【墨子】思想と能力を守備力に全振りしたディフェンスおじさんが語る愛とは?【兼愛非攻】
どーも、たかしーのです。
今回は『墨子』について、書いていきたいと思います!
なお、前回の「老子」に続いて、またしても、孔子がdisられます。
墨子はどんな人?
中国古代の思想集団・墨家の始祖
諸子百家(しょしひゃっか)のひとつ、墨家の始祖となった中国の人物です。
諸子百家とは、主に春秋戦国時代に活動した思想家や学者の集団のことで、諸国を遊説して巡り、諸侯(国の有力者)に対して、自身の思想や説を唱え、国家にその理念を実現してもらうよう努めた人たちのことを指します。
前回まで、孔子は儒教を重んじる儒家の始祖、老子は道教を重んじる道家の始祖と紹介しましたが、このどちらも、諸子百家として知られています(ほかにもたくさんあります)。
今回、紹介する墨子が創設した墨家も、兼愛(けんあい/博愛主義的な思想)や非攻(ひこう/平和主義的な思想)といった思想を諸国を巡って布教していましたが、その一方で、これらを実践するためのテクニックとして、守城戦のノウハウを伝授したり、実際にプロとして守城戦に参加したりもしていました。※兼愛や非攻については、後ほどもう少し詳しく書きます。
謎が多く、中国人だったかどうかも不明
墨子の本名は、墨 翟(ぼく てき)とされていますが、実際はわかっていません。
実は、老子と同じく、どのような人物であったのかが、あまり文献に残されておらず、謎多き人物とされています。
前漢の時代に著(あらわ)された中国の歴史書『史記』にも「恐らく墨子は宋の高官であろう…」と書かれており、もうこの時期からよくわからん人物とされていたようです。(そりゃ今の時代の人がわかるはずもない…)
また、なぜ「墨」と名乗っていたか?についても、説が分かれており、
工匠か土木業者だった説(お仕事で墨壺を使うため)
元罪人だった説(当時、入れ墨を入れる刑罰があった)
インド人だった説(肌が褐色だった)
など、さまざまあります。
墨子の生涯
前述のとおり、文献にあまり登場しないことから、墨子の生年月日は明らかになっておりません。しかしながら、文献によれば、紀元前450年~380年ごろ(時期としては中国の春秋時代末期~戦国時代初期あたり)にかけて、活躍した人物であろうとされています。
実は孔子と同じ国に生まれた墨子
墨子は、孔子と同じ魯の国で生まれたとされています。
ですが、同じ時代に生きた記録はなく、孔子の弟子が残した『論語』にも墨子が登場しないことから、孔子よりも後の人物と推測されています。
※ちなみに、孔子が創設した儒家である孟子(紀元前372年?-紀元前289年?)が、墨家を痛烈に批判していたことから、孟子よりは前の人物であったことは判明しています。
実は儒家の弟子だった墨子
最初は儒家の弟子となり、儒教を学んでいた墨子。
しかしながら、孔子が唱えた「仁」に基づく愛が自分の家族や祖先、上司を敬うためにあることから、とても差別的であると感じて、満足ができず、自ら儒家を去ることになります。
こうして、儒教における「仁」のカウンターとして、自他の別なく平等に人を愛せよという「兼愛」を唱えるようになります。
墨家、爆誕!初代リーダーは墨子
その後、墨子は、この「兼愛」を説く独自の思想を切り拓(ひら)き、墨家と呼ばれる一つの学派を築くことになります。
この墨家は、主に3つのグループがあり、
布教集団・・・諸国を巡って遊説を行い、墨家思想を広める
講書集団・・・教本の整備や、弟子の教育を行う
勤労集団・・・守城兵器の製作や、防衛戦闘に参加する
で組織化されていました。
墨家は、鉅子(きょし)と呼ばれる指導者によってまとめられおり、その初代鉅子として、墨子が活動をしていました。
※なお、「鉅」とは指金のことを指すことから、墨家の中で全ての基準となる指導者のことを「鉅子」と呼んでいました。
こうして、墨家としての活動を続けていた墨子ですが、その最期については、記録がなく、諸国を巡ったあと、亡くなったとされています。
墨子の思想
墨子は自身の弟子より作成された『墨子』という著書で、墨家の十大主張とする「十論」を唱えており、これが墨子の主な思想とされています。
その中でも、代表的な思想が「兼愛」と「非攻」です。
兼愛(けんあい)
誰でも差別なく平等に愛せよという思想です。
※「兼(ひろ)く愛せよ」という意味。
これは、前述のとおり、墨子は、孔子が唱えた「仁」が自分の家族や祖先、上司に向けた愛であることを、偏愛(限定的な愛)や別愛(差別的な愛)と批判し、これらが人々の悲しみや戦争を巻き起こす原因になると主張しています。
この「仁」に対抗して、他人を差別なく愛せよと説き、これにより、必然的に自分も他人から愛してもらえると、墨子は提唱しました。
他国との争いが絶えなかった戦国時代において、こうした無差別の愛をベースとした墨子の思想は、戦争により自国の領土を拡大したい諸侯たちには決して受け入れられないものでしたが、戦争を望まない一般庶民たちには広く受け入れられ、儒家とともに戦国時代の二大思想として、中国を席巻していきました。
非攻(ひこう)
他国への侵略戦争をしてはいけないという思想です。
墨子は「自国で一人を殺せば死刑なのに、なぜ戦争で百万人を殺した将軍は英雄なのか」と大国の諸侯たちにその矛盾を唱え、侵略戦争をしないよう、訴えていました。
また、墨子の有名なエピソードとして、次のようなものがあります。
あるとき、楚という国の王が、公輸盤(こうしゅはん)という技術者に、雲梯(うんてい)を作らせました。
※ここで言う雲梯とは、遊具のことではなく、古代の攻城兵器として開発された長いはしごのことを指します。
楚の王はこれを使い、隣の国である宋に攻め込もうとしていました。
それを聞いた墨子は、楚に赴き、楚の王にこう言いました。
墨子「ある男が立派な馬車を持ってたのに、隣の家の古びた馬車を盗もうとしています。また、豪華な衣服を持ちながら、隣の家の粗末な衣服を盗もうとしています。王さんはこの男、どう思いまっか??」
すると、楚の王は、
楚王「こいつは、盗み癖があるやわ。アカンやつやで!」
と返しました。
これを聞いて、墨子は、
墨子「やったら、でっかい国の楚が、ちーちゃい国の宋を攻めることと、この盗み癖のある男のすること、これ同じとちゃいまっか!?」
と言うと、楚の王は、
楚王「それはそやけど、公輸盤の立場もあるんよ。兵器まで作ってもらったし、今さら侵略をやめるわけにはいかんわ!」
と言って、侵略戦争を辞める気がないことを、墨子に伝えます。
そこで、墨子は公輸盤と机上で模擬攻城戦を行うことにし、
その結果、見事に勝利を収め、楚の王に雲梯が攻城戦では役に立たないことを証明して見せました。
これで完全に面子を潰された公輸盤は、
公輸盤「これで勝ったと思うなよ!俺にはまだ秘策があるからな!」
と、墨子に言い放ちます。
すると、墨子は、
墨子「秘策っちゅーのは、ワイをこの場で殺してしまおうということでしょうが、もうすでに手は打ってあります。ワイの弟子300人を宋に派遣してあるんで、もしワイが殺されても、ワイの弟子たちが必ずや宋を守ってみせたるで!(ドヤッ!)」
と言い返しました。
このやりとりに感嘆した楚の王は、宋を侵略しないことを誓い、
墨子は亡国の危機から宋を未然に救うことに成功したのでした…
…で、終わればよかったのですが、この話には続きがあり、
楚からの帰り道、雨が降ってきたので、宋の城門で雨宿りをしていると、墨子は城兵から乞食と勘違いをされ、なんと追い払われてしまったのでした。
(国を楚の侵略から救った人物なのに、なんともカワイソウ…)
このように、墨子は王に諫言するという命がけの戦争回避をしつつも、実際に弱小国に弟子を配置し、仮に戦争となれば、守城戦にも協力するということを、墨家として実践していました。
ただ、戦争反対という理念をただ訴えるのではなく、それに応じた実務もしっかりとこなしていたところが、このエピソードのカッコイイところです。
ちなみに、この「非攻」とは、あくまで侵略戦争がNGなだけであって、専守防衛についてはOKと唱えています。
※専守防衛・・・他国へ攻撃をしかけることなく、攻撃を受けたときにのみ武力を行使して、自国を防衛すること。
墨子の名言
義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非ず
正義を行うということは、世間から嫌われず好かれるように振る舞う、ということではない。
つまり、世のためになることをするのは、自分が世間から評価されるために行うのではなく、人として当然の行いだからするのだ、という意味。
おそらくは、上司に気に入られようと、いいように振る舞う人を墨子が見て、こう思ったんじゃないかなと思います。(で、その人が礼ばかり重んじる儒家だったりして...)
弓張って弛(ゆる)めざるがごとし
弓を張ったまま緩めることをしないと、弓は役に立たなくなる。
人も働いてばかりで休まないとこの弓のように壊れてしまう。
そのため、人にも適当なくつろぎが必要であると言っています。
(あのー、まだ有給がたくさん余っているので、使わせてください...。)
乱のよって起こる所を知って よく之れ(これ)を治む
争いはそれが起こる理由の根本を知って、初めてよく治めることができる。
なにか問題を解決するときに、その場しのぎのことをしても、何の解決にもならないので、問題が起こった根本原因をしっかり調査し、その上で対策を講じることこそ重要であると言っています。
結構、当たり前なことを言っていますが、実際はないがしろにされがちだよなーとは思います。
不足をかいて有余(ゆうよ)を重ぬるなり
不足している者からさらにものをとり、その分を有り余る者に重ねるようなやりかたをすれば国は滅びる。
つまり、過度な増税は国を滅ぼすと、すでに紀元前に生きた人が言っておりますなぁ。
おわりに
これまで紹介した孔子や老子と違い、守城戦のプロフェッショナルというところに、何か惹かれるものがありました。
たまに仕事でもプライベートでも、言っていることとやっていることが伴わないタイプの人がいると思いますが、墨子はこれが常に一貫しており、そこにカッコよさを感じる人物だなと、改めて思いました。
他にも、この歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!