉が亡くなっています。

その後、一番弟子だった顔回にも先立たれるも、他の弟子たちの教育に従事したのち、74歳でこの世を去ります。

孔子の名言

温故知新

歴史・思想・古典など昔のことをよく調べ研究し、そこから新しい知識や見解を得ること。つまり、歴史を学ぶということは、まさにそういうこと。
※「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と同じ意味。

過ちて改めざる これを過ちという

間違う事が悪いのではない。 それを反省して改めない事が間違いだ
あーよくわかります。

君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず

立派な人物は、他人と仲よく付き合うが、安易に同調はしない。 つまらない人物は、他人に安易に同調するが、決して仲よくは付き合わない。
内容もさることなあがら、言葉としても対比がされていて、とてもキレイ。

これを知る者はこれを好む者に如(し)かず これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず

学ぶことにおいて、その知識を知っているということは、勉強を好きな人間には及ばない。勉強を好きな人間は、勉強を楽しんでいる人間には、及ばない。
つまり、「勉強を楽しんでいる人間>勉強を好きな人間>知識を知っている人間」ということ。楽しんでやっている人には勝てないよ、ということですな。

学びて時にこれを習う また喜ばしからずや 朋あり 遠方より来たる また楽しからずや

習ったことを、機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことでしょうか。
たまに、歴史の偉人を調べていたら、他の偉人や出来事をつながって、嬉しくなることがあります。まさにこういう体験を言っているのだと思います。

おわりに

孔子の死後、「儒教」は、のちに中国統一を果たす秦の始皇帝により禁止されて、焚書坑儒によって、一時、虫の息状態となりますが、その後の漢王朝の時代に国教となり、のちに日本人の文化や思想のベースとなる教えへとライジングすることとなります。

まさか、こんな2,000年以上も前の人物が考えに考え、言葉としてまとめたものが、ここまで広がり、影響を与え続けているとは…!「自分は死ぬけど、思想は残りつづける」みたいな話が歴史だと多く見られ、とても好きなのですが、「儒教」はその典型的なものだなと思いました!

他にも、この歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?