【山上憶良】慈悲のない古代にドロップキック!奈良時代のロックシンガー【貧窮問答歌】
どーも、たかしーのです。
今回は、奈良時代の歌人『山上憶良』について、書いていきたいと思います!
山上憶良とはどんな人物か?
『万葉集』に多数収録された奈良時代の歌人
山上憶良は、奈良時代に活躍した歌人です。
日本最古の歌集『万葉集』にも、自身の歌が多く収められており、作者不詳を除くと、第4位となる約80首もの歌が収録されています。
『万葉集』作者別歌収録数ランキング
1位 大伴家持 約470首
2位 柿本人麻呂 約90首
3位 坂上郎女 約85首
4位 山上憶良 約80首
※なお、作者不詳の歌は、約2,000首も収録されている。
山上憶良は、660年頃に生まれたと推定されています。
先祖については、諸説あり、第5代天皇・孝昭天皇の子である天足彦国忍人命(あめたらしひこくにおしひと)とされる説(つまり皇族をルーツにもつ)や、朝鮮半島からの渡来人ではないかという説があります。
実は遣唐使として唐に行ったことがある
実は、遣唐使として中国に渡った経験があります。
702年(大宝2年)山上憶良は、第七次遣唐使船に同行して、中国に渡りました。当時42歳でしたが、遣唐使書記として抜擢されました。おそらくは、漢語などの学識を買われたであろうと推測されています。
山上憶良は、唐で儒教や仏教などの学問を修めました。また、武則天(則天武后)から「日本」という国号の承認を受けたことを喜び、早く日本に帰って伝えたいと考えていました。※それまでは中国にとって、日本は「倭」として認知されていました。
山上憶良が、遣唐使時代、帰国前に詠んだ歌が『万葉集』に残されています。
ちなみに、この「 大伴の御津」というのは、難波の港のことを指しており、当時の遣唐使船はこの港から出向をしていました。
「大伴の」は、難波の港のある地域一帯が大伴氏の領地であったため、そう詠んだそうです。
山上憶良は、704年(慶雲元年/憶良44歳)に帰国後、716年(霊亀2年/憶良56歳)に 伯耆守(現在の鳥取県中部・西部の地方長官)に任命されました。
大伴旅人らと筑紫歌壇を結成する
726年(神亀3年/憶良66歳)になると、山上憶良は、 筑前守(現在の福岡県西部の地方長官)に任命されます。
このときに出会ったのが、『万葉集』編纂に関わった大伴家持の父であり、歌人の大伴旅人でした。
山上憶良は、728年(神亀5年)に60歳を過ぎてから 大宰帥(大宰府の長官)として、大宰府に赴任してきた大伴旅人らとともに、「 筑紫歌壇」という歌人集団を形成し、ともに歌を詠むようになります。
ちなみに、元号「令和」は、日本最古の歌集『万葉集』が典拠となっていますが、その元ネタとなったのは、大伴旅人が大宰府の邸宅で開いた歌会「梅花の宴」からでした。
この「梅花の宴」で、山上憶良もこのような歌を詠んでいます。
なんだか物悲しい歌ですね...。
なお、元号「令和」の典拠として採用された「梅花歌三十二首并序」の序文ですが、この文章を書いたのは、山上憶良という説もあるそうです。(ということは「令和」の原点は、山上憶良だったのかも…)
↓「令和」の元ネタの話については、こちらをどうぞ。
代表作「貧窮問答歌」
山上憶良の和歌には、以下の特徴があります。
人生の現実を直視して詠んでいる
社会に目を向けており、思想性や社会性を特色としている
子どものことを想った歌が多い
病気や貧乏など、人生の苦しい面や、その時代の問題を扱っている
七夕を詠んだ歌が多い
山上憶良は、他に『万葉集』に多数収録された柿本人麻呂のような儀礼的な歌や、山部赤人のような叙景的な歌、さらには『万葉集』の代表的なテーマである相聞の歌(ラブソング)といった歌を詠むことはせず、その時代にあった社会問題を他人の立場に立って詠むといったことをしています。
現代のミュージシャンにあえて例えるなら、ロックシンガーのような歌を彼は詠んでいたのです。
山上憶良の代表的な歌
それでは、ロックシンガーっぽい山上憶良の代表的な歌を見ていきます。
※なお、「貧窮問答歌」については、NHKの番組「100分 de 名著」の「万葉集」回に登場された佐佐木幸綱先生(国文学者・歌人)の見解を参考に、まとめさせていただきました。
貧窮問答歌
山上憶良の代表作として「貧窮問答歌」があります。
「 貧窮問答歌」は、721年(憶良61歳)に作られました。憶良の自画像と目される人物と極貧の農民が〈問答〉する形式を取り、平易な日常語を使用して、貧窮困苦の実情を描いています。
「貧窮問答歌」は、『万葉集』第五に収録されています。
これは、当時の役人が農民のやり取りを詠んだ歌とされています。その役人が山上憶良本人なのか?実際に聞いた話なのか?は定かではありませんが、国司であった山上憶良が貧しい農民の実情を憂いて、役人の立場、農民の立場となり、詠んだ歌と推測されます。
第五・八九二が役人の立場となって詠んだ長歌、第五・八九三が農民の立場となって詠んだ短歌になっています。
どちらも、奈良時代を生きた農民たちの貧すぎる日常が、これでもかというほどリアルに描かれています。
前述のとおり、当時の歌人には、貴族でありながら、貧しい人たちの目線で歌を詠むという歌人はいませんでした。
ですが、山上憶良の場合は、遣唐使時代に、儒教や仏教などの学問を修めたからか、はたまた国司となって、その実態を目の当たりにしたからか、こうした人たちの気持ちに寄り添い、歌を詠んでいました。
のちに『万葉集』の編纂に関わることになる大伴家持も、防人の実態を憂いて、防人が詠んだ歌を多数収録したりしています。
↓「大伴家持」については、こちらをどうぞ。
山上憶良は、貴族でありながら、こういた実態を危惧し、自身の歌に残して、国家に訴えたかったんだと、私は思います。
子を思う歌
山上憶良は、相聞の歌(ラブソング)を詠んだりはしませんでしたが、子供を思う歌はよく詠んでいます。
物悲しく嘆き節な歌が印象的だった作風とは一転して、非常にポジティブに詠まれていることがわかります。このことから、山上憶良はたいへん子煩悩であったのかもしれません。
ちなみに、山上憶良は、晩年、老いと病に苦しんでいる最中、歌を詠んでいるのですが、そこでは「五月のハエのように、うるさく騒いでいる子供たちを見ていると、死ねませんでした。この子らを見捨てて、どうして死ねましょうか。」といった長歌を残しています。老いや病により、辛くなってしまった生きることを、前向きに感じさせてくれるのは、子供であると、詠んでいることから見ても、憶良の子供への愛情が伺えます。
あと、八〇三の歌ですが「子供は最高の宝だ!」といったメッセージには、山上憶良のロック魂をとてもよく感じます。
おわりに
今回は、『山上憶良』について、書いていきました。
今回のタイトルには「ロックシンガー」と書きましたが、これは他とは違う異彩を放った歌人という意味で、書いてみました。なので、決して過激なロックシンガーではございません(笑)。
ですが、優美な歌や、天皇を讃える歌がある中、自分の想いをストレートに歌に表現して詠んだところには、今でいうロックに通じる精神があったと、私は感じざるを得ません。
また、時代は違えど、私たちと同じ感性であるとも思える歌が多くて、山上憶良に対して、とても親近感が湧いた心地がしました。子供は最高の宝だ!!
他にも、歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!
画像素材:山上憶良
時短だ:https://jitanda.com/terms/
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